世界の食文化に革新をもたらしたラーメン王 ー 祖国台湾
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街路樹の銀杏が色づき始めた頃、北京市内にある人民病院のベッドに中国近代史を揺るがした一人の男がその最期を迎えようとしていた。愛新覚羅あいしんかくら溥儀ふぎ、清朝最後の皇帝にして、満州帝国の最初で最後の皇帝であった男である。死を目前に、溥儀はベッドを囲む近親者たちに、「日本のチキンラーメンが食べたい。」と漏らす。溥儀の実弟・溥傑ふけつの夫人である愛新覚羅あいしんかくら浩ひろ(嵯峨浩)の自伝『「流転の王妃」の昭和史―幻の"満州国"』にはそう記されている。溥儀は晩年、好物であったチキンラーメンに未練を残し、この言葉を最期に1967(昭和42)年10月17日、61年の生涯を閉じる。
ラストエンペラー愛新覚羅溥儀、彼の前半生は、清朝そして満州国の皇帝として君臨し贅ぜいの限りを尽くすことができた。庶民が袖を通すことなど決して叶わぬ衣装に身を包み、持て余すほどの財宝を手に入れ、この世で最高級と言える豪華な料理を口にした。
ラーメンというものは、彼にとって大衆が口にする粗末な代物でしかなかった。
その彼が、お湯をかけるだけで簡単に出来上がる即席麺のチキンラーメンを美味と評し、好物だと言って、生死の汀みぎわに所望したというのも皮肉なことである。
だが、宮廷生活の煌きらびやかさとは裏腹に、溥儀自身は失われた清朝の呪縛にいつまでも囚われ続けそれが故に著しく自由を奪われ、毒味役を侍はべらせずには食事も取れず、さらには箸を付ける順序まで決められた息苦しい食事時を思えば、そこには細ささやかながらも幸福を感じることができたのかも知れない。
尤も、大多数の中国人がまだまだ貧しく、彼らにとってチキンラーメンは手の届かぬ高価な食品の一つでもあったから、それを口にできただけでも溥儀は満足であったと言えるだろう。
皇帝から一般市民となった溥儀の暮らしは、決して豊かではなかったらしく、分けても文化大革命以後は「反革命」のレッテルさえ貼られ、紅衛兵らの厳しい監視のもと、やはりその生活は著しく自由が制限されていた。周恩来首相の庇護により命の保証だけはされていたことが救いであった。
そんな溥儀にとって、お椀と箸さえあれば、お湯をかけてたった2分で口にすることのできる手軽さ、毒味役など必要とせぬ安心感、立ち上る湯気に籠もる温かみ、それは虚飾に塗まみれた宮廷生活では決して得ることのできない悦びであっただろう。チキンラーメンは落日の象徴ではなく、若い頃に渇望して止まなかった自由の象徴であったに違いない。
そのチキンラーメンの発明者こそ、立命館大学の卒業生である安藤あんどう百福ももふくである。
百の福、何と恵まれた名前であるか。百とは単に数字を表すのではない。数の多さを示すもので、百福とはたくさんの福と言う意味になるが、両親は両手に抱えることができないほどの福に恵まれるようにとの祈りを込めて、その名を与えたのだろう。
しかし、彼の人生は必ずしもその名が表す通りのものではなかった。チキンラーメンを開発してから晩年に至るまでの人生は確かに常人とは比べものにならないほど恵まれていたが、それまでは時代の波に左右され、浮き沈みの激しい波瀾万丈の人生であった。とりわけ人生の中盤において、彼は苦しい生活を強いられた。しかし、そのお陰で、世界的な発明も為し得たのかも知れない。その人生を振り返ってみたい。
安藤百福は1910(明治43)年、日本統治下の台湾に生まれた。台湾は元々、主に台湾族が住んでいたが、17世紀に漢民族が移住してきて独立国(東寧王国)を建設した。しかし、大陸において満州族が支配する清朝が興おこるとその支配下に置かれる。さらに日清戦争により清朝が敗れると日本は台湾を統治することになった。日本による台湾統治は当初強引な植民地政策の様相を呈しており、台湾族、漢族問わず、台湾人の激しい抵抗があった。その後、統治政策の方法を変え、土着の文化や風習を重んじるようになった。
安藤百福が生まれたのはそういう時代であった。この時代、台湾は日本の統治下にありながら比較的自主的で自由な風土にあった。成人するまでの安藤もその風潮の中にあって、進取の気質が養われたのかも知れない。
日本が大アジア主義を掲げ、大陸経営に積極的に乗り出していくのにつれ、台湾に対する統治政策は次第に専横性を帯びてくる。日本は台湾に対し、日本語を母語とするように求め、日本の文化や習慣を押し付け強引な同化政策を図っていく。
そうした時代の趨勢も安藤の人格形成に関わったであろう。