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第三話 飛べない狐

 空気の冷たさで覚ました。見慣れない天井。なんで。そうだ、今はあやねさんの家に来ているのだ。

「あ、麗葉、起きた?」

 横のベットの上で髪をくくっていた。服装は昨日と同じく、着物に袴という格好だ。

「おはよう。今日も着物なんんや。」

「村ではみんなこの格好なんだよー。」

 麗葉の感覚で言えば、夏芽の格好はカルタの大会か、成人式ぐらいでしか見ない。


 朝食はよくわからない山菜の味噌汁と、白ごはんだった。それを食べている途中、夏芽と同じく、着物姿のあやねさんは笑った。

「そうですね。麗葉さんから見れば、ここは変な村かもしれませんね。でも、私たちはこれを当たり前として生きています。田舎ですからね、色々と古いままで残っているんですよ。」

 ガスも、電気も無く、小学生は和服で学校へ通う。こんな場所がまだ日本にあったなんて驚きだ。

「ところで麗葉さん。」

 あやねさんは急に真剣な表情になった。

「学校はどうしますか? あなたは村の子供ではありませんが、保健室か図書室だったらいてもいいですよ。」

 今日一日あやねさんの家ですごすものだと勝手に思い込んでいたから、予想外の話だった。

「私も、仕事に行かないといけないので、家には誰もいなくなってしまうんです。学校でしたら、私も夏芽もいますし。」

 麗葉の思いを察してか、あやねさんは補足を入れた。

「学校の先生なんですか?」

 麗葉が尋ねると、あやねさんは無言でうなずいた。

「保健室の先生なんだ。」

 夏芽は口一杯に放り込んだご飯を飲み込んで言った。

「お行儀悪いですよ。」

 あやねさんが言うと、夏芽は面白くなさそうに「はーい」と返事をする。

「じゃあ、学校に行きます。」

 自分で言っておきながら、嫌な言い方だ。昔のことを思い出す。


 学校に行くために着替える。私立の小学校は制服があったし、その前に通っていた公立の小学校も、標準服があった。だから、私服で学校へ行くというのはなんだか新鮮だ。

長袖のポロシャツにセーターを着て、下は落ち着いた色のズボンで。あとはコートを羽織って、これでいいかな。

 その時、後ろから誰かが麗葉の頭に帽子をのせた。手に取って見てみると、それは青いリボンが巻かれた麦わら帽子だった。

「おそろい。」

 振り返ると、夏芽も青いリボンが巻かれた麦わら帽子をかぶっている。帽子をかぶるために、くくっていた髪をほどいたようだ。

「おそろいやな。」

 目が合うと、夏芽は笑った。


 麗葉は青いリボンが巻かれた麦わら帽子をかぶって、学校へ行った。

 校舎は、壁に白いペンキが塗ってある木造だ。

「じゃあね。」

夏芽はそう言って、緑色に塗られた扉をあけて、校舎に入っていった。

「私たちは、こちらです。」

 あやねさんは、校舎の前を通り過ぎて歩いていく。麗葉も慌ててあとを追いかけた。

 保健室は、校舎とは別の建物だった。保健室しかない、小さな建物だ。

 室内にはベット、体重計、薬品の棚、人体模型などがある。どれもこれも年代物のようだが、内容自体は麗葉が通っていた学校と大差はない。

「私は朝礼に行ってきますので、少し待っていて下さい。薬棚以外なら、その辺にあるものを好きに触っていてもいいですよ。」

 あやねさんは冗談交じりの笑顔を浮かべると、部屋を出ていった。

 麗葉は近くのベットに腰かけた。寝るためのものではなく、診察などに使うベットのようだ。

 何気なく壁に視線をやると、ポスターが貼られていた。ぬいぐるみのような三頭身のキツネが描かれている。でもなぜか、そのキツネには鳥のような白い翼がある。


『週に一度はキツネになりませう。』


 何のポスターなのかまるでわからない。村の人たちには意味が分かるのだろうか。

「失礼しますっ。」

 大きな声とともに、扉を開けたのは、男の子だった。見た目からして、一年生か二年生だろう。この子も和服を着ている。

 男の子は困った顔をしている。

