#27 クリスマスパーティ
また、此処に立っている。……そして、まだ、此処に立っている。
基地司令官は、鏡の中に居る自分にネクタイを結び付け、軽く髪をとかすと、最後に帽子を被らせた。
いったい何時ぶりだろう、この帽子を被るのは……。式典以外の時は滅多に被る事の無い、また被る必要も無い、たいして自慢も出来ない軍の支給品。
襟元の階級章に至っては、傾きを直した覚えすら無い一つ星。
この星がもう少しあったら、こんなアジアの片隅にある、空軍とは口では言うものの、その実は戦闘部隊が一切居ない輸送中継基地の司令官ではなく、本土で事務職にでも就けていただろうに……。
そういえば、何年か前は忘れたし、もうかなり昔の話だが、まだ娘が居た頃、奇しくもクリスマスの日に、プレゼントと称して軍から贈られたその星が、初めて襟元に輝いた時、娘が「まるでクリスマスツリーのお星様みたい。――あそこの天辺で光っているのも、たったひとつだけ。でも世界で一番好き。だって沢山光っているのよりも、綺麗だもの」と言って、喜んでくれたのを覚えている。
その星のお陰で、長かった海外勤務がやっと終わるものと思っていたが、結局その星のせいで、今度は基地司令官としての海外勤務が始まると解ると、娘はすぐに出て行った。
将官としての自分の始まりは、永遠に過ごせればと望んでいた娘との生活の終わりで、襟元に輝く星は何の希望の光も放たず、その癖、それでも其処に居座り、嫌味の様に相変わらず輝く不幸の星であった。
そして彼にとっての今回の不幸の始まりは、このシャワールームからだった。
オフィスに向かう扉のドアノブを最後に捻ったのを皮切りに、慌ただしい不幸が始まった。其処には不幸を背負った二人組が待ち構えて居て、『文章』だの、〝究極の予言書〟だの、信じられない話を機関銃の如く、彼にぶつけた。お陰で今でも傷だらけだ。とてもクリスマスを祝う気分じゃ無い。
また、例年通りに祝おうとしても、二人組のお陰で、現在基地は厳戒態勢、部下は掃除夫に至るまで、完全武装で二人組の帰りを待ち構えている。その二人組が連れて帰って来るであろう人物こそが、不幸の元凶〝ケニー・ニコル〟 だ。――大統領勅令の〝最重要人物〟が、この基地へやってくる。
今迄なら、此処で溜息のひとつでも吐くところだろう。しかし、今夜だけは違っていた。
基地司令官は、もう一度確認する様に鏡の中の自分を見据え、以前の彼とは違って、帽子をきちんと被り直した。そして溜息とは違う、力を込めた鼻息を一回だけ撒き散らし、ドアノブに手を掛けた。
最後に手を掛けた時、その先にあったのは不幸だけだったが、今度は決してそうではなく、すっかり諦めていた希望であると、彼は確信しながらドアノブを捻った。
胸中は、自分でも理解し難い程、いきり立っていた。興奮している自分にも驚いたが、その次の行動には、もっと驚いた。
基地司令官は机から鍵をひとつ取り出すと、この基地に就任する前からずっとあり、着任するとすぐに一回だけ開け、閉めてから二度と開ける事の無かった金庫に歩み寄り、鍵を差し込み、忘れ掛けていた暗唱番号をダイアルし始めた。
なにせ、十何年前もの昔だ。数字のなかなか出て来ない頭は、突拍子も無い行動について、整理を始めた。
野心や向上心を捨てた自分が、何故こんな事をしているのだろう? それは意外にも、純粋な野心や向上心そのものが、突き動かしているからだった。
これからやってくる人物のスケールは計り知れなく、自分とは関係の無い世界の人間だと思っていたが、いざ、これから目の前にするとなると、スケールの大きかった話も次第に実感となり、現実味を帯びてくる。その現実が、今迄の自分がすっかり忘れていた気持ちを思い出させた。
それは純粋な出世欲だった。
端から見れば、何を今更と思われるだろうが、基地司令官は必死だった。
なにせ、世界を変えてしまう程の〝危険人物〟だ。その捕獲と護送に自分が一役買ったとなれば、襟元の星が増えるのは間違いない。……いったい、幾つ増えるのかは定かでは無いし、前例の一切無い事例なので、想像が付きもしない。
ひょっとすると、集まりすぎて円を描いてしまうかも知れないが、そうなれば、自分は元帥だ。これ以上の階級は軍には無い。そうなれば、軍司令部のトップに躍り出られる。そうなれば、確実に本土勤務に決まっている。そうなれば、また娘と暮らせるかも知れない。そうなれば、そうなれば……。
基地司令官の気持ちは、確かに混じりっ気のない純粋な、野心そのものだった。
悲痛な叫びは、手間取っていたダイヤルの数を合わせ、分厚い金庫の扉は開かれた。――其処には、一度も使用していない新品同然の拳銃一丁と、実弾のケースが一箱置いてあった。
基地司令官は、自身の願いの助けとなる剣を手に取ると、ゆっくりと弾を込め始めた。
その時だった。けたたましく鳴る音は、一瞬、警報器と勘違いしてしまうくらい、タイミングが良かった。
基地司令官は、金庫にそれらしき装置が付いていないのを思い出し、弾込めを続けながら机の側に行き、鳴き叫ぶ電話機を手に取った。
「――何だ?」
基地に居る部下の顔や声を、いちいち覚えている訳が無い。が、忘れたくても覚えている、聞き覚えのある声だったので、基地司令官は、それが二人組に殴り掛かったゲートの衛兵だと理解し、またゲートで問題が発生したのでは、と直感した。
衛兵は、彼にさんざ聴かせた、例の弱々しい口調で告げた。
『司令官……も、申し訳ありません。じ、実は……そのう、大変申し上げ難い事でありますが……』
「……何だ? 早く答えろ!」
苛つきは、受話器を通してでも感じられた。
なにせ、厳戒態勢のこのタイミングだ。この電話が歓迎されるはずが無かった。
そうと解ると兵士は、益々内容を告げ難くなり、見えるはずも無い基地司令官を前にして、萎縮した。
『――どうした、何があったんだ!』
相手が更に機嫌悪く、耳元で催促した。
衛兵は仕方無く、困った顔を更にしわくちゃに困らせて、やっとの事で、今現在その場で起きている騒動を報告した。
「……が、ガキが、……い、いや、こ、子供が一人、……クリスマスカードを持って来て、騒いでます」
