なろうファンタジーと質
以前から私はなろうのランキングの序列はアニメではその序列通りには受けないと書いてきた。ただだからってニッチなのか?これは別だと思う。ここが難しいんだ。例えば少女漫画はアニメじゃ受けない。基本男性視聴者と全く趣味が違う女性オタで構成されてるからだ。アニメ視聴者が偏ってる部分だ。
焼き直しの部分が増えてしまうが敢えて今書くのは、なろうアニメにヘイトが集まってるからだ。それ自体は私は問題だと思ってないんだ。頭を使わない楽しさなので感情にダイレクトに響くものなのでどうしてもそういう受け手を寄せてしまう。もの言わぬ楽しんでる人はいないのか?となる。
自分の主観を信じてるのか?ならそうなる。主観と言うより私の主観は多数派とずれにくい特徴が昔かある。それは私の見方がかなり特殊だからになる。以前から書いてるように頭空っぽにして幼児のように楽しむのがすごく上手いからになる。そしてもちろん客観的なデータを多数見ている。
評価はし無いけど、そこそこ面白いならそこまでニッチだと私は思ってないんだ。問題だと思ってないのは、ヘイトをぶつけてくるのは、少数のノイジーマイノリティだと見てて、これはサイレントマジョリティは別に居ると見ている。
そこで出てくるのはヘイト集団はなろうは出来が悪いからなろうの内輪受けのニッチだという話しだ。明確に劣っているが、何故かニッチな集団はそれをとても高くする異質な集団だと言う理屈だ。実際コレはなろうの中にもいるので困った話しだ。以前から見てるが、ネットでなろうにヘイトをぶつけるのは実はなろうの中にいる批判者が多いって点。
被害妄想じゃないの?違う。アニメ化の前からすでに大量の未アニメ化作品を持ち出してまだまだゴミが大量に来るぞってネガキャンをやってる。なろうの中じゃ少数派なので外に出てなんとか否定の賛同者を得ようと努力してるわけだ。はっきり言って酷い裏切り行為だ。こういったものに無防備ではいけない。だからって感情的になって返してはいけない。
それで私が焼きなおしの面が強いが書いたほうが良いなと思って書いてる。
アニメの集団とずれているから出来が悪いとされたらたまったものじゃない。しかもアニメの集団だって偏った面がある。ただすぐ分かるのは何故嫌われるか?は簡単なんだ。それが感情論であると結論付けれられば問題は無い。似たような作品ばかりだからが一番になる。以前書いた、アニメの視聴者は特にその傾向があるが、希少価値を馬鹿みたいに重視する。
ただこれはマニアの視点じゃない。私は逆だと思ってる。マニアは希少価値を重視しない。良く分かるというのは、似たような作品を大量に見る事なんだ。じゃ希少価値の重視って目が肥えた見方と相反する面があるのでは?そうなる。うすっぺらい程度にしか作品を理解しないで、次々飽きたら移るからこんな価値観になるんだ。
これは大衆的な価値の重視なんだ。ただここで大衆=非マニアは数多く見ないからどれも新鮮である。ここに差が出る。似たような作品ばかりでうんざりするのは、数多く見る視聴者だとなる。ようするにアニオタだ。コア層が2極化する。アニメ特有の刺激を求めて同じ作品ばかりを見る人、これは古いタイプのオタ層がそのまんまになる。次に、漠然とアニメを多数見て飽き飽きした状態になってるがそれでも創作の中でアニメの比重が高い人。
当然後者が多数派になる。何故か?と言うと雑食傾向のライト層の気質持つからだ。これでは出来の良さが図れない。ただ数が多いから面白く無いからだ。ここが一番の問題なんだ。そしてこれは外でネガキャンやってる非主流のなろう読者も同様に成る。
じゃ彼らの言及に意味は無いのか?なら多分無い。
次の問題としてじゃ、そういった視点抜きの出来は?ここからが書きたい事なんだけどね。実はなろうは面白くないのではない、嫌われてるのだ。それじゃトートロジーじゃないか?これがそうでもないんだ。何故なら先ほど書いたが、頭を使わない創作は基本プリミティブな感情に訴えかけるの一番手っ取り早いからだ。セックスバイオレンスがその良い例だろう。
そういった創作で好き嫌いと面白い面白くないはほぼ同一だ。何故なろうが嫌われるか?その2、自己投影の部分が作者のオナニーっぽくてキモイ点。作者のオナニーと重ねて読者もオナニーしてる読書と言う対話の無い世界となる。