「あれ、夏芽ねえちゃん。ずいぶんハイカラな格好だね。それに髪も切ったんだ。」

 どうやら、この男の子は麗葉のことを夏芽だと勘違いしているらしい。そんなに似ているだろうか。

「私は夏芽じゃなくて……。」

 男の子は麗葉の言葉を遮った。

「京花ちゃん、来てないんだね。またあとで来るよ。」

 男の子はそう言い残すと、パタパタと出ていった。

結局、麗葉は夏芽だと誤解されたままだ。そういえば昨日、あやねさんが言っていた。麗葉と夏芽が似ていると。

 麗葉はどうにも気になって、鏡を探す。壁には懸かっていない。ほかにありそうなところは、窓際に置かれた机くらいだろうか。

あやねさんが事務仕事で使っているらしいその机は、棚が付いていて、書類が整理されて並んでいる。

しかし、鏡はなさそうだ。

 気になったのは、机のすみに飾られた一枚の写真だ。セピア色で写っているのは、どこかの病院の一室のようだ。

パジャマ姿のあやねさんがベットの上で赤ん坊を抱いている。横には、男の人がいる。

 扉を開ける音が聞こえた。体がビクリと跳ねる。ふり返ると、あやねさんだった。

「ただいま戻りました。何か気になるものでもありましたか?」

 あやねさんはすぐ横まで来ると、膝を曲げて麗葉と視線を重ねた。

「この子は正文といって、私の子供、夏芽の兄にあたる人なんです。生まれてすぐに死んでしまったので、夏芽はこの子と会ったことはありませんが。」

 麗葉には、あやねさんのあっさりとした口調が感情を抑えたものに聞こえた。

「ごめんなさい。」

 麗葉の予想に反して、あやねさんは笑顔を見せた。

「そんな、そんな。あやまる必要なんてないですよ。私だって、誰かに見られるのを承知でこんなところに飾ってるんですから。」

 安心に混ざって、あやねさんが気を使ってくれているのではないか、という不安も残った。

「この子と、夫を交通事故で一度に亡くしたので村に戻って来たんです。だから、麗葉さんに会えました。」

 あやねさんは窓の外を見た。


 カラリ、カラリとベルが鳴った。壁に貼ってある時間表を見ると、二限目の終わりのようだ。

 麗葉は大きなあくびをした。昨夜、変な夢を見たせいか、あんまり寝た気がしない。

「眠ければ、そこのベットで寝ていてもいいですよ。」

 あやねさんが指差したのは、体調が悪い人が休むときに使うベットだ。昼寝に使わせてもらうのは悪いな。

「大丈夫です。頑張ります。」

「そうですか。校内の散歩にでも行ってきてはいかがですか。」

「散歩……ですか。」

「はい。今日はいい天気ですから、気持ちがいいかと思いますよ。」

 麗葉は窓の外を見た。確かに、よく晴れている。ここで時間を持て余しているよりは、楽しいかもしれないな。

「じゃあ、行ってきます。」

 麗葉は立ち上がる。

「行ってらっしゃい。あ、そうだ。給食、麗葉さんの分もありますよ。」

あやねさんは手を振っていた。だから、麗葉も控えめに振り返した。


カラリカラリと、ベルが鳴る。三時限目のはじまりだ。

校舎を出て正面に校門がある。とりあえず麗葉は校舎の周りを歩いてみることにした。むこう側が賑やかだ。行ってみようかな。

 校舎の裏に回る。そこは運動場になっていた。

運動場の真ん中に人が集まっている。男子と、女子と、それぞれに列なっている。みんな着物を着ている。体育の授業、じゃないよね。

 列の中にいた男の子の一人と目があった。男の子は物珍しそうに麗葉を見つめる。

 走り出した。運動場から離れるように。足が勝手に動いていた。


昔々、麗葉が私立の小学校に転校する前の話。

 三年生の時の担任は、新卒の、若い男の先生だった。今になって思うと、麗葉は先生の教材にされていたのだけれど、そんなことはどうでもいい。

 先生はよく、体育の時に来られたらおいでと言っていた。見学でもいいからと言っていた。麗葉はいつも、体操服に着替えて、グラウンドに出ていた。そして、いつもそこで怖くなって、不安になって、教室へ、砂のにおいがする教室へ、戻っていた。


