最終話 さあ、帰ろう
コトリ。
音がして、目を覚ました。大きな音ではなかったけど目が覚めたのは、元々眠りが浅かったのだろう。
サイドテーブルの上に、ランタンが置かれている。ランタンの中のロウソクは、火が付いている。おかしいな。寝る前に、吹き消したはずなのに。
よく見てみると、確かにランタンの火は消えていた。麗葉が火を吹き消したランタンの横に、もう一つ、火の入ったランタンが置かれていた。さっきのコトリという音は、これを置いた音だったんだ。
「あっ、ごめんなさい。起こしてしまいましたね。」
灯りに照らされる、大人の女性と、その見た目に似合わない、子供のような声。あやねさんだ。
「窓の鍵を、確認に来ただけです。ゆっくり眠っていてください。」
麗葉は小さく首を横に振り、上半身を起こす。
「ちょっと、話したいことがあるんです。」
麗葉が言うと、あやねさんは笑った。はじめから、麗葉の言葉がわかっていたかのような笑い方だ。
「ゆっくり聞きますよ。」
あやねさんは、そう言った。
客間のテーブルの上に、キセルと、灰皿が置いてある。まだ、微かにタバコの匂いが残っている。
「キセルって、はじめて見ました。」
「たまに吸うんです。」
あやねさんは煙管と灰皿をテーブルのすみによける。
麗葉もあやねさんも、適当なソファーを選んで座った。
さて、どう話そうか。麗葉はゆっくりと言葉を選ぶ。あやねさんは、麗葉がしゃべりだすのを笑顔で待ってくれている。
「イヌワシって知っていますか?」
考えた末に、出てきたのはそんな言葉だった。
「名前だけは知っていますが、私にはトンビとの見分けもつかないですね。」
あやねさんは笑顔を崩さずに言った。
「この鳥は、雛が大きくなると、親は雛を威嚇して追い出してしまうんです。昔、テレビで見ました。それまでは、大切に育ててきたのに。」
今より幼い麗葉は思ったのだった。自分はイヌワシに生まれなくてよかったと。
「お母さんのおなかに、赤ちゃんがいるんです。手紙に、書いてありました。お姉ちゃんの病気も、治るまで時間がかかるって。」
麗葉は、あえて淡々と話す。
「生まれるまで長野にいなさいって。追い出されちゃいました。私も。」
麗葉は笑ってみせたが、あやねさんは笑ってくれなかった。
「やはり、その話でしたか。」
「知っていますよね。」
あやねさんは小さくうなずいた。あやねさんにも、手紙は届いているはずだから。
「麗葉さん、私はかまいませんよ。この家にいても。私も、責任を持ってあなたと夏芽を守ります。」
本当は、今すぐにでも帰りたい。口に出して言えば、あやねさんはどうするんだろう。
「なんで、私をこの村に入れてくれたんですか? ここ、ハネキツネの村やのに。」
麗葉は尋ねてみた。
「はじめて、麗葉さんのお母さんから手紙が届いたときは、驚きました。高校を卒業してからは、一度会ったきりでしたから。なのに突然子供を預かってほしいなんて書いてあるんですから。」
あやねさんは、一度息を吐いた。
「悩みました。夏芽が寂しい思いをしているとは知っていました。村に、同年代の人間はいませんかあら。でも、それだけの理由で麗葉さんを受け入れてしまうと、あなたを不幸にしてしまう気がしたんです。」
「不幸?」
「はい。ハネキツネという存在を、受け止めきれないのではないかと思ったのです。」
確かに、そのことは驚いたし、今でもハネキツネの存在を心の底から信じているかと訊かれると、返事に困る。
「村長にも相談に行きました。これほど悩んだのは、夏芽を育てるかどうか悩んでいた時以来です。」
「ごめんなさい。ご迷惑をおかけして。」
あやねさんは、麗葉のほほに手をあてた。
「そんなことないですよ。夏芽が、麗葉さんに会いたいと言ったから、ここに来てもらうことにしたんです。夏芽の言ったことは、正しかった、今はそう思えました。」
「私……なんにもしてへん。」
