第四話 帰ってきたハネキツネ
麗葉は自室にいた。閉め切ったドアに耳をつけると、お母さんの声が聞こえる。
「そう。今日も学校行かへんねんて。」
お母さんは電話で、叔母さんと話しているようだ。
しばらく、お母さん相槌をうつ声だけが聞こえる。
「そやけど、本人が行かへん言ってんねんから、どうしようもないやろ。」
お母さんはそう言ってから、またしばらく相槌ばかりをうつ。
「そんなこと言うても、しゃあないやん。」
突然、お母さんが叫ぶ声が聞こえた。続いて、すすり泣く声も聞こえる。
お父さんがいた。平日だけど、会社を休んでいい日らしい。
お父さんは、不機嫌そうな顔で、麗葉に学校へ行くように言った。
麗葉は嫌だと言った。
お父さんは学校へ行くように言った。
麗葉は嫌だと言った。
お父さんは学校へ行くように言った。
麗葉は嫌だといった。
お父さんは、麗葉のほほをぶった。
麗葉は涙を流しながら言った。そんなに悪いことをしたのか、と。でも、本当は言っていなかった。声が、出なかった。
目を覚ました。
ほほに、微かな熱と、痛みと、涙の感触が残っている、気がする。
昇りたての太陽の薄暗さが残っている窓の外で、鳥たちが鳴いている。
布団を抜け出す。めくれた掛け布団と毛布を京花ちゃんに掛けなおし、部屋を出た。
台所にあやねさんが立っていた。
「あら、おはようございます。もう少し寝ていてもいいんですよ。」
あやねさんはかまどにかけた鍋に、味噌を入れながら言った。
「変な夢を見て、目が覚めてしもて。」
麗葉は近くにあった椅子に座った。
「どんな夢でした?」
「昔のことを、夢に見るんです。もう終わったことやのに。」
「まだ終わってないよ。終わりにしちゃだめだよ。そう言いたいんじゃないですか? 麗葉さんの心の底が。」
あやねさんは鍋を見ているので、麗葉からは背中しか見えない。でも、微笑んだような気がした。とても、優しい笑顔で。
「そうですね。」
麗葉は小さくうなずく。
あやねさんはお味噌汁を一口分、小皿によそった。
「味を見てもらっていいですか?」
「寝起きやから、味わからんかもしれませんよ。」
「かまいませんよ。」
麗葉は小皿を受け取り、よく冷ましてからお味噌汁を飲んだ。濃いめのだしの味に、ほどよい味噌の塩気が混ざっている。
「おいしいです。」
なんだか、眠気が無くなり、上手く夢を切り離せた気がする。
「よかった。」
あやねさんは笑った。
「手伝います。」
麗葉は立ち上がった。
「あら、ありがとうございます。では、そこにあるお椀を、テーブルの上に出しておいてもらえますか? 四つ、お願いします。」
麗葉はうなずくと、食器棚からお椀を四つ取り出し、テーブルに並べる。
あやねさんは胸の前でパチンと手をたたいた。そういえば、おばあちゃんもよくそんな仕草をしていた。
「ご飯にしましょうか。麗葉さん、夏芽と京花さんを起こしてきてもらえますか?」
麗葉はうなずいた。
あやねさん、夏芽、京花ちゃん、そして麗葉。四人で学校へむかう。
「そうだ、夏芽と麗葉さんに言っておくことがあるんです。」
歩きながら、あやねさんが言った。
「今夜なんですが、宿直で家には戻れないんです。だから……。」
「今夜は私たちだけ?」
夏芽があやねさんの言葉をさえぎり言った。あやねさんは首を横に振る。
「千種さんが来て下さるそうですよ。」
「えっ、千種お姉ちゃんが。」
夏芽はなんだか嬉しそうだ。
「千種さんはね、外で暮らしているハネキツネなんだよ。」
京花ちゃんは小さめの声で言った。
「私を村に連れてきてくれたのも、千種お姉ちゃんなんだよ。」
夏芽が、京花ちゃんに続けて言った。
麗葉の世代では珍しいのかもしれない。くみ取り式のトイレに懐かしいという感想を抱くのは。でも、六年くらい前まで暮らしていた、おばあちゃんの家のトイレはくみ取り式だった。
もっとも、麗葉がおばあちゃんの家で暮らしはじめて、二か月くらいで改装工事がはじまって、水洗になった。麗葉のために改装してくれたというのは、おばあちゃんのお葬式で聞いた話だ。