 薄暗い、校舎の影に女の子がいた。

 若草色のエプロンドレスを着た、小柄な女の子だ。頭には、青いリボンが巻かれた麦わら帽子をかぶっている。

 女の子は、しゃがんで地面を見ている。いや、泣いているのかな。

 麗葉はゆっくりと近付く。やっぱり、泣いている。

 昔々、麗葉が通っていた公立の小学校には、中庭があった。

 中庭には、小さな池があって、コイが泳いでいた。

 時々、麗葉はそこで泣いていた。何がそんなに悲しいのか、何がそんなにつらいのか、わからなかった。ただ、泣いていた。

 麗葉を探しに来た先生は優しい口調で「今日は、頑張ったからもう帰っていいよ」と言った。

 それは失望だった。

「どうしたの?」

 麗葉は優しく、声をかけた。見上げた女の子の左目は、冬空のような青さだった。金髪だし、外国の人なんだろうか。

女の子は青い目に涙をためている。

「痛いの。」

「どこが痛いの?」

 麗葉はしゃがんで、女の子と視線の高さを揃える。

「目が痛い。右の目。」

 右目は強くつむっているので、どうなっているのかわからない。

「じゃあ、保健室行こか。立てる?」

 麗葉は手を差し出した。

 女の子は、その手を握った。とても、軟らかい手だった。


一年生の時、暴れん坊な男の子が同じクラスにいた。授業中に騒ぎ、他人のものでも勝手に使う。そんな子だった。

今になって思えば、クラスに一人はそんな人がいる。あえて気にするようなことじゃない。

 でも、それを知らない麗葉は毎日怯えていた。

 二学期がはじまると、学校に行かなくなった。いや、行けなくなった。

 理由を尋ねられると、暴れん坊な彼の名前を挙げた。確かに彼はきっかけだけど、原因ではない。

でも麗葉には、そう言うことしかできなかった。

幼なじみがいた。男の子だった。

親同士の仲が良かったから、仲良くなって、幼稚園の頃からお互いの家を行き来した。彼は、麗葉のお人形遊びによく付き合ってくれた。彼の趣向だったのか、ただ、麗葉に付き合ってくれていただけなのか、今なおわからない。