あやねさんは、座ったまま頭を下げた。
「麗葉さん、来てくれて、ありがとうございます。夏芽の姉になってくれたこと、ハネキツネと、人間とを同じように接してくれていること。とても、感謝しています。」
夏芽との姉妹ごっこの話、あやねさんは知らないんだと思っていた。夏芽が話したのだろうか。
「ハネキツネは、耳がいいです。」
そう言って笑ったあやねさんは、いたずらを成功させたときのような、得意げでありながら、申し訳なさも含んだ笑顔だった。
「冬休みの間、様子を見ましょう。転校の手続きも、しばらく待ちます。」
あやねさんは「さてと」と言うと、立ち上がった。
「ホットミルクでも飲みますか? ゆっくりと眠れますよ。」
「はい。お願いします。」
あやねさんは台所へ行った。客間のドアが、閉まる。
しばらく帰れそうにないな。麗葉はため息をついた。
ドアが開いた。
あやねさんが戻って来たんだと思った。だけど、ドアのところにいたのはあやねさんではなかった。
美咲ちゃんだ。小柄な体格で、左右で髪を結んでいて、おまけに私立小学校の制服を着ているから、間違いない。
「なんで、ここいてんの?」
「麗葉が私を呼んだからやで。」
美咲ちゃんは、いつもの笑顔を浮かべたまま、麗葉の正面のソファーに座った。うれしいな。こんなにはやく会えるなんて。
「れーちゃんの嘘つき。帰るから待っててってゆうたのに。」
一瞬で、美咲ちゃんの笑顔が消えた。
「ごめん。」
麗葉には、それしか言えない。
「私、麗葉がいいひんかったら、ひとりぼっちになってしまうやん。わかってんの?」
「……ごめん。」
美咲ちゃんは、今にも泣きだしそうな顔をしていた。麗葉は、耐えられなくなってうつむく。
「謝らんでいいから、帰ってきてえな。」
「……ごめん。」
「もういいっ。」
美咲ちゃんはテーブルを叩くと、部屋を出ていった。乱暴に閉じられたドアの音は、麗葉の耳に残った。
麗葉は目を覚ました。客間のソファーで眠ってしまっていたんだ。
変な体制で寝ていたせいだろうか。微かに頭痛がする。
立ち上がると、毛布が落ちた。誰かが、かけてくれていたんだ。
「おはようございます。麗葉さん。ごめんなさいね。ベットまで運ぼうと思ったんですけど、さすがに無理でした。」
「ありがとうございます。毛布だけで、十分です。」
麗葉は頭痛に気付かれないようにれないように、気を付けながら言った。
「あの、夜に誰か来ませんでしたか?」
麗葉は気になって尋ねてみた。美咲ちゃんが怒って、この部屋を出ていったことは夢だったと、誰かに言ってほしかった。
「いいえ。誰も来ませんでしたよ。」
あやねさんの、不思議そうな表情で、麗葉は安心した。
今朝の朝食は、お味噌汁に、お漬物。それから白ごはんだ。今までと、さほど変わらない献立のはずなのに、今日は量が多いように感じた。でも、残すのも、あやねさんに悪い。
麗葉は苦労しながら、食べた。
講堂は、麗葉が以前通っていた二つの学校の体育館のどちらと比べても、半分以下の広さだ。でも、学校の全員が入っても、まだ余裕があるから、これでいいのだろう。
麗葉は一番後ろで、冬休みの注意を語る校長先生を見ていた。この学校の校長先生、はじめて見た。髭が印象的な男の先生で、たぶん威厳がある人って、あんな人のことなんだろうな。怖そうだ。
麗葉は、無意識のうちに壁にもたれかかっていることに気付き、姿勢を正した。
「麗葉お姉ちゃん。」
横にいた京花ちゃんが、麗葉の服の袖口を引っ張った。
「なあに?」
麗葉は小声で返事をした。
「お姉ちゃん、この学校に転校するの?」
「なんで?」
「こうして、終業式に出てるから。」
「うーん。どうするか考え中、かな。」
京花ちゃんは、心配そうに麗葉の顔をのぞく。
「大丈夫?」
何を心配されているのかわからない。
「うん。大丈夫やで。」
だから、適当に返事をした。
なんだろう。
軽いめまいがする。終業式の間、ずっと立ちっぱなしだったからかな。