衛兵の背後で、完全武装の他の兵数人に押さえ付けられながらも、三太は藻掻き、前に出ようとしていた。
「ねぇ、これ! 貰ったんだ、ここの脱走兵に! 髭が、もじゃもじゃの、汚くて、でっかい男に! ……居場所を教えてよ! 逢いたいんだ! ねぇ、お願いだよ!」
『――何だ? 何を騒いでいるんだ?』
電話の向こうでも聴き取れる大声に、基地司令官は訊ねたが、誰も三太の話す日本語が理解出来ず、内容を伝えられなかった。
見兼ねた――いや、聴き兼ねた基地司令官は、負けないくらいの大声で叫んだ。
『もういい! 私が、そっちへ行く!』
その声より、より勝る、受話器を叩き付ける音が聞こえ、会話は終了した。
衛兵は顔を真っ青にして、仲間の元へ駆け寄った。
「おい! 司令官が来るぞ! そのガキを早く追ん出せ!」
努力は、さっきからしていた。
しかし、大の大人が束になっても、三太には一向に怯む気配が無かった。それどころか、大人達の間に出来た隙間を見付けては、潜り抜けようとする始末だった。
仲間達はそれを見て、口々に説得しようと、また努力した。
「おい坊主! こっから先は、お前の国じゃないんだぞ! それ以上入ってくるな!」
「みんな銃を持っているんだ! 撃たれるぞ! 撃たれてもいいのか!?」
「坊や、残念だな。毎年恒例のクリスマスパーティは、今年は無いんだよ。――何だよこいつ、勘違いしてるのか? しつこいぞ! 今日はやってないんだよ!」
「クリスマスカードが、IDになると思ってんじゃねぇか? ――そんな紙切れ、見せたって意味ねぇぞ!」
全員に三太の言葉が理解出来ない様に、三太にも皆の言葉が理解出来なかった。お互い解るのは、利害が一致してない状況。純粋なる対立は、益々、皆を血気盛んにさせた。
三太は手に持ったカードを、更に高く掲げた。
「そんなに怒鳴ったって、ちっとも恐くないぞ! ――そうだよ、僕はもう、何にも恐くない! だから、あの脱走兵に逢わせてよ! ――伝えなくちゃいけないんだ! 僕の決心を、伝えなくちゃいけないんだ!」
――夜空に星がひとつ、輝いた。
地表には『Merry Christmas』と書かれてある。
一瞬、星に見えたそれは、三太の持つクリスマスカードで、強力な光に反射して、輝きを増していった。
やがて光は、其処に居た全員を包み、耐え切れない眩しさを彼等に与え、争いを中断させた。
光の主はゲートと対峙して、鼓動を上げ、白い息を吐き出し、こちらを見据えていた。――光の向こうではトールボーイが、ライトがハイビームになっているのに気が付き、慣れない手付きでコンソールを操作していた。
やっと眩しさから解放された彼等が、まだ残像の残る目を擦りながら、正体を確認すると、其処には一台のミニバンが停まっていた。
「何だ、あの車……?」
兵士の誰かが、そう言うと、トールボーイも、最初から曲がりっ放しの首を傾げて、言い返した。
「何やってんだ、あの連中……?」
「――何だ? 何が起きてる? ……糞っ、見えねぇよ!」
ファットマンが後部座席から乗り出そうとするも、相棒の頭が視界を邪魔した。
トールボーイの目に映った兵士達は、予想通りの完全武装で立派だが、その中に丸腰の、見た事も無い子供が混じっていた。
異様な光景に、トールボーイはパワーウィンドウの操作に手間取りながらも、屋根に頭を何度もぶつけながら移動させ、開いた窓から首を出して叫んだ。
「おい、何やってんだ!? 中に入れないじゃあないか! 早く、そのガキを退かせ!」
ミニバンから飛び出た長い首が、少し前に、彼等に恐怖を与えた二人組の片割れと解ると、兵士達は慌てて三太の腕や頭を掴み、横に移動しようとした。
……が、なかなか上手くいかない。三太は尚も抵抗し、腕を掴む兵士のすねを、力一杯蹴飛ばした。
当然、急所を突かれた兵士は、断末魔の叫び声と共に、倒れ込むものと予想していた……が、意外にも無事で、蹴った三太が逆に脚に激痛を感じて、へたり込んだ。
兵士は余裕の表情で、鼻で笑って言った。
「何やってんだ、このガキ? いいか、俺ら完全武装してるんだぜ。――完全だ。今蹴った所だって、装甲で守られて――」
講釈は途中で止まり、兵士は、今度は一番の急所である股間を押さえ、叫び声も上げずに倒れ込んだ。
高さが同じで一発に成功した三太の拳が、まだ無事な兵士を狙うと、彼等は一斉に手を離し、自分達の守るべき基地の事など忘れて、自分達が守りたい場所だけを一斉に押さえた。
鑑賞していたトールボーイは、呆れて呟いた。
「此処は本当に空軍基地なのか? まるでコメディ・ショウじゃないか。……しかも、全然笑えない」
同じく少しも笑わずに、一緒に観ていたファットマンも、口を合わせた。
「まったくだ。これがこの基地の、今年のクリスマスの出し物だとしたら、最低の出来だな」そしてまた、腕時計に目をやると、相棒にせっついた。「もういいよ、轢いちまえ! ……あと十分もねぇ、もうすぐ明日だ。もうクリスマスになっちまうぞ!」
焦る傍目が受けたのか、本気とも冗談とも取れない台詞が受けたのか、また、目の前で展開する演目が面白かったのか、突然ニコルが笑い出した。
狭いミニバンの車内に反響する大きな笑い声は、一瞬ニコルがおかしくなってしまったのではないかと、錯覚する程だった。
ファットマンは、どう考えても現状に相応しくない笑いに、少し身を引いて訊ねた。
「……何だよ、何が可笑しいんだ?」
未だ笑い続けるニコルの指先が、正面を指差した。
其処には、未だ続く喜劇――中心には主人公の子供の姿があり、その手には、ファットマンにも見覚えあるクリスマスカードが握られていた。
「あ、あれ? まさか、あのガキ――」
「ありがとう、本当にありがとう。本当に正直に、プレゼントを届けてくれたんだな」呆然とするファットマンに、ニコルは笑いながら感謝を言うと、続けて信じ難い台詞を放った。「――そして、済まない。どうやら約束は守れそうも無い。……これからが俺達の本番だとしても、あれ以上の演技を、俺はやる自信が無い。……だって、見ろよ、あんなにも愉快じゃないか」
指先が、また三太と兵士達を捕らえ、ニコルは大笑いを続けた。
