第10話 十二月三十一日
もう10月になったのになんでこんなに暑いんですかね
翌日昼前。
リリーは目を覚ますと一階に下り、家族で朝食兼昼食を食べた。
食後、キッチンに行くと様々な料理が作られている途中だった。野菜スープ、ミートパイにフライドフィッシュ、サンドイッチ、プディング。
明日はいよいよ『フィリッパの夜明け』だ。
フィリッパの夜明けはペンクスリの古い慣習である。
その昔、人々が神を信仰し始めたころ、突然世界が夜で閉ざされた。絶えず来るはずの朝はいつまでたっても姿を見せず、星のない夜が人々を不安と恐怖の底に陥れた。夜の生き物たちが跋扈し、いつ明けるかもわからない夜を幾何の間過ごしたのだろうか、一人の女が現れた。
名をフィリッパと言い、自らを旅の者だと述べた。フィリッパが杖を振ると、彼女を中心にまばゆいばかりの光が大地と空に降り注いだ。次第に闇は衰え、光が全てを照らし出した。昼と夜は元通りの姿となり、久々に現れた暁光が、憂いに沈んだ人々を優しく救い上げた。
それ以来人々はフィリッパを偉大なる夜明けの聖女と讃え、夜明けの日を一年の始まりである一月一日とした。その前日の十二月三十一日にはフィリッパに供物と祈りを捧げ、新年の一月一日にそれを食するようになったという。
つまり、キッチンにある料理はどれも明日のためのもので、今夜は断食だ。
リリーは余ったパンの耳をこっそりとつまんだ。
「毎年こうして、あの女のために祈るとは律儀なものだな」
ふいに耳鳴りのような感覚がした。あいつだ。
ここには母がいる。ルシフェルが姿を現すと必ずパニックになる。それはまずい。
リリーは静かにキッチンを離れた。
「あなた、毎年それ言ってるわね。ただの伝説でしょ」
「いや、あの女は確かにいた。なぜなら私と契約をしたからな」
リリーは眉を顰めた。
「フィリッパと? ならフィリッパの魂はあなたが持っているっていうの」
ルシフェルは、呆れたような含み笑いをした。
「手元にはない。今はな。それよりもお前――」
「リリー、誰と話しているの……?」
ハッとして後ろを振り返ると、キッチンの扉の隙間から母が覗いていた。片手には包丁を握り締めて、これでもかというほど大きく目を見開いている。
「なんでもないわ。ただの独り言よ」
(しまった。声が聞こえていた……)
リリーは距離を取るために後ずさりをした。しかし母がリリーに恐る恐る近づいてくる。そして、怯えた表情でリリーに刃を向けた。
「違う……、あいつでしょう? あいつの声が聞こえるんでしょう!」
「大丈夫よ、本当に何でもないの」
母の息が荒く、まるで目の前にいる実の娘のことが見えていないようだった。
「お母さん、わたしは本当に大丈夫だから、安心して。ね、いつものわたしよ。だから、その包丁を置いて」
(――ああ、面倒臭いことになった)
心の中で苦虫を噛み潰した。「約束」がある限り、成人するまではルシフェルはリリーと家族以外の前で実体化しない。しかし、悪魔に敏感な家族の前で実体化するということは、パニックが起こるということだ。現に、それは今までで何度もあり、その度にリリーと家族の距離は離れていった。
(ルシフェルが語りかけてきたからキッチンを離れたのに、油断していた)
「無理よ!」と母は金切り声で叫んだ。
リリーの指がぴくりと動く。心臓がひとつ、大きく波打った。
「あなたの中にはあいつがいるのよ! 私には無理……あなたが怖いの。ごめんなさい、あなたのせいじゃないのに……。でも、もう、あなたのことがわからないのよ!」
母は包丁を握り締めたまま腰を抜かすように座り込んだ。そして声を上げて泣き出した。
「ごめんなさい、リリー。……今は、ここから離れて……」
リリーは母を見下ろし、無言でその場から去った。そして自分の部屋へと駆け込み、ベッドに飛び込んだ。熱を持った涙が枕に染み込む。
ただ、悲しかった。悲しくて悲しくて仕方がない。自業自得だ。母のせいではない。母はああ言ったけれど、本当は自分を愛してくれているのだ。だから、自分は母を理解しなければならない。
(でも、本当に愛しているのは――)
思わず嗚咽が出た。シーツをきつく握り締める。
リリーは本当のことを知っている。この家族は十年前で時間が止まったまま一歩も進んでいない。母が本当に愛しているのは魔女になる前の無垢な娘。父が本当に愛しているのは世間体の良い家族。祖母が本当に愛しているのは、言いつけを守る素直な孫。全部、十年前で止まっている。変わったのはリリーだけ。
(わたしは必要がない。消えてしまいたい)
自分の鳴き声と不協和するように悪魔の高らかな笑い声が耳に入った。
「あははははははははははははは! 最高だ、リリー! 君の魂は実に最高だ! あとどれくらい待てばもっと美味しくなるのだろうね」
ルシフェルが耳元で愛おしそうに囁く。リリーにとっては全ての元凶である悪魔だ。声のする方に向かって手あたり次第にクッションを振り回したが、当然、ルシフェルに届くことはない。
ルシフェルは実体化した腕で、リリーを強引に仰向けにさせた。顎を掴み、リリーの目に溜まった涙を舌で掬った。
驚いて目を閉じるも、ねっとりとした舌が頬を這う。
「やめてよ、汚い」
「汚くない。君の感情すべてが私にとっては美味だ」
リリーは薄く目を開けた。プラチナブロンドの髪が陽に煌めいて、リリーの顔を覆うカーテンのようでくすぐったい。
恍惚とした表情を浮かべる悪魔は、リリーの髪を優しく撫でた。
「リリー、お前は――」
途端にどっと疲れが押し寄せてきたリリーは、ルシフェルの言葉を最後まで聞くこともなく、静かに目を瞑った。




