第二話 羽狐村
赤と灰色の電車に乗り込む。車内は空いていて、麗葉はボックス席の窓がわに、あやねさんはその斜め前の通路側に座った。
「麗葉さん。」
あやねさんが口を開いた。
「は、はい。」
「麗葉さん、その帽子。」
やっぱり、冬に麦わら帽子はおかしかっただろうか。麗葉はそっとつばを抑えて、顔を隠す。
「とてもよく似合っていますね。」
その言葉は、予想とは違った。麗葉が顔を上げると、あやねさんの笑顔があった
「私も、気にいっています。」
麗葉は、元気よく答えた。
ホイッスルの音のあと、電車の扉は閉まり、ゆるやかに加速する。
「なんだか、懐かしいです。麗葉さんのしゃべり方。私も、昔は関西に住んでいましたから。やはり違うものなんですね、ちょっとした抑揚が。」
麗葉は自分のしゃべり方が訛っているものだとは知っていた。でも、周囲には麗葉と同じしゃべり方をする人の方が、しない人より多かった。だから、今まで気にしてこなかった。
「私ね、八年前まで、京都に住んでいたんですよ。」
そうか、あやねさんはお母さんの高校の時の同級生だもんね。
「京都……ですか。」
あやねさんは、ほほ笑みを浮かべたまま、うなずいた。
「中学から、京都の知り合いのところで下宿していたのです。伏見に住んでいました。麗葉さんのお母さんと知り合ったのも、中学の時でした。」
あやねさんは一瞬、しまった、という表情になった。
「ごめんなさい。麗葉さんのお母さんと知り合ったのは、高校でした。」
あやねさんは、ごまかすようにペロリと舌をだした。麗葉には、あやねさんが少しあせったように見えた。たいした間違いじゃないのに。
「はじめて一人で電車に乗ったのは、中学の時でした。小学生の頃は、電車に乗ること自体、めったにありませんでしたから。汽車って呼んでたくらいでした。こんな遠くまで来るのは、怖くありませんでしたか?」
「はい。」
麗葉はうなずいた。はじめて一人で電車に乗ったのは、五歳の時だった。一人でおばあちゃんの家へ行った。
「麗葉さんは、大人ですね。」
あやねさんの言葉が、少し嬉しかった。
途中の駅で電車を乗り換える。ここから先は、銀色に赤いラインが入った電車だ。
次の電車も、各駅に止まりながら、山のふもとを走る。
しばらく会話が途切れていた中で、あやねさんが口を開く。
「娘がいるんです。私。」
うん。お母さんから少しだけ聞いてる。
あやねさんの左手薬指を見た。古い物なのか、くすんだ銀色の指輪がはまっている。
「あっ、結婚はしていませんよ。この指輪は……そうですね、おしゃれでつけています。家は娘と二人で暮らしています。」
好奇心は、結婚していないのに娘がいる理由を訊けと言っている。でも、何も尋ねなかった。
黙っていると、あやねさんは話を続ける。
「娘の名前は夏芽といって、麗葉さんと同い年です。」
「どんな人なんですか?」
そんな事を訊いてどうするんだろう。麗葉はそう思ったけど、他に言葉が思いつかなかった。
「そうですね……。麗葉さんによく似た子ですよ。とってもいい子です。」
似た者同士は仲が悪くなりやすい。そんな話を最近テレビで見た。
夏芽さんは、麗葉のことを快く思わないのではないか。誰だって、自分の縄張りを守りたいと思うものだろう。
冷たく接せられたらどうしよう。いや、いじめられたらどうしよう。
麗葉の頭の中は、どんどん悪い方へ転がっていく。
「優しい子ですよ。とっても、優しい。」
麗葉の気持ちを察してだろうか、あやねさんはつぶやくように言った。
電車は、トンネルに入った。
「そろそろ駅ですね。」
あやねさんの言葉通り、電車は一気にスピードを落としたあと、ゆっくりとトンネルの中の駅にすべり込んだ。
「さっ、降りましょう。終点ですので、急がなくていいですよ。忘れ物がないように気をつけてください。」