ファットマンの開いた口は塞がらず、これ以上何も言えなくなっていた。
ニコルは動き出し、さも自然に、ミニバン後部のハッチバック・ドアに手を掛けて開き、狭い荷台に外気を入れた。
換気だとしても大げさだ。しかしそれが、余りにも自然で呆気なかったので、ファットマンは只眺め続けるだけだった。――彼が正気に戻ったのは、その直後、ニコルが荷台を飛び出してからだ。
ニコルは、大笑いの余韻を残した笑顔をぶら下げて、ミニバンから降り、車の脇に出て、ゲートへ歩き出した。
颯爽と、大男が車の影から現れたのを見て、気が付いた兵士は隣の兵士に、その兵士は、また隣の兵士に合図して……最後には、暴れる三太を放ったらかしに、全員が一方向に顔を向けた。
続けて現れた、二人組のもう一方の片割れ――太った方が、慌てて後を追う姿を見て、大男が誰であるかを察知すると、最初に彼を輸送機から運び出し、顔に覚えのある兵士が叫んだ。
「あいつだ! ほら、例の、〝最重要人物〟!」
「ゲロに顔を突っ込ませた、あいつか!」
やがて兵士達は、完全武装が子供の蹴りを防御する為の装備で無い事を思い出し、実弾を込めたライフルを構え、大男を一斉に狙い始めた。
銃口が上がったのを見て、三太は続けていた抵抗を止め、焦って両手を挙げた。
「――ちょ、ちょっと待ってよ! それ、本物でしょ!? 僕も男だから、あんな所にパンチしたら、凄く痛いのは解るけど、……だからって、撃ち殺すつもりなの!?」
必死で訴えても言葉が通じないのは、とっくに承知だが、目も合わせて貰えないと、訴え様が無い。しかし目を合わせて貰えない事で、銃が自分に向けられていないのが、三太にも解った。
三太は、兵士達の視線と向けられた銃口の先を、追う様に振り返った。
車から乗り出した、初めて見る褐色の肌の大男の横を、見慣れた髭面の大男が通り過ぎて、こちらにゆっくり歩み寄って来ていた。
通り過ぎられた大男が目を丸くしていると、また横を、太っちょが走り抜けるのが見え、それを見た大男が更に目を丸くし、その大きな身体を不自由そうに動かして、車を降りようと必死になっていた。
それは非常に可笑しな光景だった。今迄自分達が可笑しいと思われていたのに気が付く訳も無く、見ていた兵士の一人が吹き出した。
釣られて笑っていたのか、最初から笑っていたのか……三太の前に再び現れたニコルの顔は笑っていた。
待望の待ち人の登場に、三太も笑顔を作りかけたが、何かに気が付き、思い留まると、突然ニコルに向かって叫んだ。
「やばいよ! ――此処、基地の真ん前じゃんか! あんた、脱走兵なんだろ!? 捕まっちゃうよ!」
未だ自分を〝脱走兵〟と勘違いしている三太を見て、ニコルは更に口の端を持ち上げて笑った。
次の瞬間、追い着いたファットマンのタックルが彼を襲い、笑いは消えた。
鮮やかに決まる太っちょの技を目にして、三太は顔を覆って呆れた。
「だから、言わんこっちゃないのに……」
厄介者を、再び尻の下に敷いたファットマンは、尻の下に向かって叫んだ。
「――おい、話しが違うぞ! また、逃げようってぇのか! ――お前、俺達に嘘吐いてたんだな! 『クリスマスに嘘は吐かない』って、言ってた癖に!」
「……と、時計を見てみろ。まだ、クリスマスじゃあ無い」
「そんなの、屁理屈じゃないか! ――畜生、馬鹿野郎! 何処まで俺と、俺の家族を苦しめれりゃあ気が済むんだ! 今年こそ俺は、クリスマスは家族と過ごすんだ!」
何とか保っていた役人の威厳は吹き飛び、私情が降り注いだ。
ファットマンは拳銃を取り出すと、ニコルの後頭部に銃口を突き付けた。――どうやら今度は本気らしく、太い指が引き金に掛かった。撃鉄を引く音まで聴こえてきた時には、からかった事を、ニコルは少しだけ反省した。
それとは別に、まったく違った音も聴こえてきた。
けたたましいサイレンの音が幾つも重なって、ゲートに近付いて来た。其処にいる全員が辺りを見回し、音が何処から聴こえてくるのかを確かめ出した。
基地の内側、兵舎の方から、幾つものランプが重なって、こちらに向かって来ていた。
殆どが赤だったが、黄色や青も混じっている。敷地内を照らし出す白色のサーチライトと重なって、まるでクリスマスツリー。
やがて辿り着いたそれらの正体は、殆どが緊急車両で、憲兵隊の車両、救急車、消防車や、滑走路を整備する作業車まで――手当たり次第に手っ取り早く、近くにあった車に乗ってきた感じだった。
厳戒態勢の基地で、中と外を繋ぐゲートが大騒ぎになっているのを、見たり聞いたりした各々は、やはり完全武装で応援に駆け付け、到着するや否や、車から降りて辺りを囲み、各々が手に持ったライフルや拳銃を一斉に構え、最初に居た兵士達に従って、銃口をニコルに向け始めたた。
上に乗っているファットマンは、数え切れない程の銃が、集中的に下半身を狙っているのを目の当たりにして、流石に正気を取り戻したのか、慌てて両手を挙げた。
「止めろ! 止めろ! ――俺はまだ、子供を作る気でいる! 確かに、只でさえ大所帯で、ガキ全員にクリスマスプレゼントを贈らなきゃならないなんて、そりゃあ面倒臭くて、文句もさんざ言ったが……撃たないでくれ! もし撃つなら、下の方じゃなく、別の場所にしてくれ!」
「十四人目かよ……」車からやっと抜け出したトールボーイが、やっと仲間に加わり、呆れた顔で相棒に言った。「そんなに作って、何がしたいんだ。家族でフットボールチームでも作る気か?」
冗談を言ったつもりだった。付き合いの長い相棒は、気の利いた冗談で返してくれると思っていた。
ところが意外にも、振り返ったファットマンの目は真剣で、少しだけ涙が溢れていた。
「実はそれが、俺の夢なんだ……。いつか、こんな糞みたいな仕事を引退したら、フットボールチームの監督になるつもりだったんだ。自分のガキの中から、プロ選手を育ててさ……。本気で、本気で、そう考えていたんだ……」
突然の相棒の告白に、トールボーイは閉口した。