麗葉が学校へ行かなくなると、毎朝、迎えに来てくれた。

でも、麗葉は学校に行かなかった。すると、彼は放課後に、その日授業で配られたプリントを届けてくれた。

「はやく、元気になって学校に来てね。」

 彼の声が、おっとりしたしゃべり方が、麗葉は好きだった。

でも、麗葉は惨めさや、寂しさなんかをつのらせるだけだった。

病気なんかじゃない。だから、元気になってなんて言わないでほしい。

麗葉の思いが、知らず知らずのうちに態度に出ていたのだろうか。やがて幼馴染みは来なくなった。最後に交わした言葉は、何だっただろう。もう、思い出せない。

家に閉じこもる麗葉に、学校が貸してくれたのが、砂場のある教室だった。元々、麗葉のような、クラスに馴染めない子供のために用意してあった部屋らしい。

 結局、麗葉は五年生の夏休みまでそこですごした。


 カラリカラリとベルが鳴る。三時限目の終わりだ。

「麗葉さん?」

 あやねさんの声で、麗葉は我に返った。

「ごめんなさい。大丈夫です。」

 女の子を保健室に連れて行って、あやねさんに事情を説明して、女の子の手当てが終わるまで麗葉も保健室に残ることにした。

 あやねさんは、包帯も、薬も使わないで、女の子を膝に座らせ、優しい口調で話しかけていた。そして、何度も「本当は、痛くないんですよ。」と言っていた。

 少しずつ、穏やかな表情に変わった女の子は立ち上がって、帽子を取る。

 驚いた。女の子の頭に、耳がある。金髪の間から、一対の、三角形の、キツネのような耳がある。かわいいな。カチューシャか何かだろうか。

「ありがとう。もう大丈夫。」

 女の子は指先でスカートの裾をつまみ、首をかしげる。そういうお辞儀の仕方があるのは知っていたけれど、実際にやる人は、はじめて見た。

「私は中村京花。よろしくね。麗葉お姉ちゃん。」

 名前、言っていただろうか。

「よろしくね。」

 麗葉はお姉ちゃんと呼ばれるのが、嬉しくて、恥ずかしい。もしも、麗葉に妹か弟がいたら、麗葉お姉ちゃんと呼んでくれるだろうか。

 ふと、夏芽との姉妹ごっこのことを思い出した。夏芽は、頼んだらお姉ちゃんと呼んでくれるだろうか。

 麗葉は、お姉ちゃんのことはお姉ちゃんと呼ぶ。お姉ちゃんは、それをどう感じていたんだろう。

「麗葉お姉ちゃん、講堂に行こうよ。」

 京花ちゃんは麗葉の手を握る。

「講堂?」

「うん、講堂。私ね、オルガンが上手なんだよ。」

 麗葉はあやねさんの方を見た。

「行ってきては? 京花さんのオルガンは、見事なものですよ。」

 京花ちゃんは、得意げな表情を浮かべていた。


 麗葉が通っている私立の小学校と、その前に通っていた公立の小学校。どちらでも、使っていない教室には勝手に入らないように言われた。でも、この学校にはそんなのはないらしい。それどころか、京花ちゃんに連れてこられた講堂は、廊下との仕切りがなく、ただ、柱に『講堂・音楽室』と書かれた木の板がぶら下がっているだけだ。

 京花ちゃんは、講堂の端っこに置かれたオルガンの、その前の椅子に飛び乗るように座った。それから、丁寧な仕草で鍵盤の蓋を開けて、鍵盤の上に敷かれた布を取る。

「聞いていてね。」

 それだけ言うと、浅く息を吐いて、一音目を、鳴らした。

続いて、二音目、三音目。

ばらばらだった音がつながっていき、音楽になっていく。

鍵盤の上で踊る京花ちゃんの指。

明るいのに、どこか切ない曲だった。

さほど長い曲ではないらしく、京花ちゃんは二、三分で演奏を終えた。

麗葉は、拍手をした。麗葉に音楽のことはわからない。でも、わかる。京花ちゃんはオルガンを弾くのが上手だ。

「麗葉お姉ちゃん、こっち。」

 京花ちゃんはちゃち上がると、自分が座っていた椅子を叩く。そこに座れと言うことらしい。

「私は、オルガンは弾けへんで。」

 京花ちゃんは大きくうなずく。

「うん。それでも、いいんだよ。」

 麗葉は京花ちゃんに言われた通り、オルガンの前の椅子に座った。待ってましたとばかりに、京花ちゃんが麗葉の膝に飛び乗る。

 なんだろう。京花ちゃんのお尻に何か、軟らかいものがある。スカートがしわになっているのだろうか。

「麗葉お姉ちゃん、歌って。」

 そう言うなり、京花ちゃんは演奏をはじめる。どこかで聞いたことのある曲だ。

 そうだ、昔見ていたテレビアニメのエンディング曲だ。間違いない、こんな前奏ではじまっていた。

「歌って。」

 京花ちゃんの声が聞こえた途端、麗葉は歌いはじめていた。

 普段、恥ずかしくて人前で歌うことなんてできないのに、今は大きく口を開けてうたっていた。歌うことが、気持ちよかった。

 間奏に入る。

「上手だよ。」

 短い合間、京花ちゃんは演奏しながら言った。

「うん。ありがと。」

 短い合間に、麗葉は答えた。

 歌は二番に入る。一度か二度、聞いたことがあるだけなのに、すんなりと歌詞が出てくる。不思議だ。不思議だけど、楽しい。


 歌が、終わった。

「ねえ、麗葉お姉ちゃん。私と、お話してもらっても、いいかな?」

 京花ちゃんは麗葉の膝に乗ったまま、ふり返る。麗葉の顔と、京花ちゃんの顔がすぐ近くの距離にまで近づく。

 そこで気が付いた。

京花ちゃんの目は、左右で目の色が違うのだ。左目は水色で、右目は薄い紺色という感じの色だ。それに、左目は麗葉を見ているのに、右目は少し違う方向を見ているようにみえる。

