#5 将来
娘とはいつも一緒だった。
彼には息子が居なかったし、――切願はしたが、運命があるとしたら不運なもので、結局息子は生まれず、産もうと努力した母親の命を代わりに奪ってしまった――娘が幼くして妻が死んだので、彼は娘と一緒に暮らした。それがハワイであろうと、地中海であろうと、東南アジアであろうと、いつも娘を連れていった。
また自分の血を継ぐ者に、自分の経験した世界を見て貰い、それが女性であろうが、将来は自分の職業を継いで貰いたく思っていた。
しかし海外転勤の多さの影響であろうか、旅慣れてしまった娘は、成長すると彼の元から離れてしまい、現在は音信不通となっていた。
もしどこかで結婚していたら、彼には孫がいるはずだ。そして彼もそんな年齢で、まだ死は遠いが、一人きりで死んでいくかと考えると、将来に希望など持てるはずもなかった。
基地司令官は、鏡の中に居る浮かない顔をした自身を見詰め、自身の人生を思い返した。
そして、今立っているシャワールームから、自分のオフィスへ向かう扉の先にも希望が持てなかった。末端とはいえ自分の部下が、施設への入構を巡って、大使館に出向している本国政府の役人に殴り掛かったのだ。
基地司令官は重い気持ちで、ドアノブを捻り、役人の待つオフィスに戻った。
マホガニー材のテーブルの挟んで長椅子が向かい合い、二人組のスーツの男が出されたコーヒーにも手を付けず、片側に並んで座っていた。基地司令官が入ってくるのに気が付くと、立ち上がり笑顔を作った。
「どうも、准将……」
口髭をたくわえたプエルトリコ系の、背のかなり低い小太りの方が、握手を求めてきたのか、手を差し出すと、褐色の肌を持つアフリカ系の、恐ろしく背の高いスマートな方が、恥ずかしげに咳払いした。
「〝階級〟じゃない、〝役職〟で呼ぶんだよ」
背の低い小太りは手を引っ込め、敬礼を真似て、白い歯を光らせて笑った。
「どうも、司令官……」
司令官は、上等なスーツは着ているものの、何処か奇妙な二人組を観察するように眺めた。小太りは、艶のある黒髪を整髪料で、べったり後ろへ流しても、なお癖のある地毛が主人に逆らって立ち上がろうとし、まるで洒落の様に、その低い背を少しでも高く見せようと足掻いている髪型をしていた。もう一方は、やはりそこにそびえ立っていて、おそらくは頭が天井に着いている……そんな錯覚を覚えさせる大きさだった。
小太りは呆然と自分達を見詰める基地司令官に気が付いて、自己紹介を始めた。
「あ、私が〝ファットマン〟――で、彼が〝トールボーイ〟です」
「覚え易いだろう? 二人とも本名だ」トールボーイは間髪入れずに本題を口にした。「さて、早速で申し訳ないのだが……我々は、〝ケニー・ニコル〟を引き取りに来た。彼は今どこに?」
「あ……あぁ、今朝大使館から通達のあった〝最重要人物〟ですか。彼は医務室に保護されています。とっくに〝薬〟が切れているはずですから、憲兵に言って連れてきて貰いましょう」
基地司令官はそう言うと、長椅子の後ろにある自分のデスクへ向かい、おもむろに受話器を取って任意の番号を押した。内線電話の呼び出し音が聞こえると、彼は少し考え、何かを疑うかの様な目で二人組を見た。
当然軍人には見えない。大使館へ出向している政府役人とは聞いているが、いったいどこの省庁の、何という部署の人間なんだろう? まるで顔を隠す為にかけられたサングラスは、挨拶の時ですら外されなかった。本当に身分を隠している様子だ。入構の際、IDの提出で揉めたと聞くが、それについても、やはり何処か怪しい。
話し方も変で、ファットマンは上品に話そうとしているが、発音は粗野で野蛮、まるで成り上がりが出身を隠す様に、気を使って話しているみたいだ。トールボーイはその逆で、育ちが良い癖に、わざと無理して言葉を崩している――本当に、怪しい二人組だ。
