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普通の日が普通じゃなくなるとき

 歌。

 歌が聞こえる。テレビで聞いたことがある歌だ。たしか、シチューのコマーシャルで使われていた。

 ざわめきの中でかすかに聞こえる、声量があって、よく通る声。この声は、クラスメートの美咲ちゃんだろうか。

 探してみると、いた。

 両サイドで髪を結っている、麗葉より少し小柄な女の子。美咲ちゃんだ。

 校門のところで、暇そうに歌っている。誰かを待っているのだろうか。

 転校してから、はじめに仲良くなったのが、美咲ちゃんだった。もしかしたら。いや、きっと、転校生というのが珍しかっただけなのだろう。でも、むこうから話しかけてもらえたのは嬉しかった。

 名簿の順番に席についたら「小林麗葉」の左横はちょうど「伊藤美咲」になる。

 それから、教科書を忘れたときは見せてくれたし、見せることもあった。授業で二人一組になるときも、毎回、むこうから声をかけてくれた。美咲ちゃんは、しょっちゅうノートや筆箱なんかを失くすから、その時はいつも一緒に探している。

 もしも、麗葉のことを待っててくれたなら嬉しいな、と思いながら、あえて歩く速さをゆっくりにして校門を通り抜ける。

 他のクラスメートが美咲ちゃんに話しかけた。

 美咲ちゃんは、歌をやめて、おしゃべりをはじめる。なんの話をしているのかはわからない。

 あの人のことを、待っていたんだ。美咲ちゃんは、友達が多いから、麗葉が特別というわけじゃないんだ。

 麗葉は歩く速さを元々の、ほかの人より少しはやいものに戻したときだ。

「れーいはっ。一緒に帰らへん?」

 声とともに、ドン、という音がして、麗葉は前にこけそうになった。

 驚いて振り返ると、美咲ちゃんが笑っていた。

 ランドセルを叩いたようだ。

 視線を動かしてみると、さっき美咲ちゃんとしゃべっていた人は、麗葉とは別の方向へ歩いて行くのが見えた。

「一緒に帰ろ。確か、電車やんな。今日は私も電車やねん。」

 麗葉は小さくうなずいた。そして、ずれた眼鏡をなおした。転校の直前に新調したこの眼鏡、少し大きいから、よくずれる。

「そやけど、いっつも車で送ってもらってるんちゃうん?」

 何度か、美咲ちゃんが自動車で送り迎えしてもらっているところを見たことがある。

 美咲ちゃんは制服のスカートのポケットから、何かを取り出した。

「今日から電車なのです。」

 そう言いながら、見せてくれたのは、電車の回数券だった。

「ホンマはな、教室でつかまえるつもりやってんけど、れーちゃん、さっさとどっか行ってしまうから、校門のとこで待っててん。行っちゃうからあせったわ。」

 駅へむかう道を歩きながら、美咲ちゃんは言った。

「ごめん。私ちゃうと思って。」

 美咲ちゃんは笑いながら、麗葉のランドセルをパンパンと叩く。

「れーちゃんだよ、れーちゃん。でさ、どこ行ってたん?」

 もし、美咲ちゃんの中で、麗葉が少しだけ特別なら、嬉しいな。

「職員室呼ばれててん。」

 麗葉は自然に笑顔が浮かべていた。

「なんか、やらかしたん?」

 美咲ちゃんは作ったとわかる深刻な表情をする。

「ちゃうで。先生と面談しててん。クラスに馴染めたかって。」

 麗葉は真面目にこたえた。冗談の一つでも言ってみようかと思ったけど、ここでふざけたことを言ったら、話が前に進まなくなってしまう。

「うん、うん。それやったら、心配ないな。私がいてんねんから。」

 美咲ちゃんは満足げにうなずいた。


 駅のホームには、麗葉や美咲ちゃんと同じ制服を着た人たちであふれかえっていた。いつもより少し遅い時間だから、空いていると思ったのに、当てが外れた。

 下級生はもう帰ったはずだから、五年生か六年生だろう。

「どうする? 次の電車にする?」

 今日は金曜日だ。はやめに家に帰って、のんびり休みたい。

「待っても座れへんやろうから、来た電車で帰ろ。」

 麗葉が言うと、

「がってんしょーち。」

 美咲ちゃんは冗談っぽく笑った。

 ちょうどいいタイミングで近くの踏切が鳴りはじめ、電車が来る。前の車両と、後ろの車両しかない、 おもちゃのような電車だ。だから、車内は麗葉と同じ制服を着た人たちで、満杯になる。