麗葉はリュックを背負うと、忘れ物がないか、一度、座席を見てから電車を降りた。
三百六十度を灰色のコンクリートで囲まれた空間を、少数の電灯が照らしている。
うす暗いプラットホームは映画で見た昔の地下鉄の駅のようだ。
麗葉は辺りを見回す。麗葉たちの他には誰もいない。
「参りましょうか。」
「はい。」
麗葉はあやねさんのあとに続いて階段を上がる。
コツリ、コツリ、と響く足音が、小気味よい。
階段を上がり、無人の改札を抜け、もう一度階段を上がる。
うっすらと雪の積った冬の田園風景が広がっていた。その後ろには、空まで届くのではないかと思われる山が、壁のように連なっている。写真でしか見たことがない風景だ。
そよ風が吹いた。
「さぶっ。」
麗葉は思わずつぶやいた。
「そのうちに慣れますよ。きっとね。」
あやねさんの言う通りだ。そのうちに何とも感じなくなるだろう。少しの我慢だ。
デコボコのあぜ道。曲がり角を何度か曲がりながら、歩いて行く。たまに古びた家を見かける以外は、刈り取りが終わった茶色い田んぼか、畑が広がっている。一人で出かけたら、きっと迷子になってしまうだろう。
「すごいところでしょ。」
麗葉が返事に困っている内に、あやねさんは話を続ける。
「中学に上がって、京都に引っ越した時は驚きました。さらに、村に戻ってきたときは、もっと驚きました。私ってこんな田舎に住んでたのかって。」
あやねさんは冗談っぽく笑った。
駅から十五分くらい歩いたところで、あぜ道は山道に変わった。
「もう少しですから、頑張ってください。」
麗葉は「はい」と返事をした。実のところあまり疲れてはいない。体育は苦手だけど、体力には自信がある。
さらに進むと、木々が途切れ、開けた場所に出た。湖があって、道は湖に沿うように続いている。
「綺麗な、ところですね。」
麗葉は何の気なしに言った。
「神の住む湖。村ではそう言い伝えられています。もう少し寒くなったら、氷ることもあるんですよ。」
麗葉がこの村に滞在するのは一週間。その間に氷ってほしいな。一度くらい、氷った湖を見てみたい。
湖の近くにあやねさんの家があった。白い壁の西洋風の家だった。ファンタジー小説の中にでも入り込んだような気分だ。
大きな窓から日が差し込む客間で、麗葉とあやねさんはテーブルをはさんでむかい合うように、ソファーに座っている。
リュックサックは、ソファーの横に立てかけて、その上に麦わら帽子を置いた。
「本当に、よく来てくれましたね。ありがとうございます。」
何に対するお礼なのかわからないから、一言「はい」とだけ返事をしておいた。
あやねさんはお茶を一口飲む。湯呑みに入れられた日本茶は、家そのものも家具も洋風なこの場で、少々異質な感じがする。
「麗葉さん、大切なことなので訊いておきたいのですが、アレルギーやらそれ以外でも、病気などはありますか?」
「いえ。何も無いです。大きな病気をしたこともありません。たまに風邪をひくけど、そのぐらいです。」
あやねさんはお茶を一口飲んだ。
「麗葉さん、今十二歳でしたっけ?」
「いえ、十歳、もうすぐ十一歳です。」
「そうですか。自分の娘と同い年なのに、覚えていないとは。」
あやねさんは少し、ほんの少しだけ、寂しそうな顔をした。
麗葉はお茶を一口飲んだ。猫舌の麗葉にも飲めるくらいに冷めていた。
お茶を飲みきった頃に、玄関の方で音がした。
「夏芽ですね。」
麗葉が尋ねるより先に、あやねさんが答えた。
夏芽さん。電車の中で聞いたあやねさんの娘さんの名前だ。
どんな人なんだろう。怖い人だったら、嫌だな。鼓動が、はやくなる。
「たっだいまー。」
大きな声と共に戸を開けて入って来たのは女の子。