お姉ちゃんは、よく貧血がつらいと言っていたし、酷い時には学校を休んで病院に行っていた。病気なのはわかる。でも、学校を休んでも非難されないお姉ちゃんが、時々うらやましかった。
いや、貧血ではないだろう。麗葉の体は強い方だし、今までなったことなんて一度もないし。
きっと、寝不足だろうな。昨夜はあやねさんとしゃべって、そのまま眠ってしまったから。頭痛もある。今夜は、夏芽と雑談しないで、はやく寝よう。
そんな事を考えているうちに、保健室に着いた。
「麗葉さん。大丈夫ですか?」
あやねさんは、麗葉の顔を見るとすぐ言った。さっき、京花ちゃんも、同じことを言っていたな。そんなに酷い顔をしているのだろうか。
「少し、寝不足みたいです。」
麗葉は、あやねさんを安心させるため、わざと笑おうとした。でも、上手く笑顔が作れなかった。
「ずいぶん顔色が悪いですよ。そこのベットで、眠ってはどうですか。」
あやねさんの言葉の通り、少し眠った方がいいかもしれないな。
「はい、少し寝さしてもらいます。」
麗葉はベットに腰掛けた。
体調の悪い人が、休みたいときに使うベットを、寝不足なんかで使わせてもらうのは悪いな。少しだけ、十分ほど横になるだけにしよう。
麗葉は靴を脱いで、あくびをした。
その途端、喉の奥の方から、いや、胸から何かがあふれ出してくるようなそんな感覚がした。
まずい。
麗葉はあふれ出てくるものを、必死に押さえようとした。息ができなくなり、何度も口をパクパクと動かす。強烈な頭痛が、頭に響く。
苦しい。その思いだけで、頭が一杯になった。
そして、麗葉は嘔吐した。
今朝、食べたものが半分消化された状態で、床に落ちる。
「あらあら。」
あやねさんは、麗葉に歩み寄ると、背中をさする。
「……ごめん……なさい。」
荒い呼吸の合間に、何とか声を絞り出して言えたのは、それだけだった。
「全部、吐いちゃってください。その方が楽になりますよ。」
あやねさんの声を聞きながら、もう一度吐いた。
口の中に、苦いような、酸っぱいような味が広がる。
服を見ると、汚れていた。お気に入りだったのに。
先ほどから、時計を気にしていたあやねさんは「ちょっとごめんなさい」と言って、麗葉が着ている浴衣の胸元に、手を入れた。
あやねさんの手は、麗葉の肌の上を這うように進み、脇にはさんでいた水銀の体温計を引き抜いた。ちょっと、くすぐったかった。
「三十八度二分。風邪ですね。」
あやねさんは、体温計を見つめながら言った。
麗葉が嘔吐したあと、あやねさんは冷静に、なんでもないように、麗葉に口をゆすがせてから、着替えの浴衣を用意して、保健室の掃除をした。麗葉は何度も「ごめんなさい」と言った。
特急は止まらないけど、急行は止まる。そのくらいの大きさの駅で、麗葉はお父さんと一緒に、電車を降りた。いつの頃からか、麗葉をここに送り届けるのは、お父さんの役目になっていた。
この街には、独特な匂いがあった。
お父さんと、お母さんと、お姉ちゃんの家より、ずっと都会で、それ故にゴミも車も多い街だから、そのあたりが原因なんだろうと思う。決して心地よい匂いではなかったけれど、嫌いかと訊かれると、それも違った。
駅から、当時の麗葉の足で十分ほど歩くと、おばあちゃんの家があった。
お父さんは、そこに麗葉を預けると、家に戻っていった。
どんなふうに戻っていったかは、覚えていない。おばあちゃんと短く言葉を交わすと、すぐに戻っていった気もするし、夜、麗葉が眠るまではいてくれたような気もする。もしかしたら、どちらの日もあったのかもしれない。
とにかく、お父さんは、麗葉を置いて家に戻っていった。
体が、ゆっくりと上下に揺られている。それに、とっても寒いな。
麗葉は目を覚ました。保健室で体温を測ってもらったことろまでは、はっきりと覚えている。それから先は、記憶があいまいだ。
頭が痛い。吐き気がする。気持ち悪い。