用を済ませて、廊下を歩く。音をたてないように、気を付けて。今は五時間目。今日は全部の学年が五限目までらしい。さっきあやねさんが言っていた。
保健室に戻ると、郵便屋さんがいた。郵便屋さんの制服は、村の外でも中でも一緒なんだ。
「はい、小林麗葉さん、速達です。」
郵便屋さんは麗葉に差し出す、薄い水色の封筒。上の方に赤い線が引いてあり、速達の判子が押されている。
宛先は、あやねさんの家になっている。
「ありがとう、ございます。」
元の家じゃなくて、ここに送ってくるなんて。戸惑いながらも受け取る。誰からだろうか。
「速達だから、家じゃなくてこっちに届ける方がはやいかなって思って。それじゃ、渡したから。」
郵便屋さんは、麗葉ではなく、あやねさんを見ながら言うと、保健室を出ていった。
『滋賀県大津市穴太四丁目十七番地十三号
小林 吉恵』
なるほど、手紙の差出人はお母さんだ。だから、村に送ってきたんだ。
そっと封を切る。
「座ったらどうですか?」
あやねさんに言われてはじめて、立ちっぱなしだということに気付いた。近くのベットに座っている京花ちゃんの横に座った。
味気ない、白い便箋に、薄いボールペンの字が並んでいる。少し崩し気味に書かれた字に、不思議な懐かしさを覚える。
『麗葉へ。
そちらの生活はどうですか。丸藤さんにご迷惑はかけていないですか。体調は悪くないですか。
さて、嬉しいお知らせがあります。麗葉はお姉ちゃんになるのです。お母さんのおなかには今、赤ちゃんがいます。生まれるのは七月ごろの予定です。
突然速達の手紙が来て、驚いたでしょうか、でも、はやく知らせたかったのです。』
そこまで読んで、やめた。
読み進めるうちに、麗葉は自分の表情がなくなっていくのを感じたから。
「麗葉お姉ちゃん? 大丈夫?」
京花ちゃんの不安そうな右目が麗葉を見つめる。
「うん、大丈夫だよ。」
麗葉は京花ちゃんに笑顔をむけた。
「何か、書いてあったんですか?」
あやねさんが尋ねる。
「すみません。また、あとで話します。」
麗葉は便箋をたたむ。元々あった折り線と少しずれた気がするけど、気にしない。そして、そのまま封筒に入れた。
「トイレ、行ってきます。」
麗葉は封筒をズボンのポケットに入れ、保健室を出た。
トイレに行くと言ったけれど、校舎の一階と二階の間の階段の、一番下の段に座っていた。
お母さんのおなかに、赤ちゃんがいる。まだ、実感がわかない。
麗葉と、お母さんと、お父さんと、それからお姉ちゃんがいる家に、もう一人。想像できない。
麗葉が生まれた時、お姉ちゃんもこんな気持ちだったのかな。
麗葉はどんなふうに生まれたのだろう。
なぜか、お母さんもお父さんもほとんど話してくれない。お姉ちゃんは生まれた時の写真があるのに、麗葉の時はカメラが壊れていたとかで、生まれてから一週間ほどたった写真からしかない。案外、麗葉はコウノトリが連れてきたのかもしれない。
麗葉は苦笑いを浮かべながら、封筒を取り出す。
麗葉は思いっ切り息を吸って吸って、吐き出す。そうしないと、泣いてしまいそうだった。
手紙の続き、読みたくないけど読まないといけないよね。
「麗葉、どうしたの?」
声がした。後ろから。階段の上に夏芽がいた。夏芽は階段を下りてくると、麗葉の横にしゃがむ。
「何かあった?」
麗葉は黙ってうなずく。話を聞いてほしかった。でも、言葉にできない気がした。
「ここじゃなんだからさ、おいでよ。」
麗葉はうなずいた。
夏芽が鉛筆を走らせる音が、コツリ、コツリと、教室に響く。
「この時間さ、飛行術の授業なんだ。私は受けられないから、教室で自習。人間は、飛べないからね。」
夏芽は鉛筆を止めずに言った。
「先生も、見回りに来ないから、麗葉もここにいときなよ。」
昔、公立の小学校に通っていた頃、一人で教室にいたことがあった。他の人たちは、理科とか、音楽とか、体育とかの授業で教室にいない間に、教室の鍵を借りて、自分の机に座り、本を読んでいた。野鳥の保護に取り組む、獣医さんのエッセイだ。何度も何度も、読んだ。