その点に関しては、創作の基本である現実逃避が基本、自閉的である点を無視してると思う。それを打ち破るような作品は多分知的である。知的じゃなくて面白いものは多分大体がそういった自閉的な面を抱えている。またはその自閉的世界での自己中心的なわがままが面白さになってる。
これは結局程度問題になる。なろうは酷いか?なら酷い。この点全面的に認める。逆に言えばそれがなろうの良さだと見てるんだ。素人だから工夫が無いとして出来が悪いって結論にこれが結びつくんだ。評価する人の視点を考えないからオナニーだとなると。すべてが繋がってくる。稀に評価するのが、なろうのニッチな読者と言う特殊集団だとなるわけだ。
私はこれがそうとも言えないと思ってる。それは2つある。この視点で進化しすぎて複雑になってしまってダイレクトに自閉世界での自己中なわがままが感じられなくなった作品群にある。これと良く似た現象がロックのパンクにある。今世界的にEMDの時代で、ロックの時代じゃないから古典になるけど。大衆娯楽の一つの創作の参考になる。複雑化しすぎてややこしくなってしまったロックが大衆娯楽として乖離し始めた時期誕生したのがパンクになる。
パンクは受け手の要請から生まれたものじゃない。作り手の論理で出来たものだ。労働者階級=底辺のロックとして出てきた。高度に洗練された音楽なんて作れないからね。素人だから出来が悪いと言うのは簡単だ。だが出来が良い物が行き詰ってる時、果たしてそれは真実なのか?
作り手の視点だけで見るのは不味いんだ。結局はこの新しい流れの中で似たようなものが出ても、その中で洗練されたものが出てくる。それはスタートが素人の寄せ集めなので出来が悪いのか?
実際そこまで当時の高度なロックに詳しいわけじゃない。ただビートルズがすでにその傾向が合った。どうしてもそれまで居たファンってのは慣れがあるから高度なものが求められるからだ。それが1バンドのものだけじゃなくて、ロック全体に広がっていくと?
大衆娯楽と言うのはものすごく良いものって定義が難しいんだ。
そして私がこれがケータイ小説やボカロ小説と違うのは、中年層に受けたものがに若者がのかったものだからだ。なおかつ根底は私が再三指摘してるが、近代小説の前にあった神話英雄伝説、御伽話しなどの古典王道にある点だ。長い歴史の中で面白いと認められたものなんだ。
では何故そんな基礎的な事に気がつかないのか?価値そのものへの考察が足りないからだ。根本は大衆娯楽の出来の良さってなんだろうか?この決定的答えを多分ヘイト側は持ってないんだ。多くの批判者は、ケータイ小説やボカロ小説を持ち出して、あれと似たようなとっとと衰退するだろうと。
だがここで待って欲しい。ボカロ小説に顕著だが、昔から中学生女子には気をつけろというのがある。彼女達がメインになった流行は、彼女達自身がやがて否定する事になるから。それは若者特有の変化を前提とした流行だからだ。同じ事が中年で起きるか?となる。私が危惧してるのは、その次の世代の若者は多分食いつかない可能性を持ってる点だ。
これは一過性の流行とは違う。すべての創作が抱える世代交代の問題でそんな薄っぺらな話じゃない。過去の名作傑作もこのグループに入ってるんだ。
私は多くのヘイト層が勘違いしてる点で、自己投影は必ずしも重ねる主人公の存在が必要じゃないという点だ。なろうと言うのは、その点安直さや単純さにその程度の酷さがあり、その問題をすぐに浮き彫りにしやすいと成る。いじめの論理と同じだ。いじめられる側に条件は無いが、人に嫌われやすい特性を持ち弱者である人物はその対象として選ばれやすいと成る。
簡単に言えばなろう小説は出来が悪いと言うより、好き嫌いの感情と重ねて、攻撃しやすさの方が重要になってる。
けいおんなどにハーレムのキャラ萌えが過去移った話はしたと思う。今時古い話しだが、必ずしも主人公の存在が重要じゃない点で、モテモテの自分はいらないわけだ。じゃどこに受け手は居るのか?神の視点でその世界に居ついてる。自己投影にとって主人公の存在は演出的であって本質ではない。
ただけいおんなどのスタイルは小説には向いてないだけだ。