#30 お別れ
すべてがオレンジ色に染まり、すべてが輝いて見える。
遠くの山々も、足を着けた真っ平らなアスファルトの地面ですら、三太にはそう見えた。
朝焼けに染まる横田基地の滑走路で、整備を受けるハリアーと、その周りで滑走路に顔を張り付けて、何かを探している整備兵の姿を眺めながら、三太は昨日の夢の様な出来事を思い出していた。
三太の長い影の隣に、更に長い影が加わった。
ニコルが横に来たのに気が付くと、三太は訪ねた。
「……夢、じゃないよね?」
「夢じゃないさ。現実に、お前は飛んだ。……お陰で目が覚めた俺には、恐ろしい現実が待っていたよ」
ニコルが指差す先の整備兵は、昨日のフライトでハリアーが、何処かに衝突しまくったのか、欠落した数個の部品を必死になって探していた。あれは恐らく、自分の空軍に請求が行くのだろう。――ニコルは溜息を吐いた。
「もう二度と、飛んで欲しくは無いな」
ニコルの冗談に三太は笑い、皮肉っぽく返事をした。
「無理だよ。僕はパイロットになるんだから。……それは、もう、決まった事だしね」
それは数時間前の旅立ちの寸前、ニコルから伝えられた『文章』の予言通りの解答だった。
実際の答えが出るのは三十年後――しかし三太の目には、オレンジ色の光に混じって、既に将来の自分の姿がうっすらと見えていた。
究極の予言書の後ろ盾があったからでは無い。実際に自分が飛んだ事実が、彼に将来の姿を見せていた。オモチャでは無く、本物の戦闘機で、あの空に飛んだ事実は、少年に、確実に存在する将来の姿を見せていた。
またあの空に戻るのは、果たして何年後の話だろう? ――三太は旅立ち以前とはまったく違い、自信と確信に満ち溢れる胸に、想いを馳せ、あの場所へ帰る事を楽しみにしながら、目の前の空を眺めていた。
すると、横で一緒に空を眺めていたニコルが首を傾げ、およそ予期出来ない台詞を口にした。
「決まっている? ……何が?」
三太は眉を顰め、ニコルに振り向いた。
「え、何言ってんの? ……だって究極の予言書に、そう書いてあるんでしょ?」
「……あぁ、あれは嘘だ。でまかせを言ったんだ」
三太の目が、これ以上開かないというくらい丸くなり、驚いた彼は慌てて問いただした。
「――嘘!? ……ちょ、ちょっと待ってよ! じゃあ、究極の予言書って!?」
「予言書は本物さ。我が家系が代々守ってきた、由緒正しき代物だ。――只、我が家系が代々守ってきた決まりでは、その内容を他人に漏らしてはならないんだ。……原則はね。しかし例外も無い訳じゃあないし、お前は気付いたかどうか知らんが、俺は家系を継いですぐに、もうその原則を破っちまった。まぁ、クリスマスだったし、特別な事と思えば許されるかも解らんが……だが、こうして家系を継いだ立場としては、余り好ましくは無い使い方だ。幾らクリスマスでも、特別なのは一度まで。だから二度目は、いい加減に適当な嘘を言ったまでさ。咄嗟にね。……だいいち、俺はまだ、お前の名前も知らないのに、どこの誰か解らないお前をの未来を、どうやって調べる事が出来るんだ?」
唖然とし、瞼を上下に何度も動かして、三太は閉口した。
実際口は開いていたが、言葉など出るはずも無かった。
「名前を教えてくれ……」ニコルはポケットから、文章の入ったビニール袋を取り出した。「――お前の名前だよ」
「あ、……あぁ、名前――」すると三太は、暫くしてから突然何かに気が付き、思い出した様に、開きっぱなしの口の奥から声を連ねた。「名前って――!? もう、知ってんじゃん! 〝三太〟! 三太だよ! ……昨日の昼間、目の前で、何度も洋子ちゃんが呼んでたじゃん!」
今度はニコルが瞼を動かし、驚きと喜びの混じった表情で叫んだ。
「SANTA!! ――〝サンタ〟なのか! それが本名だったのか!?」
三太は顔を赤らめ、答えた。
「そ、そうだよ! 悪い!?」
「ニックネームかと思ってたよ。それが本名だとしたら、悪い冗談……い、いや、本当に素敵だな。実に素晴らしい名前だと、思う。そんな愛される名前を、つけてくれた人に感謝しなきゃあな。……俺も、今では、自分の名前に感謝している。今までさんざ嫌っていた、古き歴史ある〝新しい名前〟に――。しかし、面白い話だな。俺が名を得る前に、最初からサンタは居たんじゃないか……」
後半は、ほぼ独り言――三太が訳も解らず、眺めていると、ニコルは頭を横に振りながら、笑ってビニール袋を再びポケットへ押し戻した。
「え、何!? 未来を調べてくれるんじゃないの!? 名前が解ったから、調べられるんじゃないの!?」
「止めた。……お前には、必要無い」
「な、何でさ!?」
「サンタの未来は知っての通り、皆に〝贈り物〟を授ける事だけさ。お前が〝三太〟だっていうなら、その通りになるだけだ。……それに、予言書に書かれた事実を告げようと、告げまいと、今のお前は、自分の未来が解っているんだろう?」
ニコルの笑顔が朝日に輝いた。
三太は眩しそうな顔で、黙って見詰めた。
子供以上に無邪気な顔に、三太は騙された事すら、もうどうでも良くなってしまっていた。
目を逸らして映るのは、まだ数時間前の余韻が残る滑走路――それは、確実に自分が飛び立った証拠だし、夢が覚めても見える現実が、其処にあるだけで、今の三太は充分満足だった。