長い付き合いだったが、そんな心の内側を聴かされたのは初めてだった。取引が成立したものと安心していた男に突然裏切られ、あげくに銃まで突き付けられる始末――今迄どうにか繋げていた緊張の糸が、解けてしまったのだろう。「何も今、こんな場所、こんな状況で言うべき事か?」とも頭に浮かんだが、トールボーイは相棒を気遣い、決して口にはしなかった。
ファットマンの告白に応えたのは、こんな状況でたったひとり。……その声は尻の下から聴こえてきた。
「きっと、なれるさ」ニコルは言った。「強く信じれば、必ず叶う。今は存在していなくても、それが信じられれば、いつか必ず見えてくる。だから、強く信じているという〝現実〟があれば、それはもう〝夢〟じゃないんだ」
途中からあえて日本語だったが、言わんとしている事は伝わったらしく、二人組は黙ってニコルを眺めていた。
そして、途中からあえて日本語で言ったニコルは、目の前に居る三太に目を合わせた。
「……そう思うだろう? 今のお前には、理解が出来るだろう?」
三太の手が震えた。彼はクリスマスカードを掲げ、その手で強く握り潰して、黙って、深く、深く、何度も、何度も、頷いた。
静かな空間とは対照的に、辺りの喧噪が一層深まった。
集まり過ぎた兵隊の波を掻き分け、誰かが、こちらにやって来た。久しぶりに会う、懐かしい感がした。それ程、これまでが紆余曲折だった。
やっと到着した基地司令官は、近付くなり、二人組を見付けると、昼間見せた態度とは別の姿を見せた。
「――何だ、何なんだ!? この騒ぎは!? 私の基地で、……本当にもう、いい加減にしてくれないか!」
せっかくケニー・ニコルを捕まえてきたのに、歓迎の素振りもない叱咤が掛かると、二人組は一斉に反抗をした。
「〝騒ぎ〟だと? 准将……そちらこそ、いい加減にしろ。此処は本当に空軍基地なのか? 隠密に済ませたい任務を、お前の部下共は、何でこうも派手に出迎えるんだ?」
「そうだ! そうだ! まず、俺の股間を狙っている銃を下げさせろ! 騒ぎを聞き付けた地元の警官が、やってくる前に!」
トールボーイが〝役職〟では無く〝階級〟で呼んだ事に、今更ファットマンは注意をしなかった。
元来どちらでも良い本人は、二人組の言葉など聴く耳も持たず、太っちょの尻の下を指差して、一方的に質問を始めた。
「そいつが……〝ケニー・ニコル〟か?」
「……だったら、どうするんだ?」
「彼を……その〝重要人物〟を捕まえるんだろう?」
「そうだが、……それは我々、NSAの仕事だ」
「捕まえるのを、協力しようか?」
「だから、それは我々がやる! あんたらは銃を引っ込めて、おとなしく引き下がってくれ!」
「最初に『〝協力〟してくれ』と説得したのは、そっちじゃないか。それに……今の君達の体勢は、どう見ても、今にも逃げだそうとしているその男を抑制している、としか見えないんだがね」
二人組は顔を見合わせた。何かに気付くと、口々に質問を返した。
「准将……まさか、あんた、手柄を横取りするつもりじゃあ?」
「驚いたな。野心や向上心など、無縁の男だと思っていたのに……」
基地司令官が、せせら笑った。
「NSAの手に余るなら、空軍が任務を代行しても構わないぞ。それに……ケニー・ニコルは元来、空軍大佐なんだろ? あんたらに虐められて、逃げだそうとしている友軍の士官を、我々が保護しないで、どうするんだ?」
為す術は無かった。
確かに二人組の、目の前で沢山の銃を構える彼等に対する態度と、尻の下で潰されれている彼に対する扱いは、決して良いものとは言えなかった。土壇場で仕返しされても仕方が無い。この土壇場の混乱の中、兵の誰かが一発撃っても、基地司令官の言い訳が立つ、そんな状況だった。
考えがまとまると、ファットマンは「今年こそ、家族とクリスマスパーティ……とか言っている場合では無いな」と頭に浮かべた。
そんな中、三太とニコルは別だった。
彼等は、辺りを尻目に、別の会話をしていた。――といっても、言葉が交わされた訳でも無く、発せられたのは、せいぜい一言二言。……しかし彼等には、それで充分だった。三太は、伝えるべき決意をニコルに告げた。
「決心したよ。将来の夢を捨てないで、強く信じる。……僕は、パイロットになるんだ。だから――」三太は、星々の輝く夜空を颯爽と指差した。「あそこへ、連れてってくれる?」
とても連れて行けるとは思えない体勢のニコルに対して、何の疑いも持たず、三太は訊ねた。
辺りが、もう少し静かで、誰かがこの会話に耳を傾けたら、……いや、全員が聴いていたとしても、此処からの逆転など、あり得ないと全員が思うだろう。
しかし、三太は信じた。信じて、ニコルの両目を見た。
瞬きもせずに見詰めると、同様に視線を返すニコルの目に、自分の姿が映っていた。その後ろには、自分を待ち受けるかの様に、広く美しい満天の夜空が広がっていた。
――そして昼間の約束を守る為、ニコルは行動に出た。約束を蔑ろにしたファットマンに、悪びれもせず、彼は呟いた。
「おい、もう逃げないぞ……」
相変わらず基地司令官と言い合いをしていたファットマンは、当然聞き逃し、依然として大声で怒鳴っていた。
太っちょの口から垂れる土砂降りの唾を、迷惑そうに避けながら、ニコルはもう一度、負けないくらいの大声で叫んだ。
「おい! 聞いてるのか!」
ファットマンはやっと気が付き、ニコルに聞き返した。
「――何? 何か言ったか?」
「俺はもう逃げない……と、言ったんだ」
今度はファットマンも聞き逃さなかった。
それどころか、待ち侘びていた台詞と一致したのか、素早く反応し、一旦はもう一度確認しようと聞き返す素振りを見せたが、移り気の激しい尻の下が気持ちを変えられては困ると、思い留まり、皆に公言した。
「おい! 聞いたか!? 彼はもう逃げない! 我々が、確保するぞ!」
辺りが、どよめいた。
その中心、基地司令官は、勿論ファットマンの言葉を信じなかった。
「本当に、そう言ったのか? 無理矢理言わせているんじゃないのか!?」
「うるさい! 当初の予定通り、我々、NSAが捕まえて、我々、NSAが運ぶんだ! お前ら空軍は、輸送機だけ用意すればいいんだ!」
上官が指示を与えなくても、兵士達の銃を構え直させるには充分な内容だった。
案の定、兵士達は銃を構え直し、ニコルより的の大きいファットマンを狙った。