怪しいといえば、彼等が〝最重要人物〟と呼ぶ男もそうだ。ここに運ばれてくるまで、睡眠薬を使って眠らせておくなんて尋常じゃない。一緒にやってきた友軍のパイロットも凄腕と聞くが、分厚い眼鏡といい、少しもパイロットに見えない。……だいいち、彼等はどこの国の人間なんだ? 〝ケニー・ニコル〟なんて名前からは出身国も想像も出来ない。きっと本名は違うのだろう。目の前の二人組の都合が良過ぎる名前も、偽名に違いない。――基地司令官がす べての疑問を頭の中に張り巡らせていると、呼び出し音が切れ、憲兵の声が想像を止めた。
「あ、私だが――。済まないが、至急医務室へ行って、ケニー・ニコルを連行してきてくれ。……そう、私のオフィスまでだ」
基地司令官は受話器を置き、二人組に振り返った。
「今暫くお待ちください。……ところで、少々お尋ねしたい事があるのですが」
先程頭で考えた質問事項を、基地司令官は待っている間だけ、質問しようとした。
「こちらから話せる事は何もありません。すべて大使館に問い合わせてください」まるで基地司令官の出方を想像していたかの様に、慣れた口調でファットマンがそう答えた。
「変だな。貴方は野心や好奇心など一欠片もない、非常に事務的で友好的な管理職と聞いているが。一九九五年の頃辺りから……」トールボーイが立て続けに言った。
基地司令官は言葉を呑んだ。間違いない、この二人組は只の政府出向の役人では無い。知らなくて良い事を知っている。軍隊に入って野心や好奇心、出世欲のない人間など滅多にいるはずもなく、自分もかつてはそういう類だった。ところがそれが一変したのは確かに、指摘のあったその頃――娘が自分の元から離れていった年だ。しかしいったい何故知っているんだ?
基地司令官は一度呑んだ言葉を消化し、次の言葉を探した。が、なにぶん咄嗟の事で見付からず、前の言葉が未消化のまま口から吐き出された。
「違いますよ。先程の――あの、ほら、入構の際の、こちらの不手際の件です。何でも、うちの兵が、失礼をしたとか?」
ファットマンが口髭と同様、余り良く剃れていない頬の剃り残しを撫でた。
「あぁ、大丈夫。先手が一発入ってしまいましたが――」
「こちらも大事にするつもりはない。貴方が我々の想像通りの人物なら、なるべく音便に済ませたい」
「只の引き渡し作業ですからね。事を荒立てず――こそが我々の信条であり、職務なんです」
二人組がそう言うと、丁度廊下側の扉から、か細いノックの音が数回聴こえてきた。
「入れ」
基地司令官の返事の直後、ドアノブが捻られ、扉はゆっくり開いた。其処には眼帯と、もう貼る場所など無いというくらいの密度で、顔中に絆創膏を貼った、屈強な衛兵が顔を腫らせて立っていた。
衛兵は二人組に気が付くと、怯える様に一歩足を後ろに後退させた。
ファットマンが、擦り切れた自分の手の甲を撫でた。
「そんなには、殴っていないはずなんだけどな……」
「先に手を出したのは、あっちだ。気にする事は無い」相棒を軽くフォローした後、目を丸くして驚いている基地司令官を尻目に、トールボーイは衛兵に訊ねた。「それよりも――さぁ、ケニー・ニコルはどうした? 早速引き渡して貰おうか」
衛兵は暫く無言だった。
「どうしたんだ?」
基地司令官が改めて訊ねると、やっと動く口で、衛兵は答え辛そうに答えた。
「そ、それが……その、医務室には誰も居なくて……今、基地施設内を探索中です」
突然、それまで余裕の仕草だった二人組が、一斉に立ち上がり、顔を覆っていたサングラスを同時に外した。
余裕と思われていた表情は、緊張で強張り、彼等は口々に叫び出した。
「一緒にやってきたパイロットが居ただろ!? 今何処だ!?」
「彼はさっき食堂で見かけましたが……」
「憲兵隊《MP》を送ってすぐに身柄を確保しろ! それと捜索隊を編成し、ケニー・ニコルを見付け出すんだ!」ファットマンはそう伝えると、慌てて胸ポケットから携帯電話を取り出した。「まだ施設内に居ればの話だが……」
いきなりの喧噪に、基地司令官は唖然とした。……が、すぐに気を取り戻し、二人組に言った。
「おい、止めてくれ! 私の部下に勝手な指示を出さないでくれ!」
するとトールボーイが胸ポケットから、何やらパスケースを取り出した。そのまま開いて、基地司令官の目の前に翳し、慌てる相棒とは対照的に、落ち着いた口調で告げ出した。
