18話 リバーブロー
「セルスタああああっ! 手加減しろと言っただろうがあっ!」
審査員の一人が怒鳴っているのが聞こえてきた。
試験で選手を壊してどうするんだとお冠である。
拳闘試合にテンカウントはない。
相手が続行不能になるか、降参の意思表示をするまで試合は続けられる。
セルスタは俺の前に片膝を突くと、周りには聞こえない程度の声で言ってきた。
「ああ言ってるぜ、手加減してやろうか?」
セルスタはにやけながら言う。
明らかに挑発しているのがわかった。
そんな安い挑発に乗ってやるほど青臭くはないが、腹が立つのは確かであった。
俺はゆっくり立ち上がると、鼻血を拭いてファイティングポーズを取った。
審判が、やれるのか? と聞いてくると、俺はゆっくり頷く。
その間セルスタは余裕の表情で俺のことを見つめていた。
目が覚めた。
そんな一撃だった。
あれは本気の一撃ではなかった。
おそらくセルスタが本気で打ち込んできていたら、ガードした俺の腕はへし折れて、そのまま顔面も砕けていただろう。
熊を葬った拳だ。それくらいの威力があってもおかしくない。
本当だったら試合開始1秒で、俺はKO負けだったのだ。
ふざけやがって……。マジであったまきたぜ。
俺はゆっくりと身体を揺らしてリズムを取り始めると、その様子をセルスタは表情を一変させファイティングポーズを取った。
来る!
さっきと同じダッシュだ。
相手の間合いに一気に踏み込んできて攻撃を仕掛ける。
セルスタは紛れもないファイター。
インファイターだ。
真っ直ぐ来る突進を後ろに避けては意味がない、俺は右へステップを踏むとセルスタの左に回り込み突進を躱す。
いい感じだ。
相手のリズムも掴んできた。
躱しながらもう一段ギアを上げて、セルスタのリズムを崩す。
こちらに振り向き、また突進してくるセルスタを今度は右に躱すと、ステップの速度を上げた。
左右にちょこまか逃げる俺に、セルスタは追いつけない。
突進力のある下半身には驚かされたが、ベタ足のインファイターだ。
俺の華麗なステップに踊らされて、足がついてきてないぜ。
いける、これならセルスタの攻撃を躱して懐に飛び込める。
俺は再び突進を躱して、セルスタの後ろに回り込んだ。
セルスタは左足を軸にしている為、振り向くときに右手側に回る癖がある。その時一瞬右肘が上がって脇がガラ空きになるのを俺は見逃さなかった。
セルスタの懐にステップインすると、俺は左のボディーブローを入れてやる。
ブローを打ち終わるとすかさず離脱、セルスタの間合いから出た。
右脇腹、俗に言う肝臓打ちだ。
*****
ここで少し、リバーブローについて説明しよう。
某漫画の主人公も得意としているこのブローは、ボクシングに詳しくない人でも知っている人は多いのではないだろうか。
なぜ、リバーブローが効くのか?
答えは簡単である。肝臓のある部分には筋肉がほぼないからだ。
腹筋と言うと、所謂前面にあるシックスパックと呼ばれる腹直筋を思い浮かべる人が多いだろう。
その腹直筋の横、左右には腹斜筋と呼ばれる筋肉が張り巡らされている。
前面は筋肉の鎧で覆われている為に、鳩尾や胃の部分を叩かなければ効果が薄いのだ。
なのでリバーブローとは、右側面からちょうど肋骨と肉の境目を突き上げるように打つのが効果的だ。
しかし、ロイムはそれをさらに改良した打ち方をセルスタに対して使った。
体をセルスタにピッタリくっつけるような位置まで潜り込んだロイムは、フックの様に左拳をやや背面から脇腹に打ち込んだのである。
本来であれば、これは反則である。
ボクシングは、後方からのブローを禁止しているからだ。
しかし、この世界の拳闘試合には倒れた相手を殴打するのは禁止と言うルールはあるが、背面から打ってはならないというルールはなかった。
そんなルールの穴を突いたリバーブローであった。
さて、話をロイムに戻そう。
*****
これには、セルスタも堪らずに俺と距離を取るしかなかった。
当然だ、皮と脂肪でしか守られていない部分を突き上げてやったんだ。
ぶっちゃけ、ちょっと卑怯だなとは思うが形振り構っていられねえ。
へっへ、セルスタの野郎、青い顔して冷や汗かいてやがるぜ。
このボディーブローを打ち続けてやる。
俺にはおまえらと違って知識がある。体格差やパワーを補って有り余るくらいの知識がな。簡単にガードなんてさせねえぜ。
俺は前後左右に身体を揺らし、フェイントを織り交ぜながら、セルスタの懐に飛び込んではブローを打ったり打たなかったりを繰り返す。
セルスタも反撃をするのだが、俺のヒットアンドアウェー戦法に翻弄され拳は空を切る。
その内セルスタの足は止まり、両手を頭の付近まで上げてガードを固めると丸くなってしまった。
だが、ボディブローだけで相手をキャンバスに沈めるのは容易ではない。
やはり、顔への攻撃をしなければダウンを奪うのは難しいだろう。
しかし、それも既に考えてあるぜ。
普通に打っていたら俺の右ストレートはセルスタの顔面には届かないだろう。
だが、ボディーブローで呼吸ができなくなり、膝が落ちて前屈みになった瞬間がチャンスだ。
そこへアッパーをぶち込んでやる。
どんなに体を鍛えても、脳味噌まで鍛えられる人間はいない。
顎への打撃は脳を揺らす、そうすると平衡感覚を失った人間は立って居られなくなる。
それで俺の勝利は確定だ。
内臓を鍛えておかなかったおまえが悪いんだぜセルスタ。
まあ、メディシンボールとかないだろうから無理だろうけどな。
ちなみに俺は酒樽で代用したぜ!
止めを刺してやろうと、俺は再びステップのギアを上げてセルスタの懐に飛び込もうとしたその時。
なぜか俺は背筋に嫌な悪寒を感じて足を止めた。
堅く固めたガードの隙間から見えるセルスタの光る眼。
あれは、獲物を見る眼だ。
これから狩ろうとしている相手を見据える眼。
セルスタは、俺のことを狩るべき獲物だと認識したのだ。
セルスタはガードをゆっくり下ろすと、口元に笑みを浮かべた。
「これを全部、自分で考えついたのだとしたら、末恐ろしい子供だ……でも、乱発しすぎたな」
そう言うとセルスタは身体を揺さぶり始めて、ステップを踏み始めた。
嘘だろ……。
まさか、今の今までいいように打たせていたのは、俺のステップと攻撃リズムを盗むためだったのか?
そのまさかであった。
俺のステップとリズムに合わせて、セルスタは呼吸をする。
そして、さっきまではついてこられなかった俺の左右のステップに、易々と追いついてきたのだ。
信じられなかった、さっきまでベタ足で進むことしかできなかったセルスタが、器用にステップを踏みフットワークを使い始めたのだ。
これが、“拳神の再来”と呼ばれる男の実力……。
俺は、その反則的な才能を前に、愕然とするしかないのであった。
続く。