体格は、麗葉と同じくらいで、服は黄色の着物に深緑の外套を羽織って、紺色の袴をつけている。髪は、肘くらいまでの長さで、青いリボンが巻かれた麦わら帽子をかぶっている。麗葉が、誰かわからない誰かから預かっている帽子によく似ている。
「私、丸藤夏芽。よろしくね、麗葉。」
夏芽さんは見た感じそのままの明るい声で言った。
「夏芽、まずは荷物と外套を部屋に置いてきなさい。話はそれからにしましょう。」
「はーい。」
夏芽さんは、パタパタと走っていった。そのあとに聞こえた音は、きっと階段を駆け上がる音だ。
「ごめんなさいね。騒がしい子でしょ。」
苦笑のような表情を浮かべるあやねさんを見ながら、麗葉は首を左右に振った。
「ううん。うらやましいです。私は、あんなふうにはなれへんから。」
夏芽さんのような人は、周囲の人に好かれやすいと思っている。何もしなくても、教室の中心にいる人だ。
「無理に、とは言いません。でも、出来るなら、あの子と仲良くしてあげてください。喜ぶでしょう。」
あやねさんは客間を出ていくと、新たに湯呑みを持って戻って来た。夏芽さんの分だろう。
夏芽さんはすぐに戻ってきて、あやねさんの横、麗葉から見て左斜め前に座る。さっきは髪はくくっていなかったのに、今はピンクのリボンでポニーテールにしている。
「ほんとに、よく来てくれたね。ありがとうね。」
さっき、あやねさんに言われたこととほとんど同じだ。麗葉は思わず笑ってしまった。
「へ、何かおかしかった?」
夏芽さんはあせったようにあやねさんの顔を見た。あやねさんも、笑っていた。麗葉の考えていることがわかったようだ。
三杯目のお茶を飲み終えた頃、夏芽さんが立ち上がった。
「麗葉、部屋に行こうよ。」
部屋とは、何の部屋だろうか。
「麗葉さんに好きに使ってもらえる部屋を用意したんです。」
あやねさんが言った。
「私に……ですか?」
なんだか、申し訳ない気持ちになる。嬉しいのは嬉しいのだけど、たった一週間しかいない麗葉のために、部屋を用意してくれるなんて。
「はい。二階の部屋です。夏芽に案内してもらってください。」
麗葉は小さな声で、「ありがとうございます」と、言った。
「あ、でも、私と相部屋だよ。他に部屋がないからね。」
夏芽さんは嬉しそうに笑った。
古びたベットに腰掛けてみる。麗葉が家で使っていたものより、ずっと柔らかい。これは、今夜眠るときが楽しみだ。
家具は勉強机が二つと、それに合わせた椅子が二つ。ベットも二つ。窓辺にはソファーが二つ。それにはさまれてテーブルが一つ。
「どうかな。気にいった。」
夏芽さんは自分のベットの上にあぐらをかいて座っている。袴ははずしているけど、和服のままだ。
「ごめんね、私の物が多くってさ。」
夏芽さんは、麗葉の様子をうかがうかのように言った。
そんな目で見られると、気まずくなってしまう。元々ここは夏芽さんの部屋だったのだから、もっと堂々としていいんだ。
「私の方こそごめんなさい。出来るだけ私の荷物は小さくまとめます。」
麗葉はそう言いながら、麦わら帽子をたぐり寄せた。
「それ、麗葉の?」
夏芽さんが尋ねると、麗葉はうなずきかけた。でも、うなずかなかった。
「昔、公園で誰かが忘れて行って、それをずっと預かっているんです。」
夏芽さんは、麗葉の横に座った。体があたりそうなほど近くだ。
「六年ぶりだね。麗葉。」
夏芽さんは、何を言っているんだろう。
「どういうことですか?」
「そういうこと。六年前、私ね、大阪に旅行に行ってレイハって名前の女の子に会ったんだ。あやねちゃんから、レイハって名前の女の子が来るよって聞いた時、もしかしたらって思った。その帽子を持ってるってことは、間違いないよね。」
夏芽さんは手を差し出す。麗葉は帽子を渡した。
「怖いものがなくなる、魔法の帽子。」
麗葉がつぶやくと、夏芽さんはうなずく。
「これね、村の小学校の制帽なんだ。リボンの下に、刺繍があるはず。」