「気付いた? 私ね、右目は見えていないんだよ。四か月くらい前にね、落っこちて、木の枝が刺さって、なくなっちゃったの。」

 京花ちゃんは右目を閉じた。まぶたに、かすかに傷跡が残っている。

「それでね、今の右目は作り物なんだ。目があるように見えた方がいいからって。もちろん、作り物だから、見えてないんだよ。」

 麗葉は何と言っていいのかわからなくなる。かわいそうだと同情するのも、ぜんぜん気が付かんかった、と冗談っぽく笑ってみせるのも、今は違う気がする。

「なんで、私に話してくれたん?」

 結局、それしか言えなかった。

「ごめんなさい。お姉ちゃんと手をつないだ時、少しだけ見ちゃったの。お姉ちゃんのこと。私が、ハネキツネだから。本当に、ごめんなさい。」

 京花ちゃんは前にむき直る。

「ハネ……キツネ?」

「そう、ハネキツネ。人間に似た姿と、羽の生えた狐の姿を持つ生き物。魔法を使う。」

 京花ちゃんは独り言をつぶやくように言って、麗葉の膝から飛び降りる。

「ごめんね、それから、ありがとう。」

 京花ちゃんは廊下にむかって走り出す。

「待って。」

 麗葉の声に、京花ちゃんは驚いたように足を止めて、ふり返った。

「ありがとね。」

 これだ。これが、正解なんだ。先生に、この一言を言ってほしかった。

 京花ちゃんは、照れたように笑うと、走って行った。その笑顔が、一瞬、今よりも幼かった日の麗葉の笑顔に見えた。

「よかったな。」

 麗葉は自然とつぶやいていた。

前の学校では、登校しても終業までいることはまれで、ほぼ毎回、早退していた。

先生は大抵認めてくれた。お母さんは、どうしてみんなと同じように、普通に学校に通えないの、と苛立っていた。

 京花ちゃんも、そうなんだろうな。

 麗葉は、一人で保健室に戻る。

「おかえりなさい。麗葉さん。」

 あやねさんは、机にむかって、書類を見ていた。

「歌、上手ですね。」

 あやねさんはつぶやくように言った。

「聞こえていたんですか?」

 講堂と、保健室は別の建物だ。窓も全て閉まっていた。なのに、聞こえていた。そんなに大きな声を出していたんだろうか。恥ずかしい。

「ハネキツネって何なんですか?」

 麗葉は話題を変えたかったのと、さっきから気になっていたのとで尋ねてみた。

「京花さんに聞いたんですか?」

 あやねさんは困ったような苦笑いを浮かべる。

「京花ちゃんもですけど、夏芽も言っていました。『ハネキツネ』って言葉だけ。」

 麗葉は近くのベットに座った。

 あやねさんは、息を吐いた。煙草を吸う人が、煙を吐くときのように、ゆっくりと、細く、長く。

「私や、京花さんは、ハネキツネです。あなたや、夏芽、人間とは、全く別の種のいきものなんです。」

 麗葉は無意識のうちに壁のポスターを見ていた。

「人間に似た姿と、羽根の生えた狐の姿を持つ生き物。魔法を使う。」

 昨日の夏芽の、さっきの京花ちゃんの言葉が、麗葉の口からスラスラと口から出た。

「はい。翼で空だって飛びますし、魔法も使います。この村は、ハネキツネの村です。村に住んでいる人間は、夏芽と麗葉さんを含めても、数人です。」

「本当なんですか?」

「信じてください、とは言いませが、これが真実だとしか言えません。」

 あやねさんは棚から、麦わら帽子を取り出した。古びたそれには、青いリボンが巻かれている。あやねさんは軽くほこりを叩き落として、かぶった。

「たまに、狐の耳が生えた状態で生まれてくる人がいるんです。ミミアリと呼ばれています。耳が消せず、完全な人間の姿になれません。この帽子は、元々は、ミミアリの人が、人間のふりをしたいとき、キツネの耳を隠すためのものなんです。」