先生は、見回りに来なかったし、後々注意されることもなかった。
「私と、同じやな。」
麗葉はそう言ってみた。
「双子の姉妹だからね。」
夏芽は、当然だと言わんばかりに、さらりと言った。
「お母さんのおなかに、赤ちゃんがいるんだって。」
「そっか、麗葉、本物のお姉ちゃんになるんだ。おめでとう。」
夏芽は静かに言った。
「うん。そうみたいやな。」
麗葉は静かに答えた。
教室のすみに置かれた、時計の振り子が何度揺れただろうか。
「私のお母さんは、私がおなかの中にいるときに、お父さんに逃げられちゃって、生んでも育てられなくなったんだって。」
夏芽はおもむろに話しはじめる。
「お母さんの友達が、生まれた子供を引き取るって言ってくれたから、お母さんは一人で子供を産んだ。でも、その子供は双子だった。」
夏芽がそこまで言うと、麗葉にも自然にこの話の行く先が見えてくる。
「お姉ちゃんは生まれてすぐに養子に出されて、残った私が捨てられた。」
「酷い話やんな。」
麗葉が言うと、夏芽は一瞬だけ笑顔を浮かべ、話を続ける。
「お母さんは私を捨てたけど、私には生きていてほしかったみたいだよ。だから、頑張って、無理をして、四歳になるまで育ててくれた。冬をさけて、夏場に捨てた。生きていてほしかったんだよ。実際さ、私は千種お姉ちゃんに拾われてここにいるわけだし。」
夏芽は鉛筆を手に取ると、勉強の続きをやり始めた。そして、視線は手元に落としたまま、手を動かしたまま、つぶやく。
「私はね、今でもお母さんの事が大好きなんだよ。とっても優しかった、お母さんが。麗葉はどう?」
麗葉は、小さくうなずいた。
ベルが鳴る。授業を終えた人たちが戻ってくるので、麗葉は足早に教室を出た。
夏芽とは、保健室で待ち合わせることにした。
手紙を握ったまま、廊下を歩く。
何一つとして、解決していない。でも、少しだけ気持ちが楽になった気がする。
下りの階段。右足を、一歩踏み出す。
あれ、どういうことだろう。右のつま先に感触がある。
一度、足を引いて、もう一度踏み出してみる。やはり、勘違いじゃない。つま先に感触がある。目で見えているのは、階段なのに、平らなところを歩こうとしているような感触だ。階段に、目に見えない何かがある。
麗葉は膝をついて、手で階段を触ってみる。普通だ。何も変なところなんてない。
立ち上がって、右足を踏み出す。うん、感触がある。
麗葉は思い切って、踏み出した足に体重を乗せてみた。
歩ける。
そう思った瞬間、足の裏の、見えない何かの感触が消えた。
片足では自分の体重を支えきれない。左の膝から、体勢が崩れる。
内臓がふわりと浮く感覚。麗葉の嫌いなやつだ。
麗葉は後ろむきにこけると、そのまま階段を滑り落ちた。
何度か背中と後頭部に衝撃を感じる。
衝撃がやんで、どのくらい目をつむっていただろうか。麗葉はゆっくりと目を開けてみた。一番下まで落ちたようだ。
起き上がろうとして、体に力を入れる。保健室に戻らなきゃ。その途端、頭に激痛が走り、強い吐き気がした。
何度か咳き込んで、吐き気をこらえた。口の中が、苦いような、酸っぱいような、気持ちの悪い味が広がる。唾が、口から勝手に出てくる。
起き上がれない。
力が入らない。
恐い。
「助けて……。」
小さな声が、麗葉の口からこぼれた。
「麗葉っ。」
声がした。裏声になりかけている、悲鳴のような、夏芽の声だ。
階段の上に夏芽がいた。肩から掛けていた鞄を投げ出して、飛び降りるように駆け下りてくるのが、ぼんやりと見えた。
「大丈夫? どうしたの?」
「ごめん。階段から……落ちた。」
夏芽は麗葉の体抱えると、ゆっくりと起こす。
震えていた足にも、少しずつ力が入るようになってきた。
「麗葉、保健室、行こうか。あやねちゃんに診てもらおう。」
麗葉は深呼吸してから、うなずいた。
でも、なんでだろう。さっきから、夏芽の顔がぼやけて見える。