夏芽さんは青いリボンをほどいた。その下には、細い白のリボンが巻かれていた。そんなものがあるなんて、知らなかった。
夏芽さんは、白いリボンの一点を見つめている。横からのぞくと、そこには黒い糸で刺繍がしてあった。
『羽狐村立小學校 まるふじ なつめ』
「ありがとう……。」
夏芽さんは、今にも泣きそうな顔でつぶやいた。悲しくて泣きそうなんじゃない。嬉しくて泣きそうな、そんな顔だ。
「どしたん?」
「何でもないよ。ただ、嬉しくて。」
夏芽さんはすぐに普通の表情に戻った。いや、戻したんだ。
「すごい偶然も、あるもんだね。」
本当に、その通りだ。すごい偶然もあるものだ。誰かが、わざとこうなるようにしたとわれても、今は信じられる。
「麗葉、髪切ったんだ。」
「はい。」
夏芽さんは、髪を伸ばしたんだ。
「うーん。」
夏芽さんは何かを考える仕草をした。
「ねえ、麗葉。おままごとをしない?」
「おままごと?」
「そう。私たちは双子の姉妹。そういう設定で暮らすの。二人でいるときだけさ。面白いと思わない?」
夏芽さんの言いだしたことは唐突だった。
「なんで、そんなことすんですか?」
間違えたら、怒っていると思われてしまいそうだから、優しい口調を心掛けた。
「うーん。なんだろうな。同じ家で暮らしていて、同い年だし、双子みたいでしょ。なんか、ただならぬ縁もあるみたいだしさ。いいでしょ?」
きっと、長続きしない。二日目か三日目で終わってしまうだろう。でも、夏芽さんと仲良くなれるなら、それはいいことだ。
「うん、やります。」
「じゃっ、そうゆうことで。よろしくね、おねーちゃん。」
言ってから、夏芽さんは恥ずかしそうに顔を手で覆った。
「私が、お姉ちゃん?」
予想外だった。麗葉より夏芽さんのほうがお姉ちゃんっぽい気がする。
「あの、夏芽さんがお姉さんの方が……。」
「ううん。麗葉はお姉ちゃん。私のね。」
落ち着いた口調なのに、力強かった。
夏芽さんは、麗葉の首筋に腕をまわし、麗葉を抱きよせる。
「会えてうれしいよ。私のことは夏芽って呼んで。麗葉がお姉ちゃんなんだから。」
どうして、夏芽さんは夏芽さんが妹で、麗葉が姉という関係にこだわるのかはわからない。だけど、夏芽さんなりに麗葉と仲良くしようとしてくれているのだろうか。麗葉は納得することにした。
麗葉はそっとうなずき、夏芽さん、じゃなくて夏芽の腕をほどいた。
ごめんね、人の体温って苦手なんだ。
麗葉が村に来て、驚いたことがある。村にはガスが来ていないらしい。だから、お風呂は薪で沸かしているとのことだ。
夕日が照らす裏庭で、夏芽は鉈を使い、軽々と薪を割る。麗葉は、切り株に座り、その様子を見ていた。
「さっきの帽子さ、麗葉にあげるよ。」
手で汗を拭いながら、言った。
「いいの?」
「うん。そのつもりで、あの公園に置いて行ったんだ。元々は近所に住んでたお姉さんが小学生の頃に使っていたものをもらったんだけど、今は私も村の小学生だから、自分のがあるしね。」
「ありがとう。」
嬉しかった。実は、あの帽子を気に入っていたのかもしれない。
「どうしてこの村に来たの?」
そっか。夏芽は何も聞いていないんだ。
「お姉ちゃんが入院して、お父さんもお母さんも、忙しくなるからって。」
短く答えたのは、順序立てて説明するのが面倒だったからではない。あくまで、冷静を装いたかったからだ。
「病気? 怪我?」
「病気。頭の毛がなくなるやつ。」
「そっか。心配だね。」
「うん……はよ退院したらいいな。」
そうしたら、家に帰れる。たったそれだけのことで、家に帰れる。
「麗葉はさ、ハネキツネって知ってる?」
おもむろに、夏芽は尋ねた。
この村の名前は、羽狐村だ。でも、その由来は知らない。
「わからん。」
「聞いてないの?」