 あやねさんは帽子をとった。頭には耳があった。キツネのような、三角形の耳が、一組あった。

「まあ、今では、村の子供はみんな帽子をかぶるようになりましたが。」

 あやねさんはもう一度、帽子をかぶり、すぐにとった。狐の耳は、無くなっていた。

 帽子の中から、ハラリハラリと羽毛が落ちた。


西日が差し込む頃、夏芽が保健室まで迎えに来てくれた。走って来たのか、息を切らせていた。

 あやねさんは夏芽に呆れつつ、二人で先に戻るように言った。まだ、たくさん仕事があるらしい。

「今日はどうだった。何かあった?」

 細い農道の真ん中を歩きながら、夏芽は尋ねる。

「京花ちゃんって人に会った。」

「きょーちゃん? 今日は保健室に来てたんだ。私も行けばよかったな。」

「ハネキツネって、ほんとにいてんの?」

 夏芽はしばらくの沈黙のあと「うん」と短くこたえた。

 そこから、お互いに何も言わないまま、あやねさんの家の前まで来てしまった。

「ねえ、麗葉。私も村に来てすぐはさ、いっぱいビックリして、いっぱい泣いた。ちびっ子だったけど、覚えてる。でも、六年たった今でも、それなりに暮らせてるんだな。これが。」