保健室。ベットに座った麗葉の髪を、後ろからあやねさんがかき分ける。
「手足がしびれるとか、吐き気があるとかはありますか?」
麗葉は頭を横に振ろうとして、今は動かしてはいけないことを思い出した。
「吐き気が少しありますけど、だんだんましになってきてます。」
「そうですね。おさまってきているなら、大丈夫ですね。たんこぶ以外に外傷もないですし。とりあえず冷やしておきましょうか。」
あやねさんは、部屋のすみに置いた桶に入っている水で、手ぬぐいを濡らすと、麗葉の後頭部に優しくあてる。冷たいな。
麗葉は手ぬぐいを受け取り、自分で頭にあてる。
「麗葉お姉ちゃん、大丈夫?」
京花ちゃんが、心配そうに見つめる。
「うん、大丈夫。」
今は、京花ちゃんに笑顔を見せてあげられなかった。
「麗葉さん、眼鏡はどうしたんですか?」
あやねさんに言われてはじめて、手ぬぐいを持っていない方の手で自分の顔を触ってみた。
ない。
眼鏡がない。
そうか、落ちた時に落としてきたんだ。
「階段、探してきます。」
麗葉が立ち上がろうとすると、夏芽が麗葉の肩をおさえた。
「私が行ってくるよ。麗葉は休んでて。荷物も置いてきたし。」
京花ちゃんも立ち上がる。
「私も行く。」
夏芽と京花ちゃんは出ていった。見計らったように、あやねさんは口を開いた。
「さて、麗葉さん。落ちた時のこと、詳しく話してくれますか?」
「はい。」
麗葉はゆっくりと、言葉を考えながら、話す。
「普通に、階段を、降りようとしたんです。足を踏み出したら、その……変な話なんですけど、何にも見えていないのに、見えない足場があるような感触があって、なんていうか……。」
あやねさんは何度かうなずく。
「それで、その見えない足場に乗ろうとしたんですね。」
麗葉はうなずいた。話がはやいな。
「近くに誰かいましたか? 夏芽じゃなくて、ハネキツネの誰か。」
あまり、周りを見ていなかったな。
「わかんないですけど……気が付かなかったです。」
「そうですか……。」
あやねさんは息を吐いた。煙草を吸っている人が、煙を吐くときのように、ゆっくりと、細く、長く。
「今日は安静にしていてください。頭を打ったときは、あとから症状が出ることもありますから。何か異変があれば、すぐに言ってください。」
麗葉は「はい。」と返事をした。
扉が、勢いよく開いた。
「麗葉、大変。」
あわただしく夏芽と、その後ろから京花ちゃんが飛び込んできた。
「ほら、これ。」
夏芽は麗葉に眼鏡を差し出す。
麗葉は夏芽から眼鏡を受け取ろうとして気が付いた。ずっと、手紙を握りっぱなしだった。くしゃくしゃになっている。手紙をポケットに入れて、眼鏡を受け取る。
眼鏡は、フレームが、鼻のところで、折れている。
指さきで、感触を確かめてみる。
「痛て。」
指先がチクリとした。指先から、微かに血が出ている。フレームの、折れた断面で切ったようだ。
「どうしよう。」
麗葉はあやねさんを見た。
「麗葉さん、視力はどの位ですか?」
あやねさんは、おっとりとした口調で言ったけど、本当に困っているのが伝わる。麗葉は申し訳ない気持ちで一杯になった。
「右も、左も、0・二の乱視です。」
「乱視ですか……。」
あやねさんはさらに難しい顔をした。
とりあえず、麗葉はあやねさんの家に戻ることになった。夏芽と、京花ちゃんと、三人であぜ道を歩く。
「ごめんね。私、なんにもできなくてごめんね。」
京花ちゃんは心配そうな顔で麗葉を見つめる。
「ありがとう。大丈夫やで。」
ちょっとだけ嬉しかった。
「またね。」
京花ちゃんは、手を振りながらあぜ道を走って行った。
麗葉と夏芽は、曲がり角を曲がって、山に入っていった。
あやねさんの家のドアを開くと、見慣れないスニーカーが置いてあった。
「ただいまー。」
でも、夏芽は気にせずに草履を脱いで家に入っていく。麗葉もそのあとに続いた。
食堂のドアを開けると、椅子に女の人が座っていた。