察知したファットマンは、また両手を大きく挙げた。
「いや、勘違いするな! 馬鹿するつもりで言ったんじゃない! 銃を下げてくれ!」無論一人として兵士に動く気配は無く、ファットマンは片手を引き戻し、後悔しながら顔を塞ぎ、呟いた。「畜生、何で素直にいかないんだ。何で、いつもこう、もう一歩の所で躓くんだ……」
答えはニコルが教えてくれた。
「それは、あんたが勘違いしているからさ……」
「何? 何だと? ……〝俺が勘違いしてる〟って言ったか? 俺の聞き間違いだろう?」
「聞き間違いは、あんたの方さ。――確かに俺は『もう逃げない』と言ったが、それは、あんたらから逃げない事じゃあ無い」
恐らくは、人生で一番のショックが襲ったのでは無いだろうか、ファットマンの太った身体が震え出した。
筋肉は細かく痙攣し、目は宙を舞っていた。原動力は怒りでは無く、多分に衝撃、――心身共々、失神寸前――。最悪なのは、誰にも漏らせないが、失禁すらしそうになっていた。
そのまま失神すると、ニコルを潰してしまうし、失禁だと、もっとえらい事になる。残された理性が精一杯の力を振り絞り、太っちょを立ち上がらせた。直後、立ち眩みが頭を襲い、本当に倒れそうになったところを、冷静に傍観していた相棒が、腕を添えて助けてくれた。
脚のおぼつかないファットマンを力一杯支え、トールボーイは冷静に――しかしながら内心は、相棒同様に動揺し、ニコルに訊ねた。
「まさか、空軍に身を渡す気か? そんなの意味が無いぞ。あいつらは、手柄を奪い取りたいだけなんだ。結果は我々に捕まるのと一緒、結局は〝連中〟に引き渡されるんだ」
「じゃあ、あんたらに手柄を獲らせてやろうか?」
やっと尻の圧力から解放されたニコルが、立ち上がりながらそう言うと、相変わらす目を泳がすファットマンが、辿々しく口を動かした。
「な、な、な、何言ってんだ!? 逃げるとか、ほざいてた癖に!」
「『文章』から逃げるのを、辞めたんだ」颯爽と、コートに突いた土埃をニコルは払った。「――承知の通り、逃れる為になら、俺は何だってやって来た。軍隊に逃げ込み、この空軍基地からも、あんたらからも逃げた。……でも、もう逃げるのはやめだ」
ファットマンの震える指先が、ニコルを指差した。
「こ、こ、この期に及んで、〝心変わり〟しやがった!」
「違うよ、決心したんだ。そこの子供に、決心する勇気を教えて貰ったんだ」
ニコルの目線が移動させると、二人組はゆっくりと追った。
先に立つのは三太だった。大男二人と太っちょに注目され、三太は訳が解らず、ただ不思議そうにするだけだった。
ファットマンが更に不思議そうな顔を三太に返し、ニコルに訊いた。
「こんなガキが……あんたを動かしたのか?」
「子沢山なんだろ? 子供の気持ちに動かされた事など、幾らでもあるだろう。……現に、子供の為に、クリスマスパーティを間に合わそうと、必死だったじゃあないか」
太い首が、静かに深く、一回だけ前に倒れた。
「そうか、そうだったな……」
ファットマンはもう、慌て様とはしなかった。落ち着きを取り戻した彼は、優しく、まるで自分の子供を見詰めるかの如く、三太を眺め始めた。
「今思うと、大佐殿を捕まえるより、頑張っていた気がする。あんだけ必死になっていたのは、自分の為なんかじゃ無く、子供達の為だったんだな……」
初めて見る太った男の視線は、三太にとっては不気味としか感じられなかった。それより、未だコートを払うニコルの方が気になった。土埃はすっかり落ちたが、ニコルのそれは相変わらず汚れていた。――いったい、いつまで払っているつもりなのだろう。
ある程度手を動かすと、やっと満足したのか、ニコルは何度か頷いてから、二人組に振り向いた。
「さぁ、どうする? 俺は決心――あんたら風に言えば、〝心変わり〟をしたんだ。もう、逃げもしないし、口裏を合わせるやらせも無い。あとは、あんたら次第だ」
二人組は、静かに顔を見合わせた。
「どうする? 我々が確保している最中に、大佐の気が変わった場合、……そんなもの、来ないと思っていたが、……その場合は、我々が〝連中〟と同じ事をおこなう義務がある。これは、最初から決まっていた事だ」
「そうだよ。だから俺が嫌がっていたんじゃないか。そんな余計な仕事を引き受けたら、クリスマスにガキ共に会えなくなっちまう」ファットマンは、また三太を見た。「でもまぁ、仕方が無いか。本当は嫌だったけど、大佐が、〝心変わり〟――いや、決心したんだ。〝連中〟の代わりに、我々がやろう」
「クリスマスに、子供に会えなくなるぞ」
相棒が忠告すると、ファットマンは深く溜息を吐いて応えた。
「大佐を捕まえるより、大手柄なんだろう?」
「そうだな……、これからやる事に〝連中〟以外の人間が関わるのは、初めてだ。何百年も続く歴史の中で、我々が初めてだ。だから、大手柄というより……むしろ、栄誉だ。お前の家族に自慢できる程、栄誉な事なんだぞ」
「一銭にも、ならないけど――」
「当たり前だ。我々は役人なんだ。どんなに働いても、給料分しか金は貰えん」
「じゃあ、こいつはボランティアだな」
「そうさ。しかし、世界を救う大きなボランティアだ」
「ガキに、自慢出来るかな?」
「全世界に自慢出来るさ。――信じて貰えれば、だが」
「信じて貰えるかな……?」
トールボーイは鼻で笑った。
「無理だな。これから起こる話は、誰も信じちゃくれないさ」
「そうだろうなぁ、夢みたいな話だものなぁ」
二人組は、互いの意志を確認し合った。
そしてトールボーイが、気取って使っていた汚い言葉を押し潰し、生まれつきの上品な口調で、ニコルに訊ねた。
「――大佐、本当に決心したのですね?」
「あぁ、したよ」
「では、『文章』を守り、受け継ぐ家系は、貴方が継承する……という事で、よろしいのですね」
「そうだよ。……しつこいな」
これから起こる大事が頭に過ぎる二人組は、ニコルの返事が余りにも平坦で素っ気なかったので、笑って呆れ顔を見合わせた。
やがてトールボーイが、長い首を曲げて相棒に合図した。
ファットマンも合図を返すと、銃を構える兵士達に振り返り、下げていた銃を構え直した。笑っていた顔は、真剣に戻っていた。
