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77話 望郷の彼方、ボクシングに魅せられた男達

「立て! 立て小僧っ! まだ、ゴングは鳴っていないぞ!」


 リングサイドから会長のがなり声が聞こえてくる。

 キャンバスに倒れ込む俺は、そんな会長の声を聴きながら。頭の中にはボクシングを始めた頃のイメージが流れていた。


 俺がこのジムに来てからもう10年も経つってのに、今でも俺のことを小僧って呼びやがる。

 入会した当初は、誰もかれもやる気がなくて。ジム生も数えるほどしかいなかったし。どうやって生計を立てているのか謎だった。

 引き籠りだった俺は、チンピラみたいな先輩のかっこうの餌食だった。

 苛められて、使いパシリにされて、何度も辞めようと思った。

 ある日、泣きながら先輩の練習着を洗っていたら、会長が話しかけてきた。


「おまえ、なんでここに来てんだ?」


 俺は気が付いたら、酒臭い息を吐きながら言ってくる会長の胸倉を掴んでいた。


「あんたはなんでボクシングをやってんだよっ!」


 もう辞めてやると思い、積もり積もっていた鬱憤を全てぶちまけてやった。

 学校で受けた苛めのこと。それが理由で不登校になって、引き籠りをしていたこと。

 親はなにも言わなかったけれど、それがかえって重圧であったこと。

 漫画に感化されて、そんな理由でこのジムの門を叩いた結果が、結局これまでとなにも変わっていないこと。

 全部ぶちまけて、もう辞めようと思った。


 会長は黙ってそれを聞いていて、最後に。


「小僧が生意気言ってんじゃねえ」


 とだけ言って、事務所に戻ってしまった。


 そして次の日、ジムには行かずに部屋に引き籠っているとなにやら階下が騒がしい。

 気になって見に行くと、母親と会長が揉めていて。

 会長が階段を降りて来た俺に気が付き、首根っこを掴んでを引き摺って来たのは、近所の河川敷であった。


「ジムに来たくないのならここでも構わん。小僧、ムカつく先輩どもをぶっ飛ばせるように、今日から儂がみっちり教えてやる」


 そこから、俺と会長の二人三脚が始まった。






「……立てっ! 立つんだ! まだ、ゴングは鳴っていないぞっ!」


 リングから聞こえてくる声に、ぼんやりしていた意識が戻り始める。


「か……い……長?」


 いや……違う、あれは。


「立てロイム! 立ち上がれば君の勝ちだ!」


 バンディーニ、そうだ、あいつはバンディーニだ。

 そして俺はロイムだ。


 思い出していたのは本田だった頃の記憶、それがまるで走馬灯の様に流れていた。

 長い長い俺の人生が、いや、本田史郎の人生がほんの一瞬の間に、俺の頭の中で映像となって蘇った。

 そして意識がはっきりし始めると、先程まで鮮明だったその映像が不鮮明になっていく。

 今の俺は、ロイムなんだ。

 ロイムとして、バンディーニと共にこの世界で、俺達のボクシング人生が……。


 俺はキャンバスに手をつき、膝をつき、震える膝を体を抑え込むように立ち上がろうとする。

 同時に大きな歓声が頭上から雨の様に降り注いでくる。

 顔を上げると、目の前には同じように、ボロボロの身体に鞭打ち必死に立ち上がろうとするエドガーの姿が見えた。


 エドガーは強かった。本当に強かった。こいつは紛れもないボクサーだった。

 ホランドと言う老獪なトレーナーに育て上げられたボクサー。

 これまで俺が戦った相手の中でも、上位に入る強さだった。

 この世界にもこんなに才能のある奴が沢山居るんだ。

 ロワードだってそうだった。

 若さと才能に溢れた、ボクサー達がこの世界には沢山居て。そんな奴らが、バンディーニやホランドのような指導者に巡り合うことができれば、この世界でだってボクシングは最高のスポーツにすることができるんじゃないか。


 エドガーとの戦いは無駄ではなかった。

 港の片隅で行われた、なんの話題性もない試合であったけれど。

 この試合は俺達、現代からやってきた、ボクシングと言うスポーツに魅了された男達にとっては、とても大きな意味のある試合だったと思える。


 だから……、だから負けたくねえ。


 負けられねえっ!


 俺は死力を振り絞り、両足に力を籠める。

 なんとか踏ん張り、立ち上がるのだがそのまま尻餅をついてしまう。

 それでももう一度、もう一度手をつき、膝をつき、キャンバスに両足をついて踏ん張る。

 レフェリーのカウントは、シックスカウントまで進んでいた。

 エドガーも歯を食いしばり、踏ん張ってみせてなんとか立ち上がる。


 俺とエドガーは向かい合うと、お互いの目が合った気がした。


 もうエイトカウントだ。


 先にファイティングポーズを取った方が勝ちだ。


 腕が重い、震える。くそっ、上がらない、エドガーはもう少しで……。


 そしてエドガーは俺のことを見据えると、レフェリーがテンカウントを告げる直前口元に、にやりと笑みを浮かべた。


 ゆっくりと傾いて行くエドガーの身体。

 舞い降りる白い布は、エドガーサイドから投げ込まれた物であった。


 テンカウントを告げる直前、倒れ込むエドガーの身体を支えると、レフェリーはタオルが投げ込まれたことを確認して、右手を大きく掲げて左右に振った。


 そして俺とエドガーの試合は、俺のTKO勝利で幕引きとなるのであった。



 続く。


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