まぶたを開ける力すら、今は出ない。
「麗葉、大丈夫かな。」
心配そうな、夏芽の声が聞こえた。
「大丈夫ですよ。風邪です。かなり疲れていたのでしょう。」
あやねさんの声だ。
麗葉は、時間をかけて、薄く目を開けてみた。
黒い、何か。これは、髪の毛だろうか。
そこで麗葉は、自分があやねさんに負ぶわれていることに気が付いた。
視線を左右に動かしてみる。
もう、景色も覚えた。ここは、学校とあやねさんの家の間の、山道だ。
雪が降っている。この感じだと、これから積もるのかな。
あやねさんと、夏芽。二人で、並んで歩いているんだ。ということは、あやねさん、仕事を早退してくれたんだろうか。麗葉のために。
「麗葉に触っていた手をほどかれたことがあって。麗葉、本当は私のこと好きじゃないのに、無理してたのかな。」
いつもの夏芽の声とは、まるで違う。元気がない声だ。
麗葉は、本当は夏芽のことが嫌いだったのだろうか。
ううん。そんなことないよね。
「大丈夫ですよ。」
そう言ったのは、あやねさんだ。
「麗葉さんが、元気になったら一度尋ねてごらんなさい。」
「うん。」
夏芽は、少し元気を取り戻したようだ。よかった。
「あやねちゃん。」
「何ですか?」
「麗葉をね、元の家に帰してあげられないかな。」
「いいんですか? 麗葉さんを望んだのはあなたですよ。夏芽。」
夏芽は黙り込む。
ごめんね。夏芽。私のために、悩ませてしまって。何も気にしないで、思ったことを言えばいいんだよ。
麗葉は徐々にまぶたをささえきれなくなった。
もし、帰れたって、楽しい毎日なんて送れない。だって、お母さんは麗葉が邪魔だったから、あやねさんのところに行くように言ったんだ。
次に目を覚ましたとき、周囲は真っ暗だった。何も見えない。
やわらかい、何か。そう、布団か、ベットの上にいる。体の感覚でそれがわかる。ミカンのような甘酸っぱい匂いと、それから、煙草の匂いがする。
ドアが、開いた。そこにドアがあったんだ。
「どうですか?」
あやねさんが、ランタンを持って立っていた。
「……しんどい。」
億劫で、麗葉は短く答えた。
あやねさんのランタンに照らされて、部屋の様子が少しわかった。
壁際に、大きな本棚があって、ベットの横には椅子と、机がある。机の上には、ポットと、ガラスのコップが一つ。入ったことのない部屋だ。
あやねさんは、部屋に入り、机の上にランタンを置いた。
「おかゆ、食べます?」
また、吐いてしまった嫌だな。黙って首を横に振った。
「おなかがすいたら、いつでも言ってくださいね。」
あやねさんは、椅子に座り、ポットの中身をコップに注いだ。
「水だけは、飲んでおいてください。脱水症状になりますよ。」
麗葉は上半身を起こした。頭が、締め付けられるように、痛い。
あやねさんから、コップを受け取り、深呼吸してから一口飲んだ。
冷たい、水だ。
冷たさが胸の下におちるのと交換で、微かに沸き上がった吐き気を、こらえた。
まだ水が残っているコップを、あやねさんにかえす。
「ここ、どこですか?」
「私の部屋です。二階の子供部屋までは、運べませんでした。それに、夏芽に風邪がうつっても、困りますし。風邪が治るまでね、この部屋を使ってください。」
「……ごめんなさい。」
「どういたしまして。」
あやねさんは、冗談っぽく言った。
「情けないです。体は丈夫な方だと思っていたのに。」
「みんな、調子の悪いときもありますよ。仕方ないですよ。」
仕方ないのかな。仕方ないんだよね。
「前にも、お姉ちゃんが病気で入院したことがあって、その時は、おばあちゃんの家に預けられてたんです。」
麗葉は、小さな声で言った。それが、今の精一杯だった。
今でも、覚えている。はじまりは、お姉ちゃんが体調が悪いと言って、学校を休んだことだった。お母さんは、風邪だと言っていた。