 麗葉も、美咲ちゃんと体が当たりそうなところに押し込まれる。

 ふと、匂いを感じた。よく知っている甘酸っぱい匂いだ。そう、ミカンのような匂い。美咲ちゃんと一緒にいると、時々この匂いを感じる。香水でも使っているんだろうか。

 美咲ちゃんの声が、麗葉の考えをさえぎる。

「冬休みは何すんの?」

 冬休みまであと一週間。何一つ考えていなかった。何がしたいだろう。

「あんまり考えてへんだけど……。もし行けたら、湖北に行きたいな。」

 今、思い付いたことだ。深く考えず、出来たらいいな、くらいの気持ちで言った。

「湖北? 何しに行くの?」

 思いほのか食いついた美咲ちゃん。麗葉は少し勢いに押される。

「オオワシを見に行きたいかな、って。」

「見られんの? オオワシ。」

 美咲ちゃんの言葉に、うなずいた。

 親戚に野鳥好きのおじさんがいて、一昨年も、去年も、連れていってもらった。望遠鏡を通して見たアイツは、今でも麗葉の思い出にはっきりと残っている。

 黄色いくちばし。白い顔。精悍な顔つき。イケメンだった。メスかもしれないけど。

「じゃあさ、じゃあさ、私もついて行っていい?」

 いけない、いけない。今、思い付きで言ったことなのだ。あまり期待されても困る。ホントに行くって、保証できないよ。

「でも、行けたらいいなって、くらいの話しやし。行くかどうかもわからんし。」

 美咲ちゃんは手をひらひらと動かす。

「いいよ、そんなん。もし行くなら、でいいから、連れてってーな。お願い。」

 本当は、学校の外でクラスメートと会うのは好きじゃない。でも、断って美咲ちゃんとの距離が開いてしまうのも嫌だ。

「うん。いいで。」

 麗葉は出来るだけ本心が伝わらないように言ったつもりだけど、美咲ちゃんはどう感じただろうか。

「じゃあさ、電話番号おせーてーや。」

 美咲ちゃんはスカートのポケットからメモ帳を取り出した。

「あたしの番号もあげるわ。」

 さらにボールペンも出すと、サラリサラリと電話番号を書いて、一頁ちぎると、麗葉の手の平を掴んで、そこに置いた。

 麗葉は、メモを二つ折りにして、コートのポケットに入れた。

 それから、ペンとメモを借りて自分の電話番号をわたした。

「あっりがっとさーん。ほな、今度電話するし。」

「うん。」

 麗葉はわざと笑った。

「でも、麗葉って鳥が好きなんや。」

「うん。」

 変わり者だと思われてしまうんじゃないか不安で、あまり鳥が好きだと言ってこなかった。本当は、誰かに話したかったんだ。自分のこと。

「じゃあ、誕生日プレゼントはその方向で考えとくわ。十二月二十六日。楽しみにしといて。」

「私の誕生日、誰に聞いたん?」

 ちょっと大きな声が出てしまった。電車の中だから、気を付けないと。

「れーちゃん、自分でゆうてたで。転校してきた日に。」

 全く憶えてない。転校初日は緊張していたから、何をしゃべったかなんて記憶にない。憶えていてくれてんだ。嬉しい。

「憶えててくれて、ありがとう。」

「すんごいプレゼント用意するから、楽しみにしとってや。」

 麗葉は本心で笑った。美咲ちゃんも笑った。こっちも、本心で笑っててくれたんだったら嬉しいな。


 途中の、大きな駅でほとんどの人が降りる。美咲ちゃんも、大きく手を振りながら降りていった。麗葉は苦笑いを浮かべながら、小さく手を振った。

 適当な空席を見つけて座った。車両の、一番端の席だ。

 降りる駅まで、あと十分ほど。今までずっと一人で電車に乗っていたはずなのに、今日はなんだか寂しく感じる。


 小さな無人駅で電車を降りて、早足で坂道を下っていった。さっさと家に帰りたい。

 最初の曲がり角を曲がった途端、目に自転車が入って来た。

ぶつかる。

 麗葉は反射で足を止める。自転車はブレーキをきしませながら、目の前で止まった。

