#3 夢
あの頃、何であんな所に入っちまったのだろうと、よく後悔していた。生まれて初めて飛行機に乗って、生まれて初めて一気圧以下の極端に薄い空気を吸った時、次に吐き出したのは酸素ではなく、嘔吐物だった。コックピットはキャノピーが視界不良になるくらい、それでまみれ、実際に操縦していたパイロットが慌てて緊急着陸を要請していたのを覚えている。そんな匂いをしばらく嗅いでいなかったが、久しぶりに嗅いでみて、その頃を思い出した。
ニコルは夢の中で過去を思い出し、考え、そして目を覚ました。
――見覚えのない医務室だった。医務室という割には医者は居らず、誰の姿も見当たらなかった。ただ、ジェット機のエンジン音だけがひっきりなしに聴こえてくる。自分はまた〝あんな所〟に戻ってしまったのか、とニコルは思い、早く此処から離れようとベッドから起き上がった。夢の中で嗅いだ臭いがまだ続いていて、無精髭にやたらと何か渇いて固まった物が張り付いていたが、ニコルは気にせず、置いてあったスリッパを履いて部屋を出た。
長い簡素な廊下を経て、建物を出ると、南国の風景が広がっていた。最初の目的地が南の国と聞いていた為、もう着いたのか、と一瞬思った。しかし其処が南に位置する場所では無い事実は、彼にもすぐに解った。自分の生まれた所より寒くはないが、南国にしては寒すぎた。無理矢理埋められたパームツリーの葉は枯れ、吹いてくる冷たい風に舞って踊っていた。
そのだだっ広い敷地を歩いていくと、向こうの方に長く連なるフェンスがあった。真ん中が丁度盛り上がっていて、そこにゲートらしき物が見えた。ニコルは足を向け、歩いていった。途中、軍服を着た顔中にきびだらけの若い兵隊が、擦れ違い様に敬礼をしてきた。
ニコルも〝あんな所〟で、さんざやり尽くした仕草を返した。兵隊は彼のスリッパだけの足元も見ず、何も疑わず、横を通り過ぎていった。
やがてゲートまで辿り着くと、黒塗りの車が立ち往生をしていた。詰め所の前に立つ屈強な衛兵が、運転席に向かって吠えていた。
「だから、別のIDは無いのかよ! こんな見た事もないオモチャなんか出されても、通せる訳無いだろ!」
「お前みたいな下士官じゃ話にならん。もっと上を連れて来い」
「何だと、この野郎!」
衛兵はいきなり運転席に上半身を突っ込み、ハンドルを握っていた黒尽くめのスーツの男に殴り掛かった。助手席に乗っていた、同じ黒尽くめのスーツの男も加わって応戦し、辺りは騒然となった。
ニコルはその間に詰め所の脇を通り過ぎ、敷地の外へ出た。誰も彼を気に留めなかった。一歩足を踏み出すと、やはり其処は南国ではなかった。
もう夕方で、初めて見る町並み町を夕日が赤く染めていた。同じ北半球でも南の国なら、もうちょっとは夜になるのが遅いはずだ。まぁ自分の生まれた国では、この時間よりかなり前に、とっくに夜を迎えているのだが……。
まだ日があるお陰で、初めて見る余所の国の風景でも、ニコルは少しも臆さずに居られた。そして彼は、そのまま脚を一歩踏み出し、初めて見る街へと出て行った。