でも、何日かしてもお姉ちゃんの体調は良くならなかった。お母さんはお姉ちゃんを病院に連れて行った。おもちゃのような電車に乗って、途中で乗り換えて、一駅のところにある大きな病院だ。麗葉も、幼稚園を休んで連れていかれた。
麗葉が退屈しきった頃に、検査の結果が出た。
お姉ちゃんは、入院することになり、麗葉は父方のおばあちゃんの家で暮らすことになった。
「最初、おばあちゃんの家で暮らすのは一週間だけって、聞いてたんです。そしたら、迎えにいくからって。」
「お母さん、来てくれましたか?」
あやねさんは、めくれた毛布を麗葉の膝にかけた。
「はい。日曜日におばあちゃんの家に行って、土曜日に、お父さんが迎えに来ました。」
「はい。」
「でも、日曜日になると、またおばあちゃんの家に行ったんです。確かに、一週間は一週間でした。けど、一週間の次に、また一週間があったんです。」
大津にある元々住んでいた家と、大阪にあるおばあちゃんの家を行き来する生活は一年ちょっと続いた。おかげで、いつの間にか一人で電車に乗れるようになっていた。
「お母さんはちゃんと説明してくれてたんやと思います。そやけど、ちっちゃかったから。私。」
そう、思いたい。
「一度、元の家に戻っているときでした。夜中、突然起こされて、車に乗せられたことがあったんです。お姉ちゃんが、病院の公衆電話から家に電話したんです。怖い夢を見たとかで。」
お姉ちゃんは、お母さんに買ってもらったテレホンカードを持っていた。使い切ると、また新しい物を買ってもらうのだ。麗葉がお見舞いに行くと、色々な絵柄を、自慢げに見せてきた。
「夜中の病院は、暗かったんです。お父さんも、お母さんも、お姉ちゃんに寄り添っていました。」
非常口の緑色の灯りで照らされた廊下を覚えている。
「お姉ちゃんが退院したら、元の家に戻れました。何もかも、元通り。何もなかったような毎日でした。」
毎朝、姉ちゃんはランドセルをしょって学校へ行き、お母さんは麗葉を幼稚園に連れて行った。
「寂しかったのに、なのに、何もなかったことになっちゃったんです。」
胸が、苦しい。
あやねさんは、麗葉の髪をなでる。
「お姉ちゃんは、退院してからしばらくした頃、学校に行きたくないって言い出したんです。ずっと休んでいて、クラスに馴染めなかったらしいです。そんなの、わがままですよ。」
麗葉は、お母さんに手を引かれて、幼稚園に行った。
「一年間……ずっとお父さんもお母さんもそばにいたくせに。」
麗葉が、叫んだ途端、あやねさんが抱きしめた。
麗葉は身をよじって、あやねさんの腕を抜けようとする。でも、あやねさんは放してくれない。それどころか、麗葉を抱きしめる腕に力を入れた。
「放してください。」
「嫌です。」
あやねさんは、無邪気な子供のような口調で言った。
「でも……。」
そんなことされたら、麗葉はあやねさんから離れられなくなってしまうじゃないか。
「お姉ちゃんが、病気だから、仕方なかったんです。病気だから。」
麗葉は言った。そう、仕方がなかった。
「もう、いいんですよ。我慢しなくても、いいんですよ。」
あやねさんの声は、優しく、耳に入ってくる。
「頑張らなくていいんですよ。楽しい時に笑って、寂しい時に泣いて、いっぱいわがままを言って、周りを困らせて、それでいいんですよ。」
麗葉は体の力を抜いた。
目元が、湿ってくる。
「一か月くらい前なんですけどね、お姉ちゃん泣いていたんです。学校で、嫌なことがあったって。」
「はい。」
「次の日、私だけ早起きして、リビングに行ったら、あったんです。ちっちゃいメモ。」
「メモ?」
「こう、二つ折りになっていて……クリップで止めてあって、お姉ちゃんへの宛名が書いてあって。」
「お手紙、ですか。」
麗葉は一度大きく息を吸った。
「悪いとは思ったんですけど、どうしても気になって、中を見たんです。『傷ついていることに気が付けなくて、ごめんなさい。いつでもお父さんはあなたの味方です。』って書いてありました。」