「ごめんなさい。」

 麗葉は早口でいうと、自転車に乗っていた人と目を合わせずに、立ち去ろうとした。顔を見たら、怒られてしまう気がした。

「麗葉ちゃん?」

 おもむろに名前を呼ばれ、麗葉は顔を上げる。

 自転車にまたがっていたのは、若い男の人だった。麗葉が公立の小学校に通っていた頃に、担任だった人。

 三年生の時に新卒でやってきて、四年生もこの先生が担任だった。

「どうも……こんにちは。」

 麗葉は小さな声で言った。なんだか、とても恥ずかしい。

「麗葉ちゃん、今帰り?」

 麗葉はうなずきながら「はい」と返事をした。

「みんな、元気にしてるよ。」

「はい。」

「新しい学校の制服、似合ってるよ。」

「ありがとうございます。」

「髪も、切ったんだ。」

「はい。」

 麗葉は自分の髪を撫でた。公立の小学校に通っていた頃は、肘くらいまで長さがあったけど、転校してからは肩に当たるかどうかの長さにしている。首筋の寒さに、最近慣れてきた。

「じゃあ、頑張ってね。」

 先生は、そう言い残すと、自転車をこいでいった。この辺りは、坂の多い地域だから、見るからに大変そうだ。

「頑張ってね……か。」

 麗葉は先生の背中にむかってつぶやいた。

 麗葉は頑張ってるよ。


 家まで帰ってきた。

 ドアノブをひねる。

 鍵がかかっている。

 別に慌てるようなことじゃない。お母さんはこの時間に買い物に行くことが多いし、お父さんは仕事で、お姉ちゃんは中学生だからもうしばらく帰ってこない。

 こういうときは、郵便ポストに鍵を入れておくことになっている。見てみると、やっぱりあった。鍵と もう一つ、封筒も入っていた。味気のない白い封筒だ。お母さん宛てになっている。

裏返して、封筒の差出人に目をやる。


『長野県北佐久郡羽狐村神家一丁目一番三号

丸藤あやね』


 麗葉はこのあやねという人を知らない。たぶん、お母さんの知り合いなんだろう。お母さん宛ての手紙だし。

 鍵を使って、玄関のドアを開ける。

 お姉ちゃんが学校へ行くときに使っているローファーがある。

「ただいまー。」

 返事がない。

 まあ、お姉ちゃんは家にいても返事をしないことも多いから、あんまり気にする必要はないのかもしれない。

 そういえば、今朝、お姉ちゃんは体調が悪いと言っていた。もしかしたら、今日は学校を休んだのかもしれない。だとすると、物音をたてないように気をつけないといけない。あとで怒られる。

 ダイニングにあるテーブルの上に、封筒と鍵を置くと、階段を上がり、手前から数えて二つ目の部屋に入る。麗葉の部屋だ。

 ランドセルを部屋のすみに置き、コートをハンガーに掛けて、ベットに仰向けで寝転がった。

 自然と、ため息がこぼれる。今の学校にもずいぶん慣れた。前に通っていた公立の小学校よりずっとずっと楽しい。

 でも、家に帰ると、ああ疲れた、という思いがあふれる。たぶん、麗葉は人の中で生きるのが苦手なんだろうな。前に、お母さんがそう言っていたし。

 ベットに寝転んだまま手を伸ばしてのびをする。指先が何かに触れた。

 枕元に置きっぱなしにしていた、鳥類図鑑だ。手探りでたぐり寄せて、頁を開く。

 適当に開いたのに、上手いことオオワシの頁を開くことができたのは、よく見ているからだ。図鑑にクセが付いてしまっている。


『オオワシ

 全長90~100cm 翼開長200~250cm

大型の猛禽類。主に水辺に住み、魚を餌とする。日本には越冬のために飛来する。』


 美咲ちゃんとオオワシを見に行く。案外悪くないのかもしれない。

 でも、どうすれば見に行けるのだろう。いつも、親戚のおじさんに車で連れていってもらったから、電車やバスだとどう行くのかわからない。それ以前に、お母さんは許してくれるだろうか。