「銃を下ろせ! 全員、下げるんだ!! 只今より、彼の身柄は、我々が保護する!」
誰も命令を聞こうとしなかった。
なにせ向かい合った銃口の数が圧倒的に違っていたし、二人組が命令が出来る立場とは、誰も思っていなかったので、それが命令かどうかも理解出来なかった。
基地司令官に至っては、ファットマンが放った言葉に違和感を覚える始末だった。
「ちょっと待て。あんたらがするのは、〝確保〟だろう? 〝保護〟なら、友軍である我々が使うべき言葉だ。……さぁ、我々が〝保護〟するから、大佐を引き渡してくれ」
「彼は決心したんだよ! だから、もうすぐ〝大佐〟以外の立場になるんだ!」
ファットマンの解答に、誰もが首を傾げた。
その誰もに向かって、トールボーイが大声で叫んだ。
「誰か! 俺の相棒に、携帯電話を貸してやってくれ! 国際電話が掛けられる奴を!」
当然、誰もが無反応――様子がおかしくなってきたのを、顔を見合わせて不思議がるだけだった。
煮え切らない態度に、トールボーイが怒った口調で、また叫んだ。
「早くしろ! 明日以降のクリスマスが、一生来なくなってもいいのか!」
兵士達は、また顔を見合わせ、戸惑った。
やがて一人の兵士が銃を下ろし、基地司令官に近付いて、耳打ちした。
「よろしいのですか?」
基地司令官は疑心暗鬼な顔のまま、無言で合図した。
兵士はポケットから携帯電話を取り出し、短い足を摺り足に、銃を構えたままで近付いて来るファットマンに翳した。
彼は奪い取ると、急いでダイヤルボタンを押し始めた。
「普通の携帯電話じゃないか。――盗聴されちまうぞ」
「いや、むしろ好都合だ。これで、全世界が知る……」
相棒の合いの手を尻目に、ファットマンは何処かに電話を掛けた。
呼び出し音が長く続いたのか、彼特有の汚い言葉を、暫く呟いていたが、相手が出ると当時に、その汚い言葉も皆に聴こえなくなった。――いや、聴こえていたのかも知れないが、理解が出来なかった。
ファットマンは英語ではない、何処か別の国の言葉を使って、相手を早口で捲し立てた。
基地司令官は、トールボーイに訊ねた。
「大統領……じゃないな?」
「その通り、我々のボスではなく、〝連中〟のボスだ」
「〝連中〟? ……誰なんだ、それは?」
「何百年も前の言い方で言えば、〝法王の僕〟……現在の言い方をすれば、〝ローマ法王庁〟さ。――バチカンの〝連中〟だよ」
「……じゃあ、連中のボスとは!?」
トールボーイは、深く頷いた。
基地司令官は驚いてファットマンに顔を向けたが、相変わらず相手を捲し立てている姿を見て、思い留まり、何か否定する仕草で頭を何度も横に振った。
「――馬鹿な。法王が、他国の……たかだか子役人風情の電話なんかに、お出になるものか。君らが大統領だというなら、いざ知らず……」
「首を長くして待ってたさ。……なにせ、この電話が無かったら、明日以降のクリスマスが、永遠に来なくなるところだったからな。クリスマスを一番に祝うべき法王としては、そりゃあ待ち焦がれていただろう」
問答の決着は、すぐ着いた。突然、ファットマンの態度と口調が一変した。大統領と電話していた時より緊張していたそれは、相手に誰が出たかを、基地司令官にも容易に想像させた。
勝ち誇った様に、こちらを伺うトールボーイのにやけ面が、非常に鼻についたが、基地司令官が訊きたい事は山程あった。しかし、混乱が頭を掻き回し、何を質問して良いか解らなくなってしまった。
基地司令官は目を泳がせながら、溜息と同時にトールボーイに言った。
「意味が、まったく解らん。……だいいち、ケニー・ニコルは、その祖先の時代から何百年も、法王から――いや、『文章』を支配しようとする、すべての権力から、逃げ続けて来たのではないのか?」
「彼が逃げ続けてきたのは、彼の家系――『文章』を守る家系からだけだよ。要は、家系の持つ重責を、継ぎたく無かっただけさ。まぁ、我々の想像を超えたスケールだからね。逃げたくなるのも、解る気がするが。――しかし、それではマズいんだ。それでは、全世界が大変マズい事になる。だから、彼の家系の意味を知る、すべての権力者……勿論、我が国の大統領もそうさ、――事の深刻さを心配して、彼を捜して捕まえようとした。バチカンの連中に引き渡す為にね」
「では、やはり、法王から追われているんじゃあ――。彼の、『文章』を解読出来る能力を利用……い、いや、もしくは、抹殺する為に捕まえるんじゃあ――」
トールボーイは何度も舌打ちを繰り返しながら、首を横に振った。
「そんなの、今更無意味だ。――何故なら、既に、もうとっくの昔に、……何百年も前に、彼の祖先は、法王に捕まっているんだよ」
基地司令官の目が丸くなった。
先程から聞き耳を立てていた周りの兵士達も、構えた銃の照準から目を離し、ざわつきながら三度顔を見合わせた。
トールボーイは、続けて説明した。
「何百年も前、文章を解読したケニー・ニコルの祖先は、一旦は逃げ出すが、すぐに捕まっちまうんだ。……状況は今と同じさ。だが時の法王は、決して彼から文章を奪おうとしなかった。表向きは、捕まえた後、文章も、解読に携わった僧侶すら、最初から存在しなかった事にしたらしいが、それは表向きだけの話だ。その実、法王は非公式ながらも、名も無き僧侶だったケニー・ニコルの祖先に、内密に〝称号〟と権限を与え、文章を管理し、国や民が困窮した時の、指針を見出す相談役に仕立てたんだ。こうして多くの国や民が救われ、やがてそれは数々の逸話を生み出し、彼の祖先は皆の知る人物となったのさ。そう、何百年の時を経て……」
トールボーイの長い腕の先に着いた手が、親指を立て、ニコルを指差していた。
タイミング良く、携帯電話での会話を終えたファットマンが、ニコルに声を掛けた。
「法王は、承諾しました! 家系は貴方が受け継ぐ事になります! ――勿論、〝称号〟も! たった今から、貴方は〝聖人〟です!」
ファットマンは、短い腕に巻いた時計に急いで目をやった。
秒針が天辺に向かって歩いている。先に待つのは兄弟で、時間と分を示す針達は、真っ直ぐ上を指す場所で先に留まり、歩みの遅い末っ子の到着を待っていた。そして数秒後、時の家族は仲良く重なり、久しぶりの再会を持ち主と共に喜んだ。