「お父さんが、お姉さんに宛てた手紙だったんですか。」
「いつも、お姉ちゃんばっかり、お姉ちゃんばっかり……。私だって、私だって、しんどいのに……なんでお父さんもお母さんもいいひんの。」
我慢できなかった。
麗葉は、大声で叫びながら泣いた。ワンワン泣いた。
「帰りたいよ。帰りたい。」
人前で泣いたのは、いつ以来だろうか。あやねさんは、ずっと抱いてくれていた。
ミカンの、匂いがした。
それから三日後。十二月二十六日、月曜日。麗葉が十一歳になる日。
台所に行くとあやねさんはかまどにかけた鍋の中身を、おたまでかき混ぜていた。
「おはようございます。」
麗葉はあやねさんの背中に声をかけた。
「おはようございます。」
あやねさんは振り返って、いつもの微笑みを見せてくれた。
「もう、いいのですか?」
麗葉はうなずく。頭痛も、気分の悪さも、感じない。
「よかった。」
あやねさんは、また鍋の方をむく。
「あの……。」
麗葉はあやねさんの横に行き、手に持っていた長方形の紙を差し出す。お母さんにもらった、帰りの分の切符だ。列車の日付は、昨日。
「これ、燃やしてくれませんか?」
「はい。」
あやねさんは、麗葉から切符を受け取ると、ためらいなく、かまどの火に投げ込んだ。
麗葉はあやねさんに借りた綿入りはんてんを羽織って、雪が積もった山道を歩く。
前を歩いているのは、夏芽だ。朝から「ついて来てほしい」とだけ言って、麗葉を連れ出した。
玄関で見た時、夏芽のブーツが新しい物になっていた。麗葉が風邪で寝込んでいる間に何があったんだろう。
「麗葉、見て。」
夏芽は、立ち止まって、笑顔で一点を指差した。
「……すごい。」
麗葉は、夏芽が指差した先を見て、思わず声が出た。
湖が、氷っていた。
朝日を反射し、銀色に光っている。湖の全体が、銀色に、光っている。まぶしく、神々しく、綺麗だ。
「おーい。」
氷った湖の真ん中で、誰かが手を振っている。金髪の女の子。あれは、京花ちゃんだ。
「行こうよ、麗葉。」
「うん。」
麗葉は、膝をついて、氷を触ってみる。冷たい。
立ち上がって、右足を踏み出す。うん、感触がある。
麗葉は思い切って、踏み出した足に体重を乗せてみた。
歩ける。
二歩。
三歩。
滑らないように気を付けながら、麗葉は足を踏み出す。
「麗葉。」
夏芽が手を差し出す。
麗葉はその手を握った。夏芽の手は、マメだらけでボコボコだった。
ゆっくり、ゆっくり歩いて、京花ちゃんのところへ。
湖の真ん中。麗葉は周囲を見渡した。空まで届きそうな山々が連なっているのが見える。
「いいとこやな。」
麗葉はため息交じりに言った。
「麗葉、お誕生日おめでとう。」
夏芽は懐から、何かを取り出し、麗葉に握らせた。紙のような、四角い何かだ。
麗葉がそっと指を開くと、薄い青緑色の長四角の紙が二枚。
長野から京都までの、乗車券と特急券。さっき、燃やしてもらったはずなのに。
「買ったのはあやねちゃんだけど、私達から渡してくれってさ。」
よく見ると、日付が、何日か先になっていた。
夏芽は照れ隠しのような笑顔、京花ちゃんは純粋に嬉しそうな笑顔を浮かべている。
麗葉は息を吸って、吸って、吸って、吐いた。澄んだ、冷たい空気に体が満たされる。
「大好きやで。」
数日後。
相変わらず、人も、自動車の多い街だ。村にいたから、さらにそう感じるのかもしれない。
麗葉は、紺色のジャンパースカートの裾を気にしながら、墓石の前でしゃがんだ。
かぶっていた、青いリボンが巻かれた麦わら帽子を足下に置いてから、顔の前で手を合わせ、目を閉じる。
おばあちゃんが亡くなってから、何度かお墓参りに来たことはあったけど、いつも、お父さんかお母さんが一緒だった。
「おばあちゃんが死んで、おばあちゃんの家が売られて、知らない人が暮らすようになって、はじめて、私がおばあちゃんに甘えていたことに気が付きました。」
