#8 未来の行動
耳を切り裂く轟音。正直、鼓膜には辛いが、三太には幸いだった。
見知らぬ場所、見知らぬ空間、しかしこの空間こそに三太は憧れていた。三太は見知らぬ戦闘機のコックピットに居た。
轟音は停まるところを知らず、相変わらず聴覚を刺激していた。紛れもないジェットエンジンの甲高い音。間隔も三太の感覚にシンクロして、次第にハイになっていく。間違いない、こいつはまさに今、飛び立とうとしているんだ。しかし何処へ? それでもこの戦闘機は、三太の心配を余所に何処かへ飛び立とうとしていた。
時折ノイズが混じる節があったが、エンジンは好調らしく、前部座席に座ったパイロットの頭が、異音を逆手にとって、リズムに合わせて揺れていた。それを見て、三太は自分が後部座席に座っているのをやっと理解した。そうか、解った。目の前の彼が、これを操縦して連れて行ってくれるんだ。
次に三太は、これが何の機種なのかを確かめようとした。ジェット機、複座式と、解ったのはそれだけ。これに乗って何処へ行くのかは、たいした疑問ではない。しかし、これが何であるかは重要だった。将来、もし夢が叶いパイロットになったとして、絶対に乗りたい機種が三太にはあった。日本人の彼には無理な話かもしれないが、今まさにジェット機ならば、願わくば戦闘機、しかも自分が夢描いていたあの機種であって欲しい、三太は切に希望した。
もう一度、何とか機種を確認しようと辺りを見回すと、三太の目にパイロンを振り回す誘導員のサインが映った。彼が指しているであろう、その先には、滑走路に連なって灯る誘導灯の列――機が旋回しているのか、斜めだったそれは、次第に機と平行して真っ直ぐに、ついには二本の列が機を挟んだ。
「いよいよだ」三太の胸の中に高揚感が増してきた。
と、ここで突然の終わりが来た。
エンジンは突然のストール――当然三太の耳にもそれが伝わり、高揚感は絶望感に変わっていった。まさか、まさか、冗談だろう? ……失速する期待を自問で押し上げようとしたが、自答出来ずに期待は地に落ちた。心の中の墜落は、彼の乗った機を飛び立たせぬまま、エンジンは完全停止した。まるで着陸直後のフラップの様に、三太の頭は前に倒れ、本当は着くはずもない前部座席の背もたれに着いていた。
するとそこからかすかな振動が感じられた。まさかエンジンにもう一度火が点いたのか、それにしては身体を揺さぶる迫力が、まるで無い。不思議に思って三太が顔を上げると、この絶望感にも関わらず、前の座席のパイロットが未だに身体を動かして踊っていた。三太はその光景に腹を立て、届くはずもない足を伸ばし、前部座席を蹴り飛ばした。
パイロットはぴたりと身体を止めた。そして振り返り、普通なら精密機械がたっぷり詰まった、ぶ厚いヘッドレストが邪魔をして顔を見せられないところを、都合良く顔を覗かせて三太に微笑んだ。
「強く信じなければ、何も叶わないよ。本当に存在していても、それが信じられなければ無意味だからね。だから君の憧れの戦闘機も此処には無い。だから飛ばないんだ。だから、しょせんは〝夢〟なんだよ」
三太はよく知ったその顔に驚き、夢からやっと目を覚ました。
確かに其処には、今迄見えていた物は無かった。目に映るのは暗闇にうっすらと浮かぶ天井と壁の本棚、見慣れた自分の部屋だった。
滑走路は消えたが、戦闘機は数が増え、本棚に小さくひしめき合って並んでいた。もちろん飛ぶはずもなく、ただ本物を真似た偽物がそこに並んで居るだけだった。
そしてパイロットも其処に居た。去年のクリスマスに母親がくれたサンタクロースの置物。並んだ戦闘機程、愛着がある訳も無いそれは、白い髭の上にさらに埃の髭が生えていた。――彼がパイロットだった。三太は気が付くと、今まで見ていたものが夢である事を完全に自覚した。
真顔になって、三太は布団から起き上がり、辺りを見回し、先程までの出来事がやはり夢である事を再確認した。そして更にベットから飛び出して、本棚の手前まで行き、何段にも並んだ戦闘機の模型を眺め始めた。
寝起きの眠い目にも関わらず、三太は無表情に、真剣に、まだ夢の記憶が覚めないうちに、それら一機一機を確認した。
「複座式だったけど、キャノピーは異様に膨らんでいた。エンジンは一本で、音は普通のジェットより高かったし、コックピットからの視界も悪くなかった。――そうだよ、絶対に間違いない。大抵は単座だけど、改良型の訓練機なら、あり得る。そんなのは、これしかない」
三太は夢の中で見た戦闘機と模型を照らし合わせ、手繰り寄せてもっと確かめようと、一番条件の近い一機に手を伸ばした。実は、そう考えるより早く、自然と手が伸びたのもそれだった。それでなければいけなかったのだ。それはこの中で、いや、三太が知る戦闘機の中で、一番近くで見て、一番乗りたいと憧れているものだったからだ。
三太が戦闘機を掴もうとしたその時、窓の外で大きな音がした。
二階からでも聞こえる音は、かなり大きく、三太の心臓は大きく高鳴った。先程の夢とは違って、あまり歓迎出来ない高鳴りだった。
庭に何かが落ちて、庭木が擦れる音が数回、最初に一回大きく聴こえて、細かい音が後に続いた。猫で無いかと思ったが、猫にしては大き過ぎる音だし、庭木から抜け出れなさそうな連続する音は、猫にしては間抜けだ。
三太は机の前に行き、置いてあった懐中電灯を手に持って、窓を開け、庭を照らした。
風も無く、庭木は揺れていなかった。それよりも十二月の外気が頬を刺し、もう窓を閉めたくなった。すると光に照らされていない闇から、また擦れる音がした。三太が光を向けると、枝葉が揺れていた。
やっぱり何かが居る。三太はそう思い、窓を閉めて下へ行こうと部屋を出た。
階段を下りてすぐの部屋に母親が寝ている。そこからは物音はしなかった。どうやら母親は目を覚まさなかったらしい。大きな音と思ったが、寝ている者には気が付かない程度だったのか。では、あの音の主はひょっとすると、やはり猫なのかもしれない。かなり大きな猫だな。三太は考えながら靴を履き、母親に気が付かれない様に気を付けて庭へ出た。
持って来た懐中電灯で庭を照らすも、暗闇に白い円が浮かび上がり、多少草木の模様が着いているだけで、面白い絵は見えなかった。
せめて見た事もない大きな猫でも居て、見付ければ、明日学校へ行った時、洋子に自慢出来るのだが、猫だとしたらもう既に逃げてしまったのだろう。
三太は、洋子と話す機会を背負って居なくなったであろう大猫を恨んだ。また、少し期待して、わざわざ庭にまで下りてきた自分に少し嫌悪した。期待通りに行かない展開は、まるでさっき見た夢みたいだ。だからあんな夢を見てしまうんだと、三太は納得した。
その時、庭木が大きく揺れた。三太は驚いて声を出しそうになったが、母親に見付かってはまずいのと、大猫を逃がしてはいけないのとで、叫び声を寸前で飲み込んだ。無理矢理だったので代わりに咳き込みそうになったが、それも堪えて、三太は懐中電灯を音のする方に向けた。
そこには想像していた毛むくじゃらの大猫は居なかった。
代わりに光に映し出されたのは、カーキ色のコートを着て、眩しそうに手を翳し、目を細める髭面の大男だった。