ファットマンは顔を上げ、安堵の溜息を一気に吐き出した。
「今、丁度クリスマスだ……!」
未だ理解出来ない基地司令官は、トールボーイに質問した。
「〝聖人〟? クリスマス? 皆の知る人物? ……彼はいったい、何者なんだ?」
「〝ケニー・ニコル〟と呼ばれているが、本名の正式な読みは、〝ケケ・ヨシキ・ニコラウス〟。……本当は、もっと長いんだが、殆どが、まともに発音出来ないし、時間も掛かるので割愛する。それに、重要なのはフルネームでは無く、受け継ぐべき〝称号〟と、ラストネームだ。――祖先より、何百年も受け継がれた称号は、〝聖人〟。ラストネームが〝ニコラウス〟。――つまり彼は、〝聖ニコラス〟だ」
兵隊達から、ざわめきが……聴こえても、漏れても来なかった。
何百年も続き、隠されて来た事実を知った彼等が、此処で一斉に驚くものと踏んで、先にその事実を知り、自慢気に語っていた二人組から、代わりの落胆の溜息が漏れた。
胸を張って説明していたトールボーイの肩が、地面に穴が開く勢いで落ちた。
「おい、お前ら……、其処で汚いコートを身にまとってる人物が、誰だか解っているのか? 見た目がああだからって、そこら辺のホームレスじゃないんだぞ。ああ見えても、キリスト教の聖人様なんだぞ。しかも、あの、偉大なる、聖ニコラス様……なんだぞ」
「……聖バレンタインとか、と一緒か? 何か関係があるのか?」
兵士の誰かがそう口にすると、ファットマンが大きな舌打ちを返して、やがて大きな声で叫んだ。
「誰か! 俺みたいなプエルトリコ移民の家系は居ないのか!? ヒスパニックなら何でも構わん! とにかくスペイン語とか、ポルトガル語とか、南米やヨーロッパのあっちで話している、手前の親や爺様が喋っていた、余り品が良く無い言葉の出来る奴! ――〝マイケル〟が〝ミゲル〟、〝ミハエル〟や〝ミケーレ〟みたいに、発音次第で変わっちまうのと同じ感覚で、思いっ切り訛って、〝聖ニコラス〟 って言ってみろ!」
やっと、ざわめきだけは――それでも、恐ろしく静かだが――聴こえ始めた。
そのざわめきの中で、一人の――都会出身に見えるが、ファットマンと似た――貧民街出身の臭いの抜け切れていない青年下士官が、ふと気が付き、短い声を上げた。
「あ」
誰もが、彼に注目した。
筆頭に立つ基地司令官は、真っ先に答えを要求した。
「どうした? 訛って言うと、何だと言うんだ!?」
「セント(Saint) ――セント・ニコラス(Saint Nicholas)……」
下士官はひとまず、自分の少し前の代からであろう、普段から使う口調で呟くと、すぐに言葉を飲み込んで刮目し、そして祖先が何百年も使っていた、今はもう話しも聴きもしないで見捨てられた、歴史ある言葉で言い直した。
「〝サンタ(Santa)〟!! 〝サンタ・クロウス(Santa Claus)〟……!!」
叫びが、周囲のざわめきを一瞬で奪った。
下士官の声と、驚きが余りにも大きすぎて、誰も声すら出なくなっていた。
基地司令官は誰にも見せた事の無い顔で唖然とし、兵士達は誰もが口を大きく開け、ニコルに注目した。皆、銃を向けた相手を理解したらしく、並んだ銃口は、いつの間にか下がっていた。
期待外の反応だったが、想像以上の出来映えは、二人組を上機嫌にさせた。
トールボーイは、付け加えた。
「彼が決心しなかったら、クリスマスなんて、一生来なくなっていた理由が解っただろ? 大統領すら、法王すら、……事実を知る誰もが、躍起になった訳を理解しただろ? ――その事実を知ってしまえば、誰もが懸命に、彼を救いたくなる。何としても、彼に家系を継がせたくなる。本来利益や報酬だけで動く人間ですら、何の利益も報酬も期待せず、顧みずにだ。――そりゃあ『文章』の存在は、誰にとっても大変な誘惑だが、この事実を知ってしまえば、そんな物ですら色褪せるさ。……だって、誰もが、野球選手やロックスターに憧れる以前から、もっと前の、子供の頃から聴かされてきた、会いたいと願ってきた、でも本当は居ないんじゃないかと疑って、大人になったらすっかり頭から消し去ってしまった、夢の人に会えるんだぜ。――しかも本物だ。何百年もの歴史が裏打ちしてきた、本物なんだよ。……そうさ、今其処に立っている人物は、実際に、其処に居るんだ。これは、お伽話でも、何でも無い、……紛れも無い現実だ。――彼こそ、実在したサンタクロースの子孫であり、ついさっき、その名を継いだ、本物のサンタクロースなんだよ」
とにかく静かだった。
ついさっきクリスマスになったというのに、誰も騒ごうとはしなかった。それよりもクリスマスに、子供の頃から会いたいと願っていて、忘れ去っていた人物との再会を、誰もが静かに噛みしめていた。
思い出すのは、彼の代わりに父親が与えてくれた、ささやかなクリスマスプレゼント――皆、それが本物のサンタクロースからの〝贈り物〟だと信じて疑わなかった、懐かしい記憶だけだった。
さっきまで殺気だった険悪な雰囲気が一掃され、兵隊達が突然構えた銃を下ろし、中には涙を浮かべて鼻水を啜る姿まであるを見て、三太には、何が起こっているのかが解らなかった。――聴き取れる言葉は「サンタクロース」だけ。そのサンタクロースが、どうとか、こうとか……。それで兵隊達がおとなしくなってしまうなんて、まるで意味が解らない。
三太は不思議そうな顔をして、辺りに、差し当たっては、唯一日本語の出来るニコルに問い掛けた。
「――何? サンタクロース? ……サンタが、どーしたの?」
「基地の連中が、本物のサンタクロースを発見したらしくて、驚いているところさ」ニコルは三太の顔を覗き込み、勝ち誇った顔で、まるで他人事の様に、それが自分である事をはぐらかして、挑発的に言った。「――どうだ! サンタクロースは、やっぱり居るんだぞ!」
「何? 何言ってんの? サンタなんか、居る訳無いじゃん」すぐに、三太の冷めた目が向けられた。「みんな、知ってるはずだよ。サンタは居ないんだ。……居ないから、父親がサンタクロースになって、プレゼントをくれるんだ。――でなきゃあ、貰ったプレゼントを、いつまでも大切に、来年のクリスマスまでも喜んで持ち続けている訳が無いよ。大好きな父親から貰うから、嬉しいんだ。見た事もないサンタから貰ったって、ちっとも嬉しくも、何とも無いよ」