何があっても、おばあちゃんの家に行けば何とかなるような、麗葉がどんな大人になっても、おばあちゃんは理解してくれる。そんな思いがあった。
「ありがとうも、さよならも、言えませんでした。」
麗葉は、目を開けて立ち上がった。
振り返る。あやねさんと、夏芽がいた。二人とも、村とは違って、洋服を着ている。
「おまたせしました。行きましょう。」
麗葉はそう言った。
病院の入り口で振り返ると、あやねさんと夏芽は笑顔で見ていた。行っておいで。二人の目はそう言っている。
麗葉は病院に入っていった。
病院の中にある花屋さんで買った花を、落とさないように両手で抱えて、廊下を歩く。薄紫色の花、シオンという花らしい。長野に行く前、お母さんにもらったおこずかいで買った。
目に入ってくるものも、音も、匂いも。六年前と変わらない。あれほど嫌いな場所だったのに、懐かしさすら感じる。
受付で聞いた、お姉ちゃんの病室の前までやって来た。
一度、深呼吸して、大きな音をたてないようにそっと、ドアを開ける。
大部屋で、六床あるベットには、誰もいないか、知らない人が寝ている。
見えるところに、お姉ちゃんはいない。なら、あそこか。
一つだけ、カーテンが閉まっているベットがある。麗葉は、カーテンの端を少しだけめくって、内側に入った。
お姉ちゃんがいた。顔色が悪い。やせたようにも見える。目をつむって眠っている。
お姉ちゃんと話さなくていい。麗葉は安心感を覚えながら、サイドテーブルに花束を置いて、回れ右でお姉ちゃんに背中を向けた。
「麗葉、ごめんな。私のこと、恨んでもいいんやで。」
お姉ちゃんの、か弱い声が聞こえた。起きていたんだ。
やめてよ、お姉ちゃん。
お姉ちゃんがいい人だったら、麗葉はどこに気持ちをぶつければいいの。
ふり返らず、何も言わず、病室を出た。
麗葉は、ロビーの長椅子の、一番端に座った。大きな、ため息が出た。あやねさんや、夏芽との待ち合わせの時間まで、まだずいぶんある。
「私、母親失格やわ。」
声がした。とてもよく知っている、女の人の声。麗葉は、ちらりと声の方向を見る。
お母さんだ。椅子の反対の端に座っている。その横には、お父さんが立っている。
麗葉は麦わら帽子を深くかぶって、顔を隠した。
「時々、麗葉が私のところに来る夢を見んねん。すごい怖い顔して。」
お母さんの声に、力がない。
「いつまでたっても、あの子が養子やって思いが、消えへんねん。ホンマは、あの子のこと嫌いなんちゃうかって。だから、丸藤さんのとこ行かせたんちゃうかって。だって、麗葉、行きたくない言うてたもん。」
「大丈夫。お母さんは、ちゃんと育ててるし、麗葉も楽しく暮らしてる。前に大阪に預けてた時、迎えに行ったら、いっつも笑ってたで。」
お父さんは、いつも通りだ。
「夏芽ちゃんと、仲よくしてるやろか。」
「離れて育った言うても、双子の姉妹や。大丈夫。麗葉もいい子やしな。おなかの赤ちゃんに悪いで。あんまり悩まんとき。」
麗葉は、立ち上がり、出口へむかって、二、三歩足を進めた。
「麗葉。なんでここに。」
後ろから、お母さんの声がした。
麗葉は、走り出した。
約束の時間よりはやいのに、待ち合わせ場所の港の公園に、夏芽は先に来ていた。ベンチに座って、琵琶湖を見ている。
「あやねちゃんも、飲み物を買いに行ってるだけだから、すぐに来るよ。」
麗葉は、小さくうなずき、夏芽の横に座った。
「おっきい船だね。」
麗葉は夏芽が見ている方向を見る。青い船が泊まっていた。
「あれ、乗ったことあんで。」
打ち寄せる波に合わせて、船はその体を上下に揺らす。
「なあ、夏芽。」
「ん?」
「私たち、姉妹やねんな。」
麗葉の言葉に、夏芽はうなずく。
空を見上げた。薄い青さの、冬空だ。
「帰ろ。」
あの飛んでいる鳥は、トンビかな。
「いいの?」
夏芽が尋ねる。
「うん。帰ろ。」
麗葉は、家に帰りたいと思った。




