プロローグ 【★】
初めての投稿で仕様がわからず、至らない点があると思います。
5/15 挿絵を載せました。一番最後にあるので、見たくない方はそのままバックでお願いします。
「いいかい、神の恩寵。私の言葉をよくお聞き。お前が魔法使いになるとき、絶対に悪魔とは契約をしてはならないよ」
萌葱色の髪を持つ幼子を膝に乗せた老婆は一冊の古い本を開いた。そのページには複数の生物を掛け合わせたような恐ろしい見た目をした悪魔の絵が描かれている。
「どうして?」と膝の上に大人しく座る幼子――神の恩寵と呼ばれた女の子は尋ねる。
「悪魔は人の魂を喰ってしまうからね。天国にも地獄にも行けない。お前も嫌だろう? 天国に行けないのは」
祖母は、こくんと頷く孫の頭を愛おしそうに撫でるとこう続けた。
「そして北の奴らとも交わってはいけないよ。あそこに住んでいる者どもは卑怯な奴らだからね」
「そうなの?」
「そうさ。北の奴らは私たちペンクスリ王国を裏切った卑怯な奴らだよ。絶対に関わってはいけない。お前が不幸になるのは、私は嫌だからね。これは、おばあさんとの約束だよ」
女の子は「わかった」と頷いて、本の中の悪魔の絵を物珍しげに眺めていた。
◆
その日は数年に一度の大雪の日だった。
ちらちらと雪の降り積もる真っ白な大地に小さな足跡をつける。もうすぐ七歳になるリリーは、ブナの木の前で足を止めた。小ぶりなブナの木は葉を全て落とし、代わりに厚みのある雪を被っている。地面にもっとも近い枝を選んで、背伸びをする。重みでしな垂れた枝の上の雪を払い、手袋越しに枝に手を当てた。
「偉大なる古き神よ、我が蛮行を赦し給え。生きるものの腕を折り、脚を折り、我が力の糧とする――」
必死に覚えた呪文を唱え、幹から伸びる枝を次々と折っていく。十分な量の枝を折ったところで、麻紐で束ねて背負子に括り付けた。そしてその小さな背中で背負子を担いだ。よろめきながらも両足でしっかりと踏ん張る。
(あとはニワトコとシラカバとナナカマドと……)
残りの材料の名を反芻して、コンパスを取り出して家に帰る方向を探す。どんよりと厚い曇り空と果てしない雪原、鬱蒼とした森は幼い女の子の不安を掻き立てるには充分だった。冷たい風が吹き抜けてブナの枝がガサガサと不気味に踊る。
今このあたりにいるのはリリーただ一人だけだ。
(大丈夫、大丈夫。次はきっと上手くいく……)
ポーチの肩紐を強く握り締めて、ぎゅっと目を瞑ってから、空を見上げた。白い息を吐いて、森に背を向けて逃げるように歩き始めた。
普通なら六歳の子供が一人でこんな陰気な森に来ることはまずない。むしろ近隣住民でさえも気味悪がってほとんど来ることのないような場所に、リリーがわざわざ一人でやって来たのは箒を作るためだった。
ニワトコ、ブナ、シラカバ、オーク、ナナカマド、トネリコ、それぞれの木から折られた枝を乾燥させる。一番太い枝はナイフで削って柄を作る。柄と枝を合わせて箒の形にすると最後に自分の名前を彫れば完成。ただし、作るのは、 持ち主となる魔法使いでなければならない。
リリーは代々魔法使いの家系に生まれ、父も母も立派な魔法使いだ。魔法使いの子供は六歳のころから自分の杖と箒を作るのが古くからの慣習であり、リリーもそうだった。しかし、リリーは杖を作るのに五回失敗し、箒もすでに六回失敗している。同じ魔法使いの家系の友達たちはみんなとっくに杖と箒を作り終えていた。
年齢の割には弱すぎる魔力と、失敗するたびに増える両親のため息の意味は、六歳の子供にもわかった。
自分は魔法使いには向いてないのだ――何度そう思ったことか。大きな瞳を潤ませながら、投げ出したくなる気持ちを押さえつける。
少しでも早く箒を完成させるために、今日は両親に黙って家を出てきたのだ。
「早く帰らなきゃパパとママに心配かけちゃう」
歩くペースを上げた途端、ふと視界に何かが映ったような気がした。左右を見渡して何もないのを確認してまた歩き始めようとして――。