すると今度は、途中から夢に加わった二人組の、滑走路を右往左往している姿が、目に映った。
数時間前の飛行の後処理に追われ、彼等は走っていた。
この基地のみの完全独断によるフライトは、大方の予想通り、あらゆる方面に、多大な困惑と迷惑を掛けまくっていたらしく、二人組は、後から後から電話を掛けまくり、その度に滑走路を走ったり、兵舎と兵舎の間を行ったり来たりしていた。
まぁ、見ている三太には、余り興味が無いし、自分が原因だったとしても、大人の事情は良く解らないので、彼等がひっきりなしに移動している理由が、今一つ見えないでいた。自分が苦労を理解する様になるのは、恐らく三十年後――まだまだ、先の話だ。
そう思っていると、トールボーイがこちらを見付けて、長い足を素早く動かして駆け寄って来た。
「聖ニコラス! 其処の子供の、例の、名古屋に搬送したクラスメイトの件なんですが――」
大男は目の前まで近付くと、ニコルに耳打ちを始めた。
暫くして、ニコルの口の端が持ち上がった。
「……手術は、無事に済んだそうだ。もう心配は無い」
それを聞いて、尚も三太は黙ったままだった。
ニコルは不思議に思って訊いた。
「うれしくないのか?」
「別に……」三太は、首を横に振った。「だって、必ず助かると思っていたもの。僕も、彼女も、……未来で僕らを待っている人達の為に、夢を叶えなくちゃいけないんだから」
やはり、この少年に『文章』は必要ないな。――ニコルは思った。そして少年の目を覗き、今度は自分が黙って、只眩しそうに朝日に輝く彼の顔を、見詰めるだけだった。
すると、また慌ただしく、今度はファットマンが、太い身体を揺らせて駆け寄って来た。
「聖ニコラス、このガキを――」太っちょは目の前まで近付くと、発した下品な言葉を恥じて、咳払いをし、改めて言い直した。「――失礼、この子を、送る準備が整いました」
ニコルは、笑って言った。
「……大丈夫だよ。英語だし、言葉なんか通じちゃいない」
やがて一台の車が、こちらに向かってやって来た。
運転をしていたのはルドルフで、彼は車をニコル達の前で無事に停めると、助手席に乗っていた米兵と交代して、車を降りた。
「よく俺らに、ぶつけなかったな。ハリアーの時みたいに……」
擦れ違い様、ニコルは嫌味を吐き捨てたが、あれだけ酷い目に合わせたのにも関わらず、不思議とルドルフは一言も反抗もせず、そのまま隠れる様に、二人組の影に入っていった。
少し腑に落ちなかったが、酷い目に合わせているのは、二人の間で日常茶飯事だったので、ニコルは今更と気に留めず、それよりも早いところ三太を送り出そうと、彼の背中を手で押した。
「さぁ迎えが来たぞ。家で夢の続きでも見ろよ」
「そうだね。……でも、その前に、母親に色々話さなくちゃ。信じて貰えないかもしれないけど、昨日の晩の事とか、父親の事……」
「そうだな、話してやるといい」
二人が並んで数歩進むと、三太は、開いた後部座席の縁に足を掛けた。
「そうだ! ところで、あんたの名前は? まだ、訊いていないんだけど……」
「そうか、そうだったな。俺は、聖ニコラス……いや――」ニコルは一旦口籠もり、三太を車に押し込むと、扉を閉めた後に、笑顔ではっきりと言い直した。「――サンタクロースだ」
「……何言ってんの?」
真面目に真実を語ったニコルの言葉は、一笑され、三太の呆れた顔を残して、車は滑走路を走り出した。
次第に小さくなって行く後ろ姿を、ニコルはいつまでも眺めていた。
少年はこれからの現実で、夢の続きをどんな風に見るのであろうか。そして、自分はこれから、次の世代に文章を手渡すまでに、三太の様な少年の夢を、幾つ叶えさせられるであろうか。
ニコルは、少年達が見るであろう夢を想像し、そして彼等より早く、先に、夢の中へと入って行った。
――想像も出来なくなったニコルは、意識を失い、そのまま地面に倒れ込んだ。
後ろに立つルドルフの手には、注射器が握られていた。
「――凄い! 僕が最初に使った奴より、早く効いたよ」
「CIAの連中が使う最高の一品だからな。……さてと、運んでしまおう。幾ら彼が〝聖人〟になったからといって、まだ正式な手続きを終えた訳では無いんだ。正式に辿り着くはずだった国では、〝連中〟が首を長くして待っているぞ」
トールボーイはそう言うと、長い腕を振って、滑走路脇に隠された軍用車に合図を送った。
何も気が付かず、満足気に眠るニコルの顔を覗き込み、ファットマンは呆れた顔を返した。
「空軍大佐なのに、暴れ出す程、飛行機が苦手なんだって? なのに空軍なんか入って……。そんなに文章を受け継ぐのが、嫌だったのかな? 今後、サンタクロースとして、より世界中を飛び回るだろうに……。どうするんだろ?」
滑走路には、巨大な輸送機が姿を現していた。
それは、最初の麻酔注射が成功し、夢を見るニコルを最初に運んだ時と同型の――ひょっとしたら、まったく同じ物かもしれない――機体だった。
ルドルフはニコルを横目で眺めながら、溜息を吐き、再びコックピットに収まるべく、ゆっくりと輸送機に近付いていった。
「……本当、未来が思いやられるよ」