 下の階で音がする。お母さんが帰ってきたのかもしれない。

 麗葉は部屋を出て、階段を下りる。はじめの二段か三段はドタドタと。そこで、お姉ちゃんが帰っていることを思い出して、ゆっくりと。

 言ってみよう。美咲ちゃんと湖北へ行きたいって。反対されるかもしれないから、お母さんの様子を見ながら、さり気なく。

 ダイニングに来た。

 テーブルの上には、はち切れんばかりに膨らんだ、近所のスーパーマーケットのビニール袋が置いてある。予想通り、お母さんは買い物に行っていたようだ。

 お母さんは手紙を読んでいる。視線を動かして探してみると、あった。封の切られた封筒。つまりお母さんが読んでいるのは、さっき手紙だ。

「おかえり。」

 返事くらいしてくれたっていいんじゃないだろうか。麗葉は黙って、ビニール袋の中身を冷蔵庫やら、戸棚やらに片付ける。

「麗葉、ちょっと座りなさい。」

 お母さんが便箋を丁寧にたたんで、封筒に片付けたのは、麗葉がビニール袋の中身を片付け終えたのとほぼ同時だった。

「大事な話があるの。」

 そう言いながらお母さんは椅子に座る。麗葉も、お母さんとテーブルをはさんで正面に座る。

「何?」

 尋ねても、お母さんは何も言わない。こういう時のお母さんは、慎重に言葉を選んでいるんだと知っている。でも、麗葉にはこの間が面倒くさかった。

「麗葉。旅行せえへん?」

 お母さんの口から出た言葉は、そんなものだった。

「旅行? どこに?」

「長野に、お母さんの高校ん時の友達がいてんねん。その人んとこ。月曜日から一週間。学校休んで行ってこうへん?」

 長野、か。さっきの手紙、この話だったんだろうな。

 行かなくていいのなら、行きたくない。転校してからは、少しくらい体調が悪くても、嫌なことがあった次の日でも、休まないようにしてきた。それが、普通だから。

 学校は嫌いだ。でも、休みたくない。

「なんでなん?」

 お母さんは、おなかをさすってから、天井を見上げる。リビングの真上はお姉ちゃんの部屋だ。

「お姉ちゃん、何日か前から体調悪い言うから、病院行ったんや。んで、検査してもうてんけど、また、入院せんなんねんて。」

ここまで聞いて、麗葉にはこの話の着地点が見えてきた。

「お父さんは、仕事があるし、お母さんはお姉ちゃんのお見舞いに行かんとあかんから、家に誰もおらんようになるやろ。」

 一度だけ、トクンと鼓動が大きく跳ねて、それから、血の気が引くのがわかる。

「大丈夫やで……。私、一人で大丈夫やで。そやから、行きたくない。」

 どの言葉で言ったら伝わるのか、わからない。でも、伝えないと。家にいたいって。行きたくないって。

「一週間だけやから。それに、むこうにはアンタと同い年の娘さんもいてはんねんて。楽しくやってけるわ。大丈夫。」

 お母さんはたまに、大丈夫って言う。どうして大丈夫なんて言えるの。大丈夫って言うなら、その理由を言ってよ。

 ねえ、お母さん。麗葉のこと、どの位わかってくれてるの。

「でも……。」

「麗葉、わがまま言わないで。」

 お母さんは、麗葉の言葉をさえぎりながら、ため息交じりに言った。


 麗葉はできるだけ、冷静に、動じていないようにふるまった。宿題をする時も、お風呂に入るときも、夕食の間も、お父さんとおかあさんにおやすみなさいを言うのも。

 いつも、眠るときには、部屋の明かりは全て消している。オレンジ色の明かりも点けないで、カーテンは開けたまま。そうでないと眠れない、というわけではない。夜、という感じが好きなだけだ。