「国家安全保障局《NSA》だ。只今より、当基地施設は我々の指揮下に入る」
それは彼等の、例の、入構の際に問題となったIDカードだった。耳と肩に携帯電話を挟み、両手が空くと、ファットマンも同じ物を同様に、慣れた感じの同じ動作で翳していた。
やっと二人組の正体が解った。また互いのIDに書かれた〝トーマス・T・トールボーイ〟と、〝フェルナンド・ファットマン〟の文字を目にして――それでも冗談の様だが、彼等が最初に名乗った名前だけは本当だったとも解った。そしてやはり基地司令官が予想した通り、彼等は只の役人ではなかった。
『国家安全保障局《National Security Agency》』とは唱っているが、その実は〝国防総省諜報機関〟……ペンタゴン直属の暗号解読や開発、情報収集や機密保持のプロフェッショナルだ。その活動範囲は海外まで及び、集めてきた情報を――例え、どんな高度で難解な暗号が掛かっていようが、完全解析して分析、その結果を厳重に管理し、国家機密として守り抜くのを任務としている。その解読技術、更には情報収集の為の〝盗聴〟の技術も世界トップレベルで、彼等が使用する機材の費用だけでも、莫大な額の税金が投入されているのも有名な話だ。本部のあるメリーランド州の陸軍基地には、超高価なスーパーコンピュータが何台も稼働しており、空高く地球周回軌道上に浮かぶ衛星の何基かは、実際に彼等の所有物だった。
そして、そんな彼等が、国益の為には、どんな無茶な手を使っても任務を遂行する事も有名だった。更に基地司令官に至っては、同じ国防総省に属する合衆国四軍――もちろん空軍も含まれており、例外無く、命令さえ下れば、如何なる場合も彼等の活動に協力しなければならない事実を知っていた。
しかし、望まずとも平穏無事と覚悟した残りの人生に、なるべくなら騒ぎを起こしたくない基地司令官は、此処が外国の――日本の横田市に駐留する米空軍基地施設である事を思い出し、最悪でも、せめてもの時間稼ぎになればと、思い付きで、咄嗟に其処を突いた。
「此処は米空軍所有の施設だぞ! しかも外国に位置しているんだ! 管轄外じゃあないのか!?」
「准将……」思わず階級を口にしたトールボーイは、咳払いをして言い直した。「仮にも〝司令官〟なら、思い付きで発言しないで欲しいな。無駄な話をしている時間は無いんだ。真面目に質問しないなら、いい加減に答えてやる。――管轄を問題無い。此処はアメリカ国内だ。横田基地は便宜上カリフォルニア州なんだぞ。クリスマスカードだって、その住所で届くんだ。知ってるだろ?」
「そ、それは、郵便番号だけの話だ! 知ってるだろ? ……た、確かに、少し前までシスコの番号が使われていたが、今は違うし、昔も今も、この国から土地を借りてるだけ――」
「静かにしてくれ!」
携帯電話を耳にしたファットマンは、叫ぶと、またすぐに受話器に口を戻した。さっきまでの粗野な発音は発音は一切消え、話している言葉は間違いなく上等で、話している表情は真剣そのものだった。
「失礼致しました。――はい、了解しました。――いえ、その必要はございません。お気遣い、ありがとうございます」
トールボーイが基地司令官に囁いた。
「今彼は、あんたが、普段のあんた通りに素直に従ってくれる様、あんたのボスと話をつけている」
「わ、私のボス? 誰だ、軍司令官か? それとも、参謀本部議長――ま、まさか、国防長官じゃないだろうな? そんな事、あり得るもんか……」
「もっとあり得ない人物さ。もっと、もっと上の、一番上の、全軍の最高指揮官だ」
「なっ……!」
基地司令官は言葉を失った。やはり予想は当たっていた。この二人組に会う寸前から、未来に希望など持てそうもないと思っていたが、今となってはそれが確実になっていた。
そして誰にでも彼の心情を理解出来る答えが、携帯電話を切る寸前のファットマンの口から漏れた。
「はい。……例え外へ逃げても、我々の手だけで必ず見つけ出してご覧に入れます。……えぇ、明後日のクリスマスまでには。……はい、失礼致します、大統領閣下」