色付きのカッターシャツにデニム生地のズボンを履いていて、髪は、緑色のリボンでポニーテールにしている、大学生くらいの女の人だ。
「久しぶり、なっちゃん。」
女の人は夏芽にむかって笑いながら手を振る。それから、麗葉に視線をむける。
「それから、はじめまして、麗葉ちゃん。清水千種です。」
千種さんからは、微かにミカンのような匂いがした。
今夜の夕食は、千種さんが作ってくれることになった。
「千種お姉ちゃんはね、旅館で料理を作ってるんだよ。」
夏芽はまるで自分の事を自慢するかのように、得意げに言っていた。
麗葉は子供部屋に移動して、勉強机に、お母さんから届いた手紙を広げてみる。
もう、薄暗くなってくる時間だ。眼鏡がないと、読めそうにない。
ため息とともに、手紙のしわを伸ばしながらたたんで、封筒に入れた。
ドアをノックする音のあと、開いた。千種さんだった。
「麗葉ちゃん、中村さんが来てるよ。」
中村さんが言われて誰の事かわからなかった。京花ちゃんの事だと気付いたのは、少し考えてからのことだ。
階段をゆっくりと降りて、玄関へ行く。京花ちゃんの金髪は、薄暗い中でよく目立っていた。
「ごめんね、お姉ちゃん。」
「いいで。どしたん?」
京花ちゃんはためらいがちに麗葉の手を握る。
「一緒に来て。」
麗葉は慌てて靴を履いた。
京花ちゃんに連れてこられたのは、あやねさんの家の近くの湖のほとりだった。
男の子がいた。昨日、保健室に京花ちゃんを迎えに来ていた男の子だ。
「麗葉さん……その……。」
男の子は、麗葉を見るなり、泣きそうな顔になって、頭を下げた。
「どしたん?」
麗葉は、優しい口調を心掛けた。
「僕が、僕がね、魔法で麗葉さんを、魔法で階段から……落としたんです。」
男の子は、段々と絞り出すような声になっていった。
「何で私を?」
麗葉には、階段から落とされたことに対する怒りはなかった。それよりも、自分が知らないうちに誰かに恨まれているのでは、という恐怖があった。
「麗葉さんに、ハネキツネの魔法を見せてあげようと思って、驚かせようと思って、空を飛べるようになる魔法を、使ったんだ。」
男の子は、泣きながら、しゃくりあげながら、言った。
「ハネキツネの魔法でも、人間は空を飛べないから。」
京花ちゃんが、つぶやくように言った。
「本当に、ごめんなさい。」
麗葉は考える。今は、なんて言えばいいのだろう。今まで、何度か誰かに大切なものを壊されたし、壊してしまったこともあったはずだ。なのに、何も思いつかない。
「麗葉お姉ちゃん……。」
京花ちゃんが、心配そうに見つめる。
「眼鏡、大事やってんで。」
麗葉は、そんなことを言ってみた。男の子は、気まずそうにうつむく。そうだよね、こんなこと言われても、困るよね。
「壊れてしもたもんはしゃあないから、今度から気を付けるんやで。」
「許して、くれるの?」
「うん。」
「ありがとう。」
男の子も、京花ちゃんも、頭を下げる。麗葉は「じゃあね」というと、あやねさんの家にむかって歩きはじめた。
道を曲がると、千種さんが立っていた。
「麗葉ちゃん、何も言わないで出て行っちゃった、気になってついてきちゃった。ごめんね。」
そっか。何も言ってなかったな。
「ごめんなさい。」
「いいよ。私こそごめんね。麗葉ちゃんたちの話、聞かせてもらったよ。」
「べつに、いいです。」
千種さんが歩きはじめたので、麗葉もその横に並ぶ。
「優しいね、麗葉ちゃん。」
麗葉はあえて返事をしなかった。
優しいんじゃない。面倒だっただけだ。怒っても、泣いても、騒いでも、眼鏡はなおらない。なら、男の子とゆっくり話すのも面倒なだけだ。麗葉は自分がこういう思いを抱く瞬間が、嫌いだった。
「眼鏡壊れちゃったの?」
歩きながら、千種さんは尋ねた。
「はい、フレームが折れちゃって。」
「フレームだけ? レンズは?」
「レンズは、無事です。」
レンズが傷だらけなのは、前からだ。
「なら、眼鏡屋さんに持っていったら、何とかなるかもしれないよ。友達がそう言ってた。レンズはそのまま、フレームだけ変えられるんだって。」