「やっぱり何かいる!」
視界の端にぼんやりと何かが光っている。青白いような、黄色のような、それでいて何色にも見えるような光が木の陰からチラチラと覗いている。
一刻も早く家に帰りたいが、どうしてもあの光の正体が気になって、気が付けばそちらへ向かっていた。
「ちょっとだけ……ちょっとだけ見てみるだけなら大丈夫だよね」
先ほどまでの不安な気持ちとは一変して好奇心だけがリリーの頭の中を占めていた。
ぼんやりとした光の見えるブナの木まで近づいて――そっと覗いてみて――何もなかった。むしろ光るようなものは何もない。
首を傾げながら、気のせいかと落胆して帰ろうと振り返ったところで、いた。
リリーは驚きのあまりに声も出なかった。森に入ったときも、この木に近づいたときも、確かに人なんていなかったはずだ。
そこにいたのは人間のような、そうでもないような雰囲気を纏ったヒトだった。腰まで伸びた美しいプラチナブロンドの髪は緩くうねり、まるで極上の絹糸のようだ。曇り空なのに、このプラチナブロンドの髪は輝いているようにも見える。中性的な美しい顔立ちで男か女か判別は難しい。そして奇妙なことに、寒いことを感じさせないような薄く白い布を纏っただけで靴も履いていなかった。
腕を組み、その美しい表情を変えることもなく、そのヒトはじっとリリーを見つめて「ふん」と鼻を鳴らした。
「久々にに人間を見たかと思えば、なんだ、まだ子供じゃないか。お前、魔女の子だな。名を何と言う」
その声もまた聞き惚れるほど心地の良いものだった。楽器が奏でる音色のように繊細な響き。しかし、その威圧的な口調に圧倒されて言葉も出ない。
「聞いているのか? 名は何かと、私が訊いている」
睨み付けられたリリーは、すっかり怯えた様子で喉の奥から声を絞り出した。
「……リリー・スピアーズ」
そのヒトは名前を尋ねておきながら、どうでもよさげに一瞥すると、「ところで魔女の子よ、ここで何をしていた?」と別の質問を投げかけた。
リリーはくるりと背中を向けて、背負子の上のブナの枝を見せた。
「箒を作るの」
そのヒトは一瞬瞬きをして、目を細めた。表情は相変わらず冷たい。
「ふん。魔女の子よ、その枝で空を飛ぼうというのなら、それは無理だ。その枝に宿る精霊はお前に力を貸さない」
「どうしてわかるの? 作ってみないとわからないよ」とリリーは目を見開いて拳を強く握り締めた。
今までの失敗作が頭を過る。何度箒を作っても空を飛ぶどころか浮くことすらできなかった。杖にしたってそうだ。唯一の成功作ですら、ほんの一瞬リリーの呼びかけに反応しただけだ。それから毎日何度も呼びかけても杖が応えることはなかった。
「哀れな娘。お前は魔女から産まれながら魔女にはなれない」
気がつけば、リリーの目からはとめどなく涙が溢れ、頬を伝っては雪の上に零れ落ちていた。涙で目を赤くして、キッとそのヒトを睨み付ける。
「なれるもん! パパとママみたいな魔法使いになれるんだから! おばあさんだって、わたしが魔法使いになれるって約束してくれたもんっ!!」
必死な形相で言い張るリリーに、そのヒトは面白そうに顔を歪めた。
「愚か者め、私の言葉を信じずに、祖母の根無し言の方を信じるか」
そう言って、美しい金の髪を揺らしてしゃがむと、温かみのない手でリリーの小さな顎を持ち上げた。ぐいっと顔を近づける。吊り上げられた唇の隙間から白く鋭い歯が覗く。
「その願い、私が叶えてやろう」
その突然の申し出を理解できずに、リリーは、ぱちくりと目を瞬かせた。このヒトが何を考えているかわからないし、怖い。しかし、何故か目を逸らすことができない。昼前の空のように澄んだ青い双眸にはリリーがはっきりと映り込んでいた。
「もしかして、あなたは人間じゃないの?」と、つい口から出た言葉に、すぐにそのヒトは怒ったような鋭い目つきに変わった。反射的にリリーは身を竦めた。持ち上げられていた顎を今度はがっしりと掴まれる。