麗葉はうなずく。
「人間に似た姿と、羽根の生えた狐の姿を持つ生き物。魔法を使う。」
何かの本の一文らしい。夏芽の声は、暗唱している物を読み上げる口調だった。
「なんなん? それ。」
麗葉は尋ねた。
「村に昔から伝わる一文。」
夏芽は短く答えた。
ハネキツネ。伝説の生き物か何かなのだろうか。夏芽は、それ以上は語ってくれなかった。
お風呂に入って、家から持ってきたピンク色のパジャマに着替える。ちなみにこれは、麗葉の一番のお気に入りのパジャマだ。
そして、夕食。
何の魚かはわからないけど、尾頭付きの魚の天ぷらと、すまし汁と、お芋の煮物と、それから白ご飯がある。
「わーい。豪華な晩ごはんだー。」
夏芽は両手を上げて喜んでいる。
「今日は麗葉さんの歓迎会も兼ねて、頑張っちゃいました。」
あやねさんは少し照れているようだ。
三人は一緒に言う。
「いただきます。」
麗葉はすまし汁を一口飲んでみた。香味野菜の味がする。ミツバだ。
ふと、懐かしい感じがした。
何の味だっけ。
そうだ。大阪に住んでいたおばあちゃんのすまし汁だ。いつもミツバが入っていた。
おばあちゃんの家で暮らしていた頃は、幼すぎて何も感じなかったけど、今になって思うと、おばあちゃんはとても料理が上手だった。
「どしたの?」
夏芽が不思議そうに麗葉を見ている。
「ううん。何でもない。おいしいなって思っただけ。」
「あったり前じゃん。あやねちゃんの手料理だもん。」
夏芽はすかさず、自慢げに言った。
「ミツバが好きなんですか? 村では春にならないと手に入らないですが、また村の外へ行く機会があれば買ってきますね。」
あやねさんの言葉の通り、ミツバは麗葉の好物の一つだ。しかし、小林家でミツバが食卓に上がることなどほとんど無い。お姉ちゃんはミツバが嫌いだからだ。
麗葉はゆっくりと味わおうと、もう一口飲んだ。
麗葉が村に来て、驚いたことがある。村には、電気の来ていない家の方が多いらしい。
ロウソクの灯りを案外明るく感じるのは、辺りが暗いからだろうか。麗葉はベットの上から、サイドテーブルに置かれたランタンを見て考えていた。
「麗葉、まだ起きてる?」
隣のベットにいる夏芽は、はっきりと見えない。眼鏡を外しているから。
「うん、起きてんで。」
麗葉は体を転がし、うつ伏せになる。隣のベットでも布のこすれるような音がする。夏芽も体勢を変えたのだろう。
「眠れないの?」
「ううん。大丈夫やで。」
麗葉は去年の林間学校を思い出した。一泊二日の日程だったけど、一日目の夜に体調を崩して、何度も嘔吐して、苦しかった。惨めだった。
だから、あんまりいい思い出じゃない。
「麗葉、さっきはごめんね。」
何のことだろう。
「いきなり姉妹ごっこにつき合わせちゃってさ。びっくりしたでしょ。やめても、いいんだよ。嫌なら。」
「別に、嫌って訳じゃ……。」
麗葉の言葉は、尻すぼみになって、消えていく。嫌って訳じゃない。だけど、どうしていいのかわかんない。楽しむだけの余裕がない。
夏芽が、小さく息を吸う音が聞こえた。
「聞いてもらっていい? 麗葉。」
「何を?」
しばらくの静寂。その後に「私のこと」という夏芽の声。
「いいで。」
麗葉はそう答えた。
「捨て子なんだ。私はさ。四歳の時、山ん中に捨てられて、村の優しいお姉ちゃんに拾ってもらった。」
「うん。」
「拾ってくれたお姉ちゃんが、そのとき高校生だったから、私はあやねちゃんの子供になったんだ。」
「うん。」
「昔、公園で麗葉に会った時。あれね、本当のお母さんにさよならしに行ったんだ。次の日から、私は丸藤夏芽になった。」
夏芽は、ゆっくりと深呼吸した。
「あやねちゃんの机の引き出しに、私の資料があった。私が生まれた病院、本当のお母さんの名前と今住んでるところ。それから、双子のお姉ちゃんがいること。」