「村に眼鏡屋さんってあるんですか?」
「ないよ。だからさ、明日、一緒に外に行かない?」
千種さんの言葉は、嬉しかった。でも、千種さんに迷惑をかけるわけにはいかない。
「あと、何日かで元の家に戻りますから、それから、修理に持っていきます。」
千種さんは、麗葉の頭に手を置いた。
「遠慮しなくったっていいのよ。明日、一緒に行こ。眼鏡がないとさ、困るでしょ。」
麗葉は小さな声で「はい」と言った。嬉しい気持ちの上に、申し訳ない気持ちが重なっていた。
あやねさんは、料理が上手だと思った。だけど、千種さんはもっと上手だった。
夕食を食べてから、千種さんはお菓子を出してくれた。麗葉も知っている、村の外でよく売られているお菓子だ。
あやねさんは、今夜はお風呂に入らないように言っていた。だから、今は夏芽だけがお風呂に入っている。
「そっかー。麗葉ちゃんは私立の学校に通ってるんだ。勉強は好き?」
千種さんは、尋ねてからお菓子を一個、口に入れた。
「好きじゃないけど、なんとか。」
公立の小学校に通っていた頃、授業に参加していなかった。だから、転校してから授業について行くのは大変だった。クラスメートの美咲ちゃんにも、たまに教えてもらっている。
「私も、中学から人間の学校通ってるんだけど、勉強はほんとに困ったな。」
千種さんは遠いところを見るようなまなざしになる。
「どうして、村の中学校に行かなかったんですか?」
麗葉が尋ねると、千種さんはゆっくりと首を左右に振った。
「村には、中学校がないの。私たちハネキツネは、義務教育も小学校の六年だけ。もっと勉強したいって人は、人間の学校に通うしかない。」
「ハネキツネって大変なんですね。」
「私がハネキツネってことを知っても、仲よくしてくれる人に出会った。それから、毎日楽しくなった。」
千種さんは笑っていた。
自分用の小さい布団より、おばあちゃんと一緒に寝たいというのは贅沢なことなんだろうか。幼い麗葉には、そんなことを感じることさえなかった。
おばあちゃんは、二階のテレビのある和室に布団を敷いて、寝る前にテレビを見せてくれていた。麗葉のお気に入りは世界中の動物を紹介する番組だった。
今夜も布団の中で、おばあちゃんに抱かれながら、テレビを見る。今夜の特集は、イヌワシだ。
雛が巣立つ。
麗葉はおばあちゃんに抱きついた。
目を覚ました。昔を、夢で見ていた。
横のベットを見ると、夏芽がいない。
次に、勉強机を見る。椅子に、千種さんが座っていた。椅子に座って、真剣な表情で帽子を見つめていた。青いリボンが巻かれた麦わら帽子だ。
麗葉は上半身を起こした。
「おはよう……ございます。」
千種さんの体が、驚いたようにビクンと跳ねる。
「あ、麗葉ちゃん。おはよう。ごめんね、ちょっと考えごとしてたから、気付かなかった。」
ベットを出て、千種さんの隣へ行く。
「これ、制帽だね。麗葉ちゃんの?」
「はい。夏芽にもらったんです。」
「なっちゃんに?」
「四歳の時、たまたま夏芽に会っていたんです。その時に。」
「そうなんだ。麗葉ちゃんも、昔のなっちゃんを知ってるんだ。」
千種さんは長く息を吐く。
「なっちゃんはね、村に来た頃はすんごい泣き虫だったんだよ。今のなっちゃんからは考えられないくらいね。そんでね私が小学生の時に使っていた帽子をあげたの。怖い物がなくなる魔法の帽子って言ってね。」
千種さんは笑いながら、麦わら帽子を麗葉に差し出した。
麗葉はためらいがちに、受け取る。この帽子は、麗葉が持っていていい物なんだろうか。
「朝ごはん、食べよっか。」
千種さんが言った。
食堂に入る。あやねさんと夏芽がいた。二人とも、椅子に座っていて、テーブルの上には朝食が用意されている。メニューは、トーストと、サラダ。それからハムエッグだ。
「おはよう、麗葉。お寝坊さんだね。」
夏芽は、麗葉に笑いかけながら言った。夏芽の泣き顔なんて、想像できないな。
「うん。よく眠れた。」
麗葉は、夏芽の隣に座った。