「私を人間などと二度と呼ぶなよ、小娘。私をお前たちのような人間と同じにしてくれるな」
今まで誰にもされたことがないほど暴力的な目にリリーはすっかり怯えてしまった。しかし、目を逸らすことも身動きを取ることもできずに「はい」とやや擦れた声で返事をするほかなかった。
まだ七つにも満たない子供をきつく睨むと、そのヒトは乱暴に顎から手を離した。
「私は嘘を吐かない。私と契約を交わすことにより、お前はお前が望む魔女になれる。お前は、本当は自分が魔女には向いてないのだと感じているのではないか? 大丈夫だ。私と簡単な契約を済ませばすぐに、簡単に、魔女になれる」
悪い話ではないだろう? と言わんばかりに今度は口角を上げてニヤニヤとリリーを眺める。『魔女になれる』その言葉にリリーの視界はぐにゃりと歪んだ。自由に魔法を使うことのできる自分がそこにはいた。それもほんの一瞬。「ただし」という言葉で現実に引き戻された。
「私がお前を魔女にする代わりに、お前の死後、その魂は私が貰い受ける」
リリーがその正体を尋ねるまでもなく、そのヒトは自ら名乗った。
「我が名はルシフェル。天より落とされ、悪魔となり果てたルシフェルだ。己が魂を悪魔に売ってでもお前は魔女になりたいか? 私には何の能力もないお前をいとも簡単に魔女にするだけの力がある。お前は親から失望されることも、友人から馬鹿にされることもなく理想の魔女になれる。どうだ?」
リリーの心は激しく揺さぶられた。両親のあの落ち込んだ顔を見ることもため息を聞くこともない。両親を安心させられる。おばあさんの期待を裏切ることもなくなる。友人の得意げな顔、馬鹿にした様子で話しかけてくる声もなくなる。
リリーはまだ迷っている様子で「でも……」と呟いた。
「では、特別に力添えしてやろう。その背中にある枝を一本お取り。そして私の言葉を復唱すれば良い」
リリーは言われるがままに背負子からブナの枝を一本取り出した。悪魔の手がリリーの肩に触れる。
「地と海の遍く精霊たちよ、聞くがよい。明けの明星ルシフェルの名において、違命は許さぬ。幼き魔女の娘リリー・スピアーズの力の糧となれ。枝を兎に。アラーティオ」
悪魔の後にリリーが続けて呪文を唱えると、リリーが手に持っていた枝はたちまちその重さを変え、兎へと変化した。大きな目をぱちくりとさせて、リリーは兎と悪魔を交互に見た。悪魔はピクピクとこまめに動く兎の耳に軽く触れ、「カラスに」と唱えると、兎はカラスへとみるみるうちに姿を変え、瞬く間に飛び立って行った。
呆然としているリリーをそっと抱き締め、悪魔は耳元で優しく囁く。
「さあ、賢い子よ。契約を」
リリーが戸惑いがちに小さく頷くのを見ると、悪魔は嬉しそうにその小さな左手を取った。もう片方の手にはどこから取り出したのか羊皮紙があった。
「よろしい。それでは契約を始めよう」
リリーの緑色の宝石のような瞳をじっと見つめて、悪魔は恍惚とした表情で息をふっと吐いた。
「リリー・スピアーズ、汝は悪魔ルシフェルと血と魂による契約を交わし、履行することを誓うか。誓うのなら汝の血を以て契約書にサインを。誓わないのなら契約書の破棄を」
リリーはルシフェルの青い双眸をじっと見つめた、息を吸った。どうしても魔法使いに、父や母のような立派な魔法使いになりたい。その思いばかりが強くなり、悪魔に魂を売るということがどういうことなのか、まだ幼いリリーにはよくわかっていなかった。
「誓います」
そう告げると、唇をきつく噛んだ。傷口から出てくる血液で羊皮紙にサインをする。
ルシフェルは血でサインされた契約書を満足げに受け取ると、手からつむじ風を起こして消えた。
「これにより、私とお前は契約を結んだ悪魔と魔女だ。お前が死ぬまで私はお前のものとなり、お前が死んだらお前は私のものとなる。よろしく、小さな魔女リリー」
『いいかい、神の恩寵。絶対に悪魔と契約をしてはならないよ』
かつて祖母とした約束をリリーが思い出した頃にはもう何もかもが手遅れだった。