 麗葉は真っ暗な中、枕に顔をうずめる。

 泣きたい。

『傷ついていることに気が付けなくて、ごめんなさい。いつでもお父さんはあなたの味方です。』

 頭の中に、ボールペンで書かれた、お世辞にも上手と言えない字が浮かぶ。忘れたつもりだったのに。

泣きたい。

 なのに、胸が苦しいばかりで、少しも涙が出てこない。口で、短い呼吸ばかりを繰り返す。

 麗葉は枕を強く握っていた。

「うっ……あっ……。」

 大声で叫びたいのを我慢したら、変な声が出た。


 麗葉は病室にいた。大部屋で、六床あるベットにはそれぞれ、ぬいぐるみとか、合体ロボとか、絵本とか、いろいろなおもちゃが寝ている。

 一つだけ、カーテンが閉まっている。麗葉はカーテンを開けようとした。

 その時、笑い声が聞こえた。カーテンの内側から、控えめな笑い声が。お母さんと、お姉ちゃんの。

「麗葉ちゃんは、いい子だね。」

 どこからともなく声が聞こえた。知らない人の声だ。

「麗葉ちゃんはいい子だね。」

 あちらからも、こちらからも、遠くからも、近くからも、誰が言っているのか、どこで言っているのか、わからない。

 でも聞こえる。

 麗葉はいい子だって言ってほしくなんかないのに。

「麗葉ちゃんはいい子だね。」

「うるさい。」

 麗葉は小さな声で言った。

「麗葉ちゃんはいい子だね。」

 それでも、声は聞こえる。

「うるさい。」

 さっきより大きな声で言った。

「麗葉ちゃんはいい子だね。」

 それでも、声は聞こえる。

 もう、病院の中だって構うもんか。大声で叫んでやろう。そうすれば声も聞こえなくなる気がする。

 思いっ切り息を吸い込んだ途端、後ろから大きな手が伸びてきて、口を塞いだ。

「麗葉、病院では静かにしなさい。」

 後ろから聞こえた不機嫌そうな声は、お父さんの声だった。


 夢を見ていた。周囲は真っ暗だ。手探りで枕元の時計のライトをつけて文字盤を見ると深夜の三時だった。

 夢を見ながら、泣いていた。目元の涙のあとがそう言っている。

 まだ、夢の中の寂しさが消えていない。周りにいる人はみんな麗葉を知っていた。だけど、麗葉は誰も知らない。

 枕に顔をうずめる。やっぱり、泣きたくても上手く泣けない。

 大声で、泣いてしまえた方が楽なのに。


 結局、朝日が昇るまで眠れなかった。枕元の時計は七時を表示している。

 着替えて、朝食のあと、クローゼットを開けた。旅行の準備をしなきゃ。

 長野は、ここより寒いのだろうか。服で荷物が大きくなるのは嫌だな。

 クローゼットをあさっていると、何かが落ちてきて、麗葉の頭で一度はねてから、床に落ちる。

 それは、麦わら帽子だった。青いリボンが巻かれている。顔を近づけ、匂いを嗅いでみる。甘酸っぱい、ミカンのような匂いがする。昔からそうだ。理由はわからない。


 六年前、麗葉は大阪に住んでいた。

 当時の家の裏は、公園だった。麗葉は、毎日のように、おばあちゃんに連れて行ってもらっていた。四歳の時の話だ。五歳の誕生日の少し前だった。

 ある日、公園のベンチに女の子が座っていた。当時の麗葉と同い年くらいの女の子だ。細い体と、肩に当 たるかどうかの長さの髪。名前は、聞いたはずなのに思い出せない。

 冬なのに、古びた麦わら帽子をかぶっていたのは覚えている。女の子によると「怖い物がなくなる魔法の帽子」だそうだ。

 女の子は、もうすぐ遠くに引っ越すと言っていた。だから、お別れのためにこの街に来たと。

 麗葉は女の子と遊んだ。公園の鳩を遊び相手にしていた麗葉にとって、忘れられない時間となった。かけっこをして、砂場で山を作り、二人でブランコに乗った。

 女の子が立ち去ったあと、ベンチには帽子が残っていた。

 次に会ったときに渡そう。

 麗葉は帽子を拾って、持って帰った。

 麗葉から事情を聞いたおばあちゃんは、帽子を綺麗に磨いて、言った。

「次に会った時に、返してあげなさい。」

 それからというもの、ほとんど毎日、公園に行った。公園に行くときは必ず持って行った。でも、二度と女の子に会うことはなかった。

 本当は、わかっていた。女の子に二度と会うことはないのだと。だって、女の子はもうこの街にはいないのだから。

 