また、夏芽は体勢を変えたようだ。
「あやねちゃんにはこの話はしないでね。あやねちゃんは、私が何にも知らないと思ってる。教えてくれる気も無いみたい。」
「なんでやろ?」
「知らない幸せ、かな。きっと。あやねちゃんなりに、私の事を考えてくれた結果なんだろうね。私が悩まないように、苦しまないように。」
夏芽は、ランタンに顔を近付ける。真剣な表情が見えた。
「私は、あやねちゃんをお母さんだと思ったことは、一度もない。でもね、感謝はしてるし、大好きだから。だから、あやねちゃんには何にも言わないって、約束して。」
麗葉は考えた。考えて、それから、口を開く。
「いいで。」
麗葉が伸ばした手。その小指に、夏芽の小指が絡む。
おそらく麗葉は誰にも言わないだろう。それは、約束だからじゃない。夏芽の身の上が重すぎて、背負いたくないから。聞かなかったことにしておきたいから。
「ありがと。そろそろ消すね。」
「うん。」
夏芽がランタンの火を吹き消すと、部屋は真っ暗になった。
「おやすみ。」
「おやすみ。」
まぶたを閉じた。
ずるい人間で、ごめんなさい。
麗葉は学校にいた。今、通っている私立の学校ではない。その前に通っていた、公立の学校だ。
下駄箱は規則的に並べられているのに、迷路のようだ。
自分の靴を入れる場所を探さなきゃ。下駄箱に貼られているは名前ではなく出席番号のシール。麗葉の出席番号は何番だっただろうか。そんなのわからない。それでも、探さなきゃ。シールの枠が赤色なのが一組。青色なのが二組。
黄色の十五番。
ああ、そうか。ここが麗葉の下駄箱か。どうしてだかわからないけど、知っていた。
下駄箱には、下履きが入っていた。そうだった。麗葉はさっき、靴を履きかえたんだ。
渡り廊下を渡って、階段を上がって、教室の扉を開けた。
教室の真ん中に、机が一つだけ、椅子も一つだけある。麗葉の席だ。
小走りで机のところへ行った。授業中に書いた、落書きがある。ワシ、スズメ、ニワトリ、ペンギン。漫画風の絵の鳥たち。その横に、太く、黒く、こんな一文が添えられていた。
『この机はもう小林麗葉さんの物ではありません。』
ああ。そうだった。麗葉はもう四年生だった。教室を間違えたんだ。恥ずかしさから逃げるために、麗葉は走って四年生の教室へ行った。
四年四組の教室の扉を開けると、机があった。たくさんあった。それは、壁のように、麗葉の目の前に積まれている。麗葉は机と机のわずかな隙間を抜けていく。天井近くまで積み上げられた机が今にも崩れてきそう。ゆっくりと、慎重に進む。
教室の中央にたどり着いた。机と椅子が置いてある。一つだけ、積み重ねられずに。
机のすみっこに「小林麗葉」と書かれたシールが貼ってある。
麗葉は椅子に座った。ここが、麗葉の、居場所だ。
積み上げられた机が、軋んだ。
崩れてくるんじゃないのか。
麗葉は、椅子に座ったまま、体を小さく丸め、頭を腕で覆う。
崩れてはこない。でも、軋む音は響く。
扉を開ける音がした。見ると、男の人がいた。顔はわからない。なぜなら、落書きのような笑顔が描かれた厚紙で顔を隠しているから。体格で男の人だと思っただけで、本当は女の人かもしれない。
「麗葉ちゃん。辛かったら、休んでいいんだよ。」
男の人の声だ。麗葉にむかって手招きをする。
麗葉は男の人と一緒に教室を出た。
階段を上がって、最上階。左に曲がって最初の部屋。
そこは、他の教室とは様子が違った。床にはカーペットが敷かれていて、ソファーが置かれている。応接室のような教室だ。カビ臭さの中に砂のにおいが混ざっているのは、部屋のすみに木枠で作った砂場があるからだ。
「麗葉ちゃん、好きに使っていいよ。」
男の人はそう言い残すと、部屋を出ていった。
その直後、男の人のため息が聞こえた。




