血染めの島
日本軍の攻撃はなおも続いていた。
丘の周囲を守る我々はよく頑張り押し寄せる日本兵を倒し続けた。
しかし日本軍は我々の防衛線の隙を縫って続々と高地に侵入しつつあった。
我が軍の中央の防衛線は日本兵に包囲されつつあった。
このままでは一気に高地を守る全部隊が総崩れになる危険もあり大隊司令部から高地に集結し敵の中央突破に備えよとの命令が下された。
高地の防御陣地まで我々が移動するとすでに日本軍は高地のふもとに集結しはじめており我々は迎え撃つ体勢をととのえた。
日本軍は高地に陣取る我々を粉砕するべく総攻撃を開始した。
高地に向かって日本軍からの一斉射撃が始まった。
丘に陣取る友軍の砲兵部隊や機関銃がそれに対して一斉に撃ち返した。
つづけて日本軍の突撃部隊が絶叫を上げながら丘をめがけて突進してきた。
それを迎え撃ち我々は一斉に射撃を開始する。
打ち上げられた照明弾に日本兵の一団が照らし出されては我々が撃ちだした砲弾と銃弾がそこへ濃密に降り注ぎ日本兵を粉砕していく。
しかし日本兵を倒しても倒しても別の日本兵の一団が突撃してくるという有様だった。
日本軍もたくみな浸透戦術で我が軍の陣地に肉迫する。
丘を守る我々のあらゆる陣地は日本兵の肉迫攻撃にさらされた。
私たちは無我夢中で撃ちまくった。
日本軍も何が何でも丘を突破しようと死に物狂いで攻撃を続けた。
戦闘は苛烈を極め我が軍の中央の防衛線が分断され突破されかける。
そのとき中尉の階級章をつけた人物が数名とともに我々の塹壕へ滑り込んできて中尉殿がこう言った。
「少尉!部下を借りるぞ!何名かついて来い!防衛線に空いた穴を埋める!」
ジョンソン二等兵とヘンダーソン二等兵を引き連れ入ってきた数名の部下とともに壕を飛び出した。
中尉自ら先頭に立って日本兵によって制圧されたタコツボに肉迫する。
手榴弾を投げ込んだ後、白兵攻撃を仕掛け日本兵を倒しタコツボを奪い返した。
するとまた次のタコツボへと向かい同様にして次々とタコツボを奪い返していった。
この行動を見ていた我々も勇気付けられ大いに士気が上がった。
日本軍の突撃攻撃は止むことを知らずなおも決死の突撃攻撃を繰り返した。
さらに高地後方にも回りつつ丘全体が日本軍の攻撃を受けていた。
とうとう後退命令が出さる。
我々はいったん後退し火線保ち日本軍が消耗するのを待った。
それはもうひたすら待った。
夜明けごろさすがの日本軍も相当数の戦力を消耗したようで突撃攻撃の波も弱まった。
日本軍は兵力を消耗しすぎているのは敵である我々の目にも明白でありこの時点に来てやっと長い戦闘の終わりが見えてきた。
日本軍はとうとう力尽きて日本兵はバラバラに散って退散していった。
日本軍の攻撃は失敗に終わった。
翌日には敗走した日本兵の殆どは駆逐され我々は再び日本軍の攻撃から飛行場を守りきった。
しかし今回の高地での戦闘で我々が日本軍の突破を許していればヘンダーソン飛行場は日本軍の手に落ちていたかもしれない。
後から聞いた話によると日本兵の一部は飛行場へ突入していたそうだ。
高地は日本兵の死体で埋め尽くされ我々は血染めの丘と呼んでいる。
高地での戦闘の後日マイケル一等兵が言っていた。
「海兵隊のお偉いさんは栄光ある名前だとか言って戦闘を指揮した中佐殿の名前を冠した名前で呼びたがる。
だけど実際に戦った俺たちからすればあれはまさに血染めの丘ですよ。俺たちもジャップも必死に戦った。」
血染めの丘での戦闘の後ジャングルに逃げ込んだ日本兵は補給がなく我々が遭遇するのは日本兵の餓死死体ばかりであった。
この血染めの丘で我が軍は150名ほどの死傷者を出した。
一方日本軍は1000人以上が死亡した。
丘での戦闘の後、私は日本兵の突撃の時にあげる歓声や雄たけび、突撃してくる日本兵の姿がずっと頭から離れなかった。
我々の撃ちだした銃弾や砲弾によって丘のいたる所に八つ裂きや細切れにされた無残な日本兵の死体が大量に転がっていた光景も目に焼きついていた。
私はこの島でのこの状況すべてが嫌になりこの島から一刻も早く出たいと感じるようになった。
開戦時は正義と自由の為と合衆国をだまし討ちした日本への復讐の為に戦うと決心して出征した。
しかしもはやこの戦争という現実に絶望し次第に早く故郷に帰りたいとしか思わなくなっていった。
私は志願兵で日米開戦より以前から軍にいたが血染めの丘での戦闘の後、私は帰国したいと強く希望した。
しばらくして精神的障害が認められ除隊が許されることとなった。
その後本国に帰国し軍を除隊した。
私が戦ったガダルカナル島での戦闘は私が除隊し島を去った後も年が明けた1943年になっても続いた。
最終的にガダルカナルの戦闘ではアメリカ軍は5000人以上の死傷者を出し日本側は25000人以上が死亡した。
私が除隊した後もガダルカナルでの戦闘やその後の太平洋各地戦場での日本軍との戦いは続いた。
1945年8月、日本帝国は降伏し世界中を巻き込んだ第二次世界大戦が終わった。
しかし日本との戦争が終わった後も私の祖国は朝鮮戦争、ベトナム戦争と戦い続ける。
日本との戦争が終わり間もない頃、ガダルカナルで私と同じ中隊にいたウィルバート少尉と再開したことがあった。
私の部下だったマイケル一等兵はサイパン島で戦死、ドーソン軍曹もぺリリュー島で戦死したとの話を彼から聞いた。
ウィルバート少尉自身はその後沖縄などでも戦ったが終戦まで生き残り少佐にまで昇進したが日本との戦争が終わると同時に軍を退役したと話していた。
私は軍を除隊してからは仕事や住む場所を転々としながらも普通の生活を送った。
しかしガダルカナルでの戦闘の記憶はいつまでも消えることは無かった。
特にあの丘での日本兵たちの姿が脳裏に焼きついており忘れられなかった。
あの丘での戦闘の夢を見て飛び起きる夜がずっと続いた。
普段の生活においても日本兵が突撃の時に発するあの雄たけびがどこからともなく聞こえてくることがよくあった。
仕事に就いてもこれらのおかげで長くは続かなかった。
私は戦争が終わっても障害に悩まされ続けた。
オチをもっときれいにまとめたかった