 麗葉は帽子をかぶってみた。昔は大きすぎたこの帽子も、今はちょうどいい大きさだ。

「れいはー。買い物行くでー。」

 お母さんの呼ぶ声が聞こえた。


 お母さんと、旅行に必要なものを買って、リュックサックにつめる。

 お父さんは、旅行の事なんて知らないかのように、いつも通りだった。

 お姉ちゃんは、旅行の事なんて知らないかのように、いつも通りだった。

 次の日、麗葉はいつも通りに過ごしたかった。でも、ソワソワと一日中落ち着かなかった。

 お母さんは、忘れ物がないか、麗葉の荷物を何度も確認した。

 お父さんは「お行儀よくしなさい。」と何度か言った。

お姉ちゃんは、旅行の事なんて知らないかのように、いつも通りだった。


そして、月曜日。麗葉は京都駅に来た。

 ホームにある時計を見ると、九時二十分。今すぐに学校へ行っても、出欠確認は終わってるんだろうな。転校してからは無遅刻無欠席だったのに。

「アンタ、そんな帽子持ってたっけ?」

 お母さんは麗葉のかぶっている麦わら帽子を見て尋ねた。青いリボンが巻かれた麦わら帽子だ。かぶってみたくなった。

「うん。」

 麗葉は短く答えた。

「冬に、麦わら帽子?」

 お母さんが言った。本当は麗葉も、季節外れな格好ではないかと気にしていた。でも、帽子の一つくらい、いいじゃないか。自分自身にそう言い聞かせていた。

「いいやん。」

 麗葉は笑ってごまかした。

 目当ての、長野行きの特急が到着するという放送が流れ、列車が滑り込んでくる。

「チョコレートはリュックサックの一番外側のポケットに入ってるから。」

 麗葉はうなずいた。

「切符、絶対に無くさんようにな。」

 麗葉はうなずいた。

「お財布にお金入れて、リュックの一番下に入れてあるから、なんかあったら使い。」

 麗葉はうなずいた。

「ほな、行っておいで。」

 麗葉は列車に乗り込んだ。見送るお母さんが、どんな表情をしているのか見たくない。だから、ふり返らずに。


 銀色の袋。その内側に残ったチョコレートを、指先ですくって舐める。開封したときからとけていたのは、車内の暖房のせいか、麗葉が開封前にしばらく握っていたからか、もしくはその両方か。

 腕時計に目をやる。学校は今、五時限目のはずだ。美咲ちゃんは授業を受けているんだろうな。国語だっただろうか。麗葉は大好きで、美咲ちゃんは大嫌いな科目だ。

 京都駅を発車してから約四時間。何度かトイレに行った以外、座りっぱなしで、特急列車に揺られている。

 お尻は痛い。読みかけの本を家に忘れてきてしまって暇だ。旅行嫌いになってしまったら、今日のせいだ。

 短い音楽のあと、長野に到着するという内容のアナウンスが流れる。

 麗葉は足下に置いていたリュックサックを手に持って、立ち上がる。

 何度もよろけ、その度に近くの座席の背もたれにつかまりながらデッキに移動した。

 チョコレートの袋をゴミ箱に捨て、リュックサックを背負う。

 切符は確か、ズボンのポケットに入れていたはずだ。コートの裾をたくし上げ、ポケットに手を入れる。指先の感覚で切符二枚を握り、手を引き抜く。乗車券と、特急券。それぞれ一枚ずつ。帰りの切符は、無くさないように、荷物の一番下に入れた。

 列車が、ブレーキで減速しているのを、体で感じた。


 リュックサックが大きいせいで、列車のドアに詰まる。それでも、無理やり出る。

 空気が冷たい。車窓からも時おり雪が見えていた。

 麗葉は思いっ切りのびをして、背中のリュックサックのせいでバランスを崩して、こけかけた。

 長野に、到着だ。

 プラットホームを見渡すと、ベンチに女の人が座っていた。女の人は麗葉と目が合うと、一度大きなのびをしたあと、まっすぐこちらにやってきた。

 待ち合わせの相手は、麗葉のお母さんと同い年、つまり四十歳の手前のはずだけど、それよりも若いように見える。

「小林さんですか?」

 声はさらに若い。女の人と言うより、女の子のものだ。でも、この人が待ち合わせの相手のようだ。

「今日からお世話になります。小林麗葉です。よろしくお願いします。」

 麗葉はお母さんに教えられた言葉をそっくりそのまま言うと、ペコリと頭を下げた。

「丸藤あやねです。こちらこそ、よろしくお願いしますね。」

 あやねさんはゆっくりと、深くお辞儀をした。そして、右手を差し出す。握手しようということらしい。

 珍しいなと思いながらも、握手に応じようとして気付いた。ずっと右手に切符を握りっぱなしだった。 汗で少しふやけている。寒かったはずなのに。

 切符を胸ポケットに入れて、あやねさんの手を握った。その途端、微かに甘酸っぱい匂い、ミカンの匂いを嗅いだ気がした。

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