世界の食文化に革新をもたらしたラーメン王 ー 大いなる船出
6.
1958年夏、インスタントラーメンの開発に成功した百福は、それに「チキンラーメン」と命名し、まずそれを大阪梅田の阪急百貨店で試食販売させてもらうことにした。
「お湯をかけて2分でできあがるラーメンです。」
そのように声を張り上げてみたが、周りに居た客の関心は今ひとつだった。そんな簡単にラーメンができるなんて、誰もが半信半疑であった。だが、丼鉢を用意しチキンラーメンを入れ熱湯を注ぎ、蓋をして2分経った頃に蓋を開けるとラーメンがそれらしく仕上がっている。それを客に試食してもらうと、食した客が驚いた顔をしている。それを見た別の客が試食するとまた同じ表情で、そういう風に試食して買っていく客が増えていった。五百食分のチキンラーメンは忽ちにして完売した。
百貨店での試食販売によって感触を得た百福は、大量販売に乗り出す決意をし、大阪市東淀川区(現淀川区)にテストプラントを設けることにした。
百貨店では人気があったが、何分にも未だ世界中のどこを探しても存在しない製品であり、どれほどの需要があるかなど見極めるものは何もない。製品は完成したものの、大量生産に乗り出したところで売れる見込など全くないのである。類似の商品でもあれば、それとの比較で予想を立てることもできようが、それ自体、望むべくもない。しかし、百福には売れると言う確信があった。それは全く根拠のないものであったが、百福は自分の勘を頼りに後は懸命に売り込みをかけるだけだと意気込んだ。
百福は開発したばかりのチキンラーメンを持ち込んでいくつかの食品問屋に営業を始める。しかし思いの外、問屋の対応は何れも冷ややかなものだった。百貨店におけるテストケースの結果など問屋にとってはどうでも良いことだった。何より価格が高い、それが問屋の決心を鈍らせた。うどん玉6円の時代である。その時に1袋35円は高く一般の消費者には馴染まぬ代物だという印象でしかない。問屋からそう指摘されても百福は譲らず、安易に値下げに応じたりはしなかった。彼にしてみれば、うどん玉は小麦粉と塩、水、そして手間が加わっているだけだが、チキンラーメンは湯を注いだだけで仕上がるように調理済の状態で提供しているのだから、高いのは当然という考えである。それを周知させるには時間が係るが、それがこの商品を販売するには重要な課題だと決して妥協はしなかった。
さらに問屋の決心を鈍らせたのは、彼が提案した取引条件である。それまでの商慣行は納品後、一ヶ月分を纏めて売上高を集計し、それを一ヶ月、二ヶ月後決済の手形で受け取ると言うものだった。百福はそれを覆し、現金取引を条件とした。それは問屋にとっては頭を抱える問題であり、当然ながら安易におうじるところはなかった。チキンラーメンの魅力と将来性を予感し販売に乗り気となった問屋も、これには呆れ決断を鈍らせるほどであった。
百福はそれでも懲りず、頑なに自分の信念を貫き、営業に駆けずり回った。そのうち、ある問屋から現金取引を承諾の上、大量の注文があった。先にチキンラーメン誕生の日は製法を完成させた日ではないと述べたが、この注文を以てチキンラーメンが大々的に発売されたこととなったのを記念して、日清食品ではその日を誕生の日とすることになったのである。因みに、大阪市福島区にはそれを顕彰する意味で大きな看板が設置してある。
それを皮切りに他の問屋からも注文があり、忽ちにしてチキンラーメンはヒット商品となった。チキンラーメンが切っ掛けとなって、それまでの「支那そば」「中華そば」は以後、ラーメンと称されるのが一般的となった。
チキンラーメンが爆発的に売れるようになると、今度は消費者から歓びの声が寄せられるようになった。チキンラーメンを食べると「精が付くようになった」「肌つやが良くなった。」と言うようなものだが、まだまだ栄養の行き届かない時期でもある中で、チキンラーメンは鶏のエキスをふんだんに盛り込み、これ一食でも十分摂れるほどの栄養価があった。実際、国立栄養研究所に栄養分析を依頼すると、高い評価が出され、「妊産婦の健康食品」として推奨され、「特殊栄養食品」と認定された。
その頃、三菱商事から再三再四アプローチがあり、原料の小麦粉を当社から仕入れ、チキンラーメンの販売を当社に引き受けて貰うことで契約が成立した。しかも、小麦の仕入は三ヶ月の手形で、チキンラーメンの販売は現金でという破格の好条件である。わが国で最大規模の総合商社が味方に付くことは百福にとって大きく飛躍するチャンスとなった。三菱商事でもまた、「ラーメンからミサイルまで」をキャッチフレーズにするようになった。
チキンラーメンは、、完成後しばらくの期間、苦しい時期はあったものの、これによって華々しく船出することができた。
その後、神戸三宮にオープンした「主婦の店ダイエー」が欧米型の新しい流通しシステムを導入し、チキンラーメンを初めとする即席麺やその他の加工食品を大量に販売することになり、それも追い風となった。
また、百福は草創期のテレビに注目し、コマーシャルを打って出たり、また提供番組を持ったりして、その効果に期待し大いに活用した。
時代は高度経済成長の真っ只中である。
日清食品の営業成績は好調であり、一九六三(昭和三八)年、創業五年目にして、年間売上高は四十三億円にまで達し、大証二部から一部への昇格を果たした。