少年には、今皆が体験している事実は見えて居なかった。
だが、それはどうでも良い事だ。――ニコルは、出会った時よりも自信に満ちて、強く真っ直ぐ前を見据える三太の横顔を見ながら思った。
皆が見ている事実など、結局は、夢みたいな話が本当にあっただけの衝撃にしか過ぎないのだ。何百年も続いているからといっても、人々の歩みに対すれば微々たるもの。……確かに夢の人物に出会えた事に感激もあるが、それよりもむしろ、夢を信じた先人達――三太の父親や、ニコルの祖先から、受け継がれ、与えられた夢の方が喜ばしく、嬉しく、もっと感激だ。その感激こそ、人々に勇気を起こさせる。まさに今の三太や、ニコルの様に……。勇気は行動を起こさせ、関連する周りの人間を巻き込んで、歴史が作られる。それこそが人々の歩みであり、連鎖であり、その事のすべて書かれているのが『文章』なのだ。
何百年も前、最初に解読した祖先から始まり、何百年もの間、家系が受け継いできた『文章』の意味を、そして受け継いできた先人の気持ちを、ニコルは三太を見て理解した。
もう否定はしない。次にするのは行動のみ。――差し当たっては、目の前の少年と、昼間交わした約束を守らなければならない。「もしお前がその気なら、俺が助けてやる。お前が将来の夢を捨てないで、強く信じるなら、俺が叶えてやる。オモチャなんかじゃなく、本物の戦闘機で、今にでもあそこに連れて行ってやる」……勿論、ニコルも覚えている約束だ。約束を交わした二人は此処に居るし、今では自分らに協力してくれそうな二人組も居る。おあつらえ向きに、あと数歩歩けば、其処は空軍基地だ。
ニコルは、目の前で大きな壁を作るトールボーイの高い肩に、手を伸ばして、彼を振り向かさせた。
「……何でしょう、聖ニコラス?」
数分前とは、呼び方と態度が明らかに違っていた。
これはいける、と、ニコルは手招きをして、大男の耳を近付かせ、これから起こそうと企む無理難題を耳打ちした。
トールボーイは聴き終えると、顔を上げ、あからさまに難色を示した。
「――あのガキを、戦闘機に!? ……そりゃ無茶だ! だって、他国の民間人でしょう。しかも、まだ子供だし……。それに戦闘機だって、我々NSAには、空軍の施設や機材を勝手に使う権限はありません」
「今更、何を、とぼけてるんだ? あんたらが指摘した通り、俺は『文章』から逃げる為なら、何だってやって来た男だぞ。入りたくもない軍隊にも入って、大佐まで昇進したんだ。そんな男を捕まえようとするあんたらだって、俺を捕まえる為には、どんな無茶も平気でやって来た事くらい、こっちはお見通しだぜ」
恐らく図星だったろう。態度を改めたはずの大男の、大きく反抗的な舌打ちが聴こえた。
それでも尚、トールボーイは、ニコルの考えを改めさせようと説得を繰り返した。
「確かに、貴方の言う通りです。我々も多少の無茶はしました。しかし、彼等、――空軍の連中は、最初から協力的ではありませんでしたよ」
「……今は、どうだい?」
ニコルが指差す先で、未だ呆然と、羨望を交えてこちらを眺める兵士達の姿が、トールボーイの目にも写った。
ニコルは重ねて言った。
「今日は、クリスマスだ。――一年で、一日しか無い特別な日だ。特別な事に協力したそうな目で、みんなこっちを見ている。……そんな気は、しないかな?」
大男が、また大きな舌打ちをした。
「……まったく、本当に狡いお人だ。本物のサンタクロースに〝今日はクリスマス〟と囁かれて、協力しない人間など居る訳が無い。――解りました。協力しても貰える様、彼等を説得しましょう」
「本当かい? そいつは助かる。本当にありがとう」
「何を今更。……今迄も、そうやって、狡賢く立ち回って来たんでしょう? 我々も見当が付きますよ」
これも図星だった。ニコルは少し照れた様な素振りを見せた。
とにかく基地に入らなければ話にならない。その前に相棒の説得からだ。トールボーイはファットマンを呼び寄せ、これからやろうとしている内容を耳打ちした。
予想通り、太っちょの舌打ちが辺りに響いた。
「……本気か!? ……ったく、何で我々が、そんな事を手伝わなけりゃならないんだ!? 奴――」ファットマンは、ニコルを見て言い直した。「――失礼、聖ニコラスでした。……兎に角、彼を捕まえるより大事だぞ! 有事じゃないんだ。何処の国も戦争を仕掛けて来て居ないのに、こんな真夜中に、ジェット戦闘機を飛ばせる訳無いだろう!」
「あそこに居るガキとの、約束らしい」
「俺との約束を破る癖に? ――|畜生、馬鹿野郎!」
「おい、お前は異教徒か? 聖人様に対して、『畜生』は無いだろう。それに、我々が本気になって出来ない事など、無いだろう?」
「どうせ、其処迄、見越して頼んでいるんだろうよ! ――畜生、足元を見やがって!」
「よくもまぁ、クリスマスに、懲りずに罰当たりな……。兎に角、飛ぶったって、実際に戦闘機に乗れれば良いんだろう。規定の訓練コースを一回回らせれば気が済むさ。それくらいなら、真夜中だろうが、たいした問題にならずに済む」
尚も説得の続く二人組を余所に、ニコルは三太を呼び寄せた。
「約束だ。本物の戦闘機に乗れるぞ」
意外にも三太は、きょとんとして聞き返した。
「……何で?」
「何で……って、昼間約束しただろう? お前もそのつもりで、俺を追って、此処に来たんだろう?」
「そう、……そうだけど、冷静に考えると、何で脱走兵のあんたが、戦闘機を用意出来るの? ――訳解んないよ」
「それは、多分、……今日がクリスマスだからさ。奇跡が起きたんだ」
それ以上の説明を、ニコルはしようとしなかった。
本物のサンタクロースからのプレゼントと言ったところで、事情の見えていない三太には信じて貰えないだろうし、また、詳しく説明しようがしまいが、彼はこの星空に飛び立つに決まっている。それは『文章』にも書いてあるだろうし、もし、書いていないとしても、この時点では