世界の食文化に革新をもたらしたラーメン王 ー 戦時下の苦難
3.
ここで余談になるが、安藤百福が生まれ成人するまで育った台湾について、もう少し詳しく述べたい。
先にも触れたが百福が生まれ育った時代というのは、台湾にとって非常に複雑で変化の著しい状態にあった。
もともと台湾には多民族が存在し、それぞれに独立して経済や文化を築いており、統一国家というものが存在しなかった。大航海時代を経て、オランダが入植してきたが、全島を統一するには至らなかった。17世紀になって大陸から漢民族が押し寄せてきて、1662年、その首領である鄭成功がオランダを追放し、同島で初めて統一政権として東寧王国が設立された。但し、漢民族が実効支配したとは言え、大陸にある明からも独立を保った状態にあり、国家と呼ぶに相応しい体裁を整えていたわけではなかった。
17世紀の中頃、明が滅ぶと鄭成功率いる台湾は混乱状態にある大陸に抵抗したが、ヌルハチ率いる清朝が興り、女真族(満州族)が中国全土を統一すると、その勢力が台湾に侵入し支配するようになる。こうして、台湾は中国に組み入れられることになるのだが、以来、台湾内部の動静は清朝の盛衰及びその後の大陸における情勢に合せざるを得ないものとなった。
大陸で辛亥革命が起こり、中華民国が設立されると、台湾でも清朝政府は没落するのだが、それより前に、日清戦争で勝利した日本に対し清朝は大陸の一部(遼東半島)と台湾及び澎湖諸島を割譲した。後に、遼東半島はロシア、ドイツ、フランスの三国より返還要求(三国干渉)があり、最初、日本はこれを固辞したが国際世論を受けて清朝に返還することになった。台湾及び澎湖諸島については台北に総督府を置き、日本が統治することとなった。
日本の台湾統治は当初、強硬なものであったが、国内外の批判を浴び、融和策へと方針転換する。その背景にはアメリカ大統領ウィルソンの民族自決の原則やソ連のレーニンが提唱した植民地革命論が影響していた。しかし、その後、日本は再び強硬策に転じる。台湾を内地と同等と見做す「内地外延主義」の思想から、国内法をそのまま台湾に適用させるとともに、台湾に対し日本語を母語とするように求め、日本の文化や習慣を押し付けるという強引な同化政策を図っていく。当然のこととして台湾では激しい抗日運動が起こるが、日本はそれらを軍事的に制圧していった。
抗日運動の一方、台湾には日本に対して期待する風潮も現れていた。これは台湾に限ったことではなくアジア全土に広がりつつあった傾向である。明治維新により国際的に門戸を開いた日本はいち早く欧米列強の近代的な文化や工業技術さらには軍事力を身に付けていった。富国強兵と殖産興業によって近代化を成し遂げていった日本はアジアの国々から羨望の的となっていた。とりわけ、日露戦争での勝利は、欧米列強を驚嘆させ脅威さえ感じさせた。また列強によって植民地化され隷属させられてきたアジアの国々を鼓舞し、帝国主義による圧政からの解放を望む国際的な運動家たちからは賞賛された。かのレーニンでさえも、乃木希典将軍を高く評価しアジアの小国が大国ロシアを打ち破った様に準え、日本のような小国の台頭に展望を見出した。
日本は大アジア主義を掲げ、自国を盟主としたアジアの連合を目指す。台湾の少なからずの人々がそれに期待した。しかしながら、日本は軍事態勢を強化し、国際社会に台頭していく中で、自らが帝国主義化していった。
台湾統治についても、当地における全般的な発展を望もうとはせず、大陸支配の足がかりとし、同時にそのための食糧供給の背後地という位置づけから農業生産に重点をおく政策をとった。台湾は急速に近代化を遂げた日本がその経験を生かして、台湾全土も同様に工業化を図るなど近代化に努めてくれるものと期待していたのに、その期待を裏切られた形となってしまったのである。後に、日本は台湾の近代化を遅らせる要因を作り出したと批判されることにもなった。
日本が帝国主義への道を突き進むに伴い、軍国化の様相は強まり、国家総動員法など国民を統制するようになる。特高警察や憲兵が国民の行動を監視し、次第に息苦しい時代となっていくのだが、百福も例外ではなかった。
百福は、戦時中、繊維の他に光学機器や精密機械の製造、飛行機エンジンの部品製造などにも事業を拡大していた。川西航空機の下で軍用機エンジンの製造を請け負っていたのだが、軍需工場であるから部品等は国からの支給である。当然、軍による資材管理は徹底しており、僅かでも狂いがあってはならない。ところが、ある時、資材管理を担当する社員から資材の数が合わないと報告があり、百福は慌てて検査をした。すると、確かに数量が合わないのである。このことが検査によって発覚すれば、只では済まないと考えた彼は自発的にその旨を警察に届けた。そうでもしなければ、却って疑念を抱かせると判断したからだった。届けをしに行った警察では管轄が違うからと言われ、憲兵隊に届けるようにと言われ、赴いていったのだが、その場で身柄を拘束されてしまう。
本当はお前が横流ししたのだろうと尋問され、挙げ句、自分の罪を他人になすりつけてけしからんと暴行まで加えられた。いくら無実を訴えても聞き入れてはもらえず、拷問は激しくなるばかりで、彼自身が犯人だとする自白調書に署名捺印するようにと迫られた。しかし、百福の意思の強さは、そんなことには屈せず、食事にも手を付けずどこまでも無実を訴えた。
百福は先に釈放された同房の者を通じて、かねてより知己を得ていた元陸軍中将の井上安正に救援を依頼し、四十五日ぶりにどうにか釈放されたが、連日の拷問と節食によって体力は衰え長期の療養生活を余儀なくされた。
結局、横流ししていたのは百福を拷問に掛けた当の憲兵であることが判明するのだが、それについては不問のままだった。