世界の食文化に革新をもたらしたラーメン王 ー 創造的企業家精神
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カップヌードルを世に出してからの日清食品の成長ぶりはめざましいものであった。
カップヌードルもまたチキンラーメン同様にそれを模倣する製品が次々に現れ、それぞれが製法特許や実用新案を主張した。百福はそれらと争わなければならなかったが、結局、百福の製法特許ならびに実用新案が認められた。百福はそれを公開し、競合する会社に使用を許諾した。
百福は、特許は独占するものではなく、その特許を生かして業界の成長を促すものであると考えていた。
その後、1975(昭和50)年、百福はカップライスを開発し、販売した。これは当時、古米、古古米などと言って余剰米が大量に備蓄され、その消費に窮していた政府の要望を受け容れて開発したものである。百福はこれに三十億円という大金を投資し、カップヌードルの時と同様に専用の自動販売機を作り街角に置くなどして広めていくことにしたが、売上は芳しくなかった。お湯をかけるだけで「エビピラフ」や「ドライカレー」「チキンライス」などの調理済みご飯がすぐにでき、すぐ食べられるというのは、カップヌードルと同様でアイデアとしては良いのだが、そもそもご飯は家で簡単にできるのに、それに高い金を出して買おうという消費者はいなかった。また、既存の給食業者らとの競合もあり、その後の展望も見出せなかった。百福は多額の投資による損失を覚悟で潔く撤退することにした。百福は、「経営は進むより退く方が難しい」と言い、この時の決断を最良の判断であったと評価した。
チキンラーメンは二十世紀最大の発明のひとつであると評されている。
乾電池、シャープペンシル、インスタントコーヒー、レトルト食品、カラオケ、胃カメラ、ウォシュレット、クオーツ時計、フロッピーディスク、CD、青色発光ダイオード、わが国には世界に誇るさまざまな発明品がある。これらの発明によって、日本は技術立国の地位を揺るぎないものにした。
その中でも百福が発明したチキンラーメンは単に製品の開発に止まらず、即席麺という一つの業界を創造し、さらには食文化に革命をもたらした。その点で、チキンラーメンは日本が世界に誇る最上級の発明品と言って過言でない。
しかし、経営者としての百福の他の経営者に秀でた点は、その卓越した才能と先見性、経営手腕の妙ばかりではなく、チキンラーメンやカップヌードルの特許を一般に公開し、競合する会社を育成し、業界の創成に努めた点である。もし、百福が偏狭な人間であり、自身が開発した技術を自身の内のみに止めていたなら、即席麺はチキンラーメンだけに止まってしまい、そしてチキンラーメンを模倣しただけの粗悪品ばかりが出回り、やがて人々からは見放され、今日のような即席麺の業界など成立していなかっただろう。今や、即席麺というジャンルの業界及び市場は国境を越えて世界中に広がっており、まだまだ伸び続ける勢いである。その中において、日清食品は常にトップを走り続け、不動の地位を得ている。当社は国内外問わず屈指の大企業となった現在もベンチャー精神を失うことなく革新的に事業を展開している。それはまさに百福の創業精神を継いだものである。
実は私は安藤百福について記す際に、百福の創造的起業家精神の発露として、①チキンラーメンの技術的創造、②カップヌードルの文化的創造、③「日清焼そばU.F.O」の概念創造を挙げることにしていた。①は勿論、チキンラーメンを開発するに当たり、さまざまな試行錯誤により、アイデアを捻り即席麺という新しいものを世に送り出したと言うことであり、②はカップヌードルの開発に至るアイデアの捻出はチキンラーメンと同様だが、それよりも外出先でも食べることができるというお手軽さによって文化そのものに変化をもたらしたということに注目した。そして③は焼きそばと言いながら、湯をかけて蒸らすだけで、蒸らした後は湯を捨てるという行程の中に「焼く」という要素が一切介在していない点に注目した。もし、「焼く」ということに拘りを抱いていたなら、カップ焼きそばという商品は生まれなかっただろう。それはパラダイムシフトとも言える概念の創造であると考えた。
ところが、よくよく調べてみると、これについては日清食品なり百福なりが創造したものではなかった。最初に「カップ焼きそば」を世に出したのは、1974(昭和49)年、恵美須産業である。当社が「エビスカップ焼きそば」を発売したのに続いて、同年、エースコックが「カップ焼きそばバンバン」を発売し、翌年にはまるか食品が方形カップの「ペヤングソース焼きそば」を発売し、カップ焼きそばはブームとなり、やがて定番商品として定着していくようになるのである。