 夏芽は麗葉を安心させようとしてくれているの。でも、麗葉は大丈夫だ。本当に大丈夫なのか、強がっているだけなのか、自分でもわからない。でも、大丈夫だ。

「ありがとう。」

 夏芽は照れたように笑った。


 夏芽は鉈を使い、軽々と薪を割る。麗葉は少し離れたところにある切り株に座り、その様子を見ていた。

「麗葉もやってみる?」

 夏芽は汗を拭い、鉈を差し出す。だけど、麗葉は首を横に振った。

「そっか、もうちょっと待っててね。麗葉って料理はできるの?」

 今度は首を縦に振る。

「ちょっとだけやったら。」

 夏芽は再び薪を割りはじめる。

「じゃあさ、あとで一緒にご飯作ろうよ。それから、一緒にお風呂入ろ。」

 麗葉はうなずいた。


 かまどにたきぎをくべて、夏芽はマッチをすった。火がつかない。

「あれ、おっかしいな。」

 さらにもう一本すってみたが、それでもつかない。

「私がつけてあげようか。」

 後ろから声がして、ふり返る。目に入ってきたのは、三角の耳だった。

「こんにちは、夏芽お姉ちゃん、麗葉お姉ちゃん。」

 京花ちゃんは笑顔で小首をかしげた。

「いらっしゃい。ちょうどよかったよ。マッチが湿っちゃったみたいで。」

 夏芽が言うなり、京花ちゃんは自信にあふれた表情でうなずく。そして次の瞬間、たきぎの間から煙が立ち上りはじめる。

「ありがとー。助かるよ。」

 夏芽に頭をなでられて、京花ちゃんは嬉しそうに目を細める。

「今日ね、夏芽お姉ちゃんのお家でお泊りしたいんだけど、いい?」

「うん、いいよ。」

 夏芽はすぐに返事をした。あやねさんの許可はいらないのだろうか。麗葉は不安になったが、夏芽がいいと言ったのだからいいのだろう。そう思っておくことにした。


 夏芽が井戸で汲んで来てくれた水は、とても冷たい。麗葉が自分の手を見ると、真っ赤になっていた。

 研いだお米を鍋に入れた時、戸を開ける音がした。

「あやね先生だ。」

 京花ちゃんは台所を飛び出していった。

「おかえり、あやね先生。」

「ただいま。それから、いらっしゃい、京花さん。」

「今夜なんだけど、お泊りしていい?」

「ええ、もちろん。」

 そんな会話のあと、あやねさんと京花ちゃんが並んで台所に入ってきた。

「おかえり、あやねちゃん。」

「ただいま。夏芽、麗葉さん。」

 あやねさんは辺りを見渡す。

「晩ご飯、作っておいてくれたんですね。ありがとうございます。」

 あやねさんは本当にうれしそうだ。

「あとは、ご飯が炊けたら、完成だよ。」

 京花ちゃんが言う。

「では、私がかまどを見ていますので、お風呂を沸かして、入ってはどうですか?」

麗葉と夏芽と、京花ちゃんはそれぞれ、顔を見合わせた。


 京花ちゃんにしっぽがある。キツネのようなしっぽが生えている。昼間、京花ちゃんを膝にのせていた時に感じた違和感の正体はこれだったんだ。

 麗葉は浴槽の中から、目をつむっている京花ちゃんを見ていた。

「どうしたの?」

 京花ちゃんの髪を洗っていた夏芽は、麗葉の様子に気付いたようだ。

「うん、しっぽが……。」

「しっぽ?」

 夏芽は一度手を止め、京花ちゃんのしっぽをつまむ。

「何かあったの?」

 京花ちゃんはキョロキョロと左右に首を動かす。目を閉じたままだ。

「かわいいなって、思ってん。それだけ。」

 麗葉は笑った。何がそんなに嬉しいのかわからない。楽しい。嬉しい。だから笑った。


 夕食のあと、二つのベットの間に布団を敷いて、そこに麗葉が寝る。昨夜、麗葉が使ったベットは京花ちゃんが使うことになった。

「麗葉お姉ちゃんはいつまで村にいるの?」

「今度の日曜日に戻るから、今日入れずにあと四日やな。」

 四日。長いのか短いのかよくわからない日数だ。

「お家、好き?」

 京花ちゃんの声。

「うん。」

 夏芽が嫌いなわけじゃない。京花ちゃんのことも、好きになれそうだ。それでも、自分の家の魅力には遠く及ばないのだ。たとえ、お姉ちゃんがいても。

「そっか。はやく日曜日になるといいね。いっぱい、いっぱい、手紙を送ってね。」

 麗葉は無言でうなずく。

「もー。二人とも、寂しい話はしないの。」

 夏芽の声だ。怒っているように聞こえるけど、そういうふうにしているだけで、別に怒っているわけじゃないとわかる。

「じゃあ、何の話をすればいいの?」

 京花ちゃんの声。

「うーん。ほら、湖でワカサギ釣りができる話とか。」

「ワカサギっておいしいよな。」

 麗葉は言った。家では食べたことがないけど、学校の給食では時々出た。

「待っててね、麗葉が帰るまでに、釣ってくるからさ。」

 夏芽の声は、自身で満ちていた。

「私も食べたい。」

 京花ちゃんがつぶやくように言った。

「うん。京花ちゃんの分も大丈夫だよー。」

 すぐに、夏芽が返事をした。


 いつの間にか眠っていたらしい。暗い。ランタンの火は消えている。

 すぐ横で何かが動いた。麗葉の布団に入ろうとしているようだ。

「ごめんね、起こしちゃった?」

 誰もカーテンを閉めなかったらしい。京花ちゃんの顔が、月明かりに照らされる。右目には眼帯をつけている。

「寒いとね、右目が痛くなるんだ。」

 京花ちゃんは、そう言うと、麗葉に抱きついた。麗葉は無性に京花ちゃんが愛らしく思えた。

「今日は、ごめんね。学校、先に帰っちゃって。」

 京花ちゃんは、小さな声で言った。

「いいで。学校、しんどいもんな。行かんでいいんやったら、行きたくないもん。」

 麗葉は迷いなく言った。

「飛ぶのが、とっても上手だったんだよ。先生も、ほめてくれた。でもね、目が無くなって、飛べなくなっちゃた。」

 京花ちゃんの頭をなでる。麗葉の手は、キツネの耳にあたった。そのまま、何の気なしに耳を触る。やわらかい。

「くすぐったいよ。」

「ごめんね。」

 手を放した。

「みんな、私のことを笑うの。飛べないキツネだって。」

「悪口言われたん?」

「ううん。でもね、きっと笑われてる。こんな気持ちになるなら、人間に生まれたかったな。」

 一年生の頃、麗葉は舌っ足らずで、特にか行が上手く発音できなかった。

 ある日、上級生におかしいと笑われた。それからだ。今まで、何も気にしていなかったのに、急に怖くなった。

実は、クラスメート達も、麗葉の発音をおかしいと思っているのではないかと、見えないところで笑っているのではないかと、思うようになった。

結局、すぐに舌っ足らずは治った。

京花ちゃんをそっと抱きしめる。おばあちゃんも、よくこんなふうにしてくれたっけ。

かすかな寝息を感じる。早々と眠ったらしい。

麗葉もそっとまぶたを閉じた。


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