世界の食文化に革新をもたらしたラーメン王 ー 苦難に次ぐ苦難
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国からの支給品の横流しという濡れ衣を着せられたりしながら戦時中を過ごした安藤百福は疎開先の上郡で終戦を迎えた。
見聞のため、大阪にでてみると、そこは一面、空襲で焼け野原となっていた。焦土となった古くからの商都である大阪で百福は、呆然とし、この先、一体どうしていったものだろうかと考えた。彼は久原房之助氏という財界人を頼り、相談したところ、「こういう混乱期には不動産を買っておくものだ。」とアドバイスを受け、土地を買うことにした。土地が売り物となるという認識がまだ乏しい時代であり、食糧難であることも重なって、土地は安く手に入れることができた。彼はまず、大阪心斎橋でそごう百貨店の北側に三軒の店を購入する。一軒当たり五千円で計一万五千円、現在(平成二十九年)の価値に換算すると約一千倍なので一千五百万円になる。店がどれくらいの規模であったかは分からないが、この当たりの公示価格は現在、坪当たり約千三百万円だから、一坪だけでも三軒分の店の購入価格に相当することになる。彼はこれを皮切りに、御堂筋の梅田新道界隈や現在大阪駅前ビルとなっている一画などに土地を購入した。
百福がもし、それだけの不動産を所有し続け、また増やし続けていたなら、不動産王として財をなし相当な資産家となっていただろう。だが、その代わり、チキンラーメンという世紀の発明はなされなかっただろうし、インスタントラーメンという新たな業界を生み出すことも、食文化に変革をもたらすこともなかっただろう。
百福は戦後間もない頃の焼け野原となった大阪で、多くの人が飢餓状態にあり、餓死者があちらこちらに転がっている様子を見て、食の大切さを改めて思い知り、それまでに手掛けた業種からはすっかり手を引くことにした。勿論、不動産業もである。
泉大津に居を構えると、百福は製塩業を始める。当時は、まだ製塩と言えば塩田による方法が主流であった。だが、彼の方法は違っていた。海水を蒸発させて塩を採る点は変わらないが、塩田ではなく、代わりに海浜に鉄板を敷き、その上に汲み上げた海水を撒き水分を蒸発させるのである。これだと、地面に海水を撒くより断然早く蒸発し、後の手間も容易になる。ただ、塩田と違って、雨が降れば、製塩途中の濃縮液が流れてしまうという欠陥があった。そんな失敗を繰り返しながら、どうにか製塩業は成り立つようになった。その傍ら、漁業にも手を染め、イワシを捕って日干しにしたりもしていたが、そちらは生業と言うよりは道楽のようなもので、できた日干しを近所の方々に只であげたりしていた。
製塩業を営んだのは自身が収入を得るためであったが、働き口がなくブラブラしている若者を雇用するためであった。若いうちは、働かずにいるとすぐに悪い事を覚え、暴徒化することがあり、特に戦後の窮乏期には巷にそういう若者が溢れ、それによって町全体が不良化していく例が多く見られた。百福はそうした現実を各地で見て、自分が若者たちの働き口を作ってやろうと考え、事業を始めて行ったのである。百福には利に賢いばかりでなく、どちらかと言うと篤志家のような面があり、一般の事業家たちよりそうした面が強く、世の困った人々を救いたいというのが事業を行う動機になっていたようである。同じ頃、名古屋に中華交通技術専門学院を設立したのもそういう動機からであった。全寮制で食事付き、しかも授業料無償で、若者たちを集め、自動車の整備や修理、鉄道建設の知識を学ばせ、そういう業界で活躍する人材を育成した。ここから巣立っていった若者たちの中から優れた人材も生まれた。
また、百福は製塩業の方では、青年隊を組織して、若者たちを製塩と漁業に従事させた。百福は若者たちの自主性に期待し、自分たちで規律を守らせ、自主的に働かせ、仕事以外にもサークル活動のようなものを行うのも全て自主性に任せた。
百福は食を自身の事業のテーマと位置付けて以来、どのようなものが良いかをずっと模索し続けており、栄養食品の開発を目的に国民栄養科学研究所を設立し、おいてさまざまな研究を行った。挫折することも多かったが、最初に成功したのは、牛、豚の骨からタンパク質のエキスを抽出した加工食品であり、「ピセイクル」と名付けて売り出した。バターのようにパンに塗って食べるものであり、その品質は厚生省からも評価され、病院などで供給されるようになった。実績としてはのちのチキンラーメンやカップヌードルなどに比べると細やかなものであったが、これが百福にとって食における成功の第一歩であり、その際に得た経験が後のチキンラーメンやカップヌードルの成功に生かされたと言っても良い。
しかし、好事魔多しと言うのか、事業が好調に推移し出した頃、百福はMPに逮捕されてしまう。GHQの幹部が転勤するのを歓送するために政財界の人たちを招いてパーティーを開いたところ、その帰りに捕まったのである。逮捕の理由は脱税容疑だった。
百福が泉大津の青年たちに支給していた奨学金が所得と見做されて当該額の税を納めていないことを以て脱税とされたのである。GHQが歳入不足に陥っていたため、徴税強化を図っていた折であり、百福はその餌食にされたという訳である。あるいは製塩業でそれなりの成功を収めていた百福に対するやっかみで誰かが密告したのかも知れない。
百福は、当時、多くの戦犯や政治犯が収容されていた巣鴨プリズンにしゅうようされるが、彼はGHQを相手に身の潔白を示すために、徹底して闘うことに決めた。百福は容疑を否認すると共に、GHQの下した処分の取り下げを求めて、弁護士を雇い提訴した。
だが、GHQが簡単に折れるはずもなく、提訴を取り下げるよう介入策を講じるなどしてきたが、百福もまた簡単には折れなかった。そのお陰で、釈放されるどころか拘留期間は延びるばかりで二年という月日が流れた。
ある時、家族が面会に来て、帰って行く後ろ姿を見て、百福は家族との団欒を思い、GHQの下した処分に従うことにした。
二年という拘留期間は事業にとって大きな損失となり、百福は泉大津の製塩業を整理し、その金で従業員の退職金を支払い、名古屋の中華交通技術専門学院も閉校した。百福にとってはまたもや訪れた苦難の時期であった。
だが、苦難はそれだけに止まらなかった。
百福が釈放されて暫くすると、知人から発足したばかりの信用組合の理事長に就任してくれるように頼まれた。百福は固辞したが、何度も頭を下げられるうちにその求めに応じてしまう。全く経験のない金融機関の理事長という職責に戸惑った百福であったが、持ち前の事業センスによって営業成績を伸ばしていった。しかし、金融業は本来、保守的でなければならず、積極的な営業姿勢で臨むだけでは危険が伴うばかりである。案の定、信用組合は経営の杜撰さから不渡りを頻出するようになり、母店として資金のバックアップをしていた都市銀行から支援を打ち切られ、遂に破綻してしまう。
信用組合の破綻によって、百福は資産の全てを投げ出さなければならなくなった。
脱税容疑による巣鴨プリズンでの拘留に追い打ちを掛けるような事態となって、百福は無一文になり、振り出しに戻ることになった。否、裕福な家庭に生まれた百福にとっては振り出しどころ、マイナスからの再出発になってしまったのである