カップに入っていることがこれらの商品のスタイルであるから、カップからいちいち麺を取り出して湯戻しした上、フライパンで焼いて、またカップに戻すというようなことをしていたのでは、「カップ」という概念が損なわれることになる。「焼き」に拘ることなく、「カップ」の便利さを重視し、それを商品の概念として定着させたところに「カップ焼きそば」の大きな特徴がある。概念の飛躍であり、「カップ麺」の可能性を一層広げることになったと言っても過言ではないだろう。これは百福のアイデアではなかったが、こういう発想の転換は百福が得意とするところであり、業界の創始者である百福の姿勢が生かされたものだと言えないだろうか。
日清食品は「カップ焼きそば」においては後発となったが、1976(昭和51)年、同社が「日清焼そばU.F.O」を発売すると忽ちヒットし、その後、テレビCMに当時人気絶頂だったピンク・レディーを起用したことで一弾と人気を博し、同種商品の売上シェア60%を占めるまでに至った。因みに、日清食品のCMの作り方も特徴的である。ピンク・レディーが歌う「UFO」はタイアップ曲ではないが、たまたま、「日清焼そばU.F.O」発売の同時期にヒットしていたこともあり、その曲をCMとして選ぶと共に、商品名にまで取り込んだところのアイデアは素晴らしい。
「日清焼そばU.F.O」のヒットにより、日清食品は和風そばやうどん、スパゲティなどさまざまな種類の麺がその「カップ麺」のジャンルに投じていく。今も当社は常に新商品を開発し市場に投じていっている。中には際物的な商品も含まれているが、その開発意欲は凄まじい。今のところ、チキンラーメンやカップヌードルのような画期的な商品は登場していないが、生麺タイプのものが投じられるなど新商品に開発に余念がない。
1985(昭和60)年、百福は社長をご子息の宏基氏に譲り、経営の第一線を退く。百福にはまだまだ気力も体力も備わっていたが、優秀な社員が育って来ており、会社の将来を考えた時、自分の目の黒いうちに譲ることとしたのである。
1996(平成8)年、百福のそれまでの功績を讃え、立命館大学は彼に名誉経営学博士号を授与する。百福は「自分のような勉強熱心でもない人間が」と謙遜しながら、その栄誉に浴した。
「やれそうもないことを成し遂げるのが仕事というものである。」
これは百福が残した名言のひとつである。百福のこの創業精神が今も日清食品に息づいて、そのうち、チキンラーメンやカップヌードルをも覆す画期的な商品が生み出されるやも知れない。
2007(平成19)年1月5日、百福は96歳でこの世を去った。その日のニュースによると、朝から餅を食べて元気にしていたが、午後になって急性心筋梗塞で倒れ、そのまま還らぬ人となったということだった。3日前には幹部社員らとゴルフをし、前日には仕事始めで社員を前に30分間訓示を述べていたとも報道されていた。最後の最後まで安藤は
百福が亡くなった週、同年1月9日付の米紙ニューヨーク・タイムズは社説でその死を悼み、「ミスターヌードルに感謝」という見出しを掲げ、即席麺開発の業績により「安藤氏は人類の進歩の殿堂に不滅の地位を占めた」と絶賛した。同社説は「即席めんの発明は戦後日本の生んだ独創的な発明品、シビック、ウォークマンやハローキティのように、日本から世界的に普及した製品と同じく会社組織のチームで開発された奇跡だと思っていたがそうではなかった。安藤百福というたった一人の力で開発されたものなのである」と驚きを表現した。さらに社説は「人に魚を釣る方法を教えればその人は一生食べていけるが、人に即席麺を与えればもう何も教える必要はない」と結んでいる。
後年、次男の安藤宏基(こうき、現日清食品ホールディングス株式会社代表取締役CEO)氏は、あるテレビ番組で若い頃の父・百福について、信用組合の失敗を挙げ、
「経営者としては失格ですよね」
と述べていらっしゃった。勿論、父を嘲笑するためでも愚弄するためでもなく、人一倍お人好しな性格が招いた災いであったことを自らに対する戒めも込めて語り、しかし、そんな人柄であったからこそ、消費者にとって何が必要であるかを掴むことができ、社員と一丸になって会社を経営することができた百福の資質を讃えたものだと私は考える。
百福の人の良さ、消費者の安全と安心を何より第一とする精神、それが日清食品を世界有数の企業に押し上げたのだろう。両親が付けた名前、百の福は最初から与えられたものではなかった。幾つもの試練を乗り越えながら、人生半ばを過ぎてようやく手に入れることができたものである。
百福は晩年、宇宙食の開発を行った。日本人宇宙飛行士が宇宙で活躍する時代に合わせて、無重力状態の中でも食べることのできるラーメンの開発を社員に命じ行っていったのである。「スペースラム」と名付けられたその商品を口にした野口聡一飛行士の評場は良かった。あるいは、百福は自分自身がロケットに乗って宇宙飛行することを夢見て、これの開発を命じたのかも知れない。だとすれば、飽くなきフロンティアスピリットである。
歴史に「もし」は禁句とされているが、それを承知で敢えて言うなれば、この混沌とした現在の日本経済に、もし安藤百福が未だに生きていたならば、ひとつの光明をもたらしたのではないだろうか。私にはそんな気がしてならない。
(安藤百福・完)
次回からは映画監督三隅研次について連載する。