世界の食文化に革新をもたらしたラーメン王 ー 事業意欲の醸成
2.
安藤百福が生まれたのは台湾中西部にある嘉義市付近の樸仔脚(現・嘉義県朴子市)という所である。樸仔脚は製塩の盛んな布袋鎮の近くにあり、また意麺という麺類の産地として有名な塩水鎮も近くである。安藤は後に製塩業を営むことになり、また、ご存知の通り、麺類の生産販売によって大成功を収めることになるが、生まれ故郷のこうした状況と何か縁を感じさせる。
安藤百福の生家は相当な資産家であったらしい。その家の三男に産まれた安藤は、そのままであれば両親と兄二人、妹一人の恵まれた環境の中で育った筈である。しかし、両親は安藤が幼い頃に相次いで亡くなり、祖父母のもとに引き取られた。安藤は後年、自分は両親の顔を知らない、と述べている。まさか親の顔を見たことがない訳ではないだろうが、両親がなくなった頃は余りに幼すぎて記憶に止まることがなかったのだろう。
兄弟を引き取った祖父母は台南市で繊維問屋を経営しており、不自由なく暮らすことができた。祖父はなかなかしつけの厳しい人で、物心つく頃には百福も掃除、炊事、洗濯、雑用と何から何まで家事を言いつけられ、それに従った。だが、それは特殊なことではなく台湾の商家では教育方法として一般的に行われてきたことだった。
百福は家事をこなしつつも、その合間に度々、店に出てその様子を眺めた。祖父の店は繁盛しており人の出入りも多く常に活気があった。じっと机に向かって勉強することよりも百福は店の様子を眺めていることの方を好んだ。店に出ている間に算盤を触って、足し算、引き算、かけ算、割り算を独学で身に着けていった。
それが百福に事業に対する興味を植え付けることとなった。
彼は学校を出ると、一時、知人の誘いにより図書館司書として勤めるが、事業に対する興味は捨て難く、そこを二年で辞めてしまう。但し、図書館に勤めて間、さまざまな書物に触れることが出来、雑学が身についたと振り返っている。
図書館を辞め、祖父の店を手伝った後、事業化精神が一層醸成され、彼は1932(昭和7)年に、22歳の時、彼は父の遺産を元手に資本金19万円で台北市永楽町に繊維商社「東洋莫大小」を設立する。繊維業なら祖父の店を手伝ったお陰で馴染みもあり、そこで得た知識を生かすことができると考えたのだろう。
事業は当初より好調に推移した。百福が目を付けたのは莫大小であった。肌着や靴下など伸縮性のある編み物生地のメリヤスは、当時まだ扱う所が少なく、競争相手の少ない寡占状態の中で展開することができ事業はとんとん拍子に成功していった。翌年には繊維産業の本場だった船場の近くに事業拠点を置く「日東商会」という会社を設立し繊維問屋を始めた。問屋と言っても、「日東商会」は日本で仕入れた製品を台湾に輸出して売る貿易が中心であった。彼はより和歌山、大阪、東京のメリヤスメーカーに足を運び、綿、毛、絹の素材の特長や、糸の太さ、編み方などを直に目で確かめ学んでいった。それによってますます彼の事業欲は高まり、どうせ扱うなら日本一のメーカーの製品を扱うべきだと考え、当時一番のメリヤスメーカーであった「丸松」との取引を望んだ。知人を通して「丸松」を紹介して貰い、取引に漕ぎ着けるが、百福持ち前の商魂のたくましさが発揮された一幕であった。
同じ頃、百福は立命館大学専門学部経済科(夜間)に通うことになった。立命館大学専門学部は第二次世界大戦前の日本にあった大学専門部制度に基づくもので旧制大学の付属機関として設置されていた教育組織である。専門部は、大学令に基づく組織ではなく、専門学校令に基づく別教育機関であり、実学を中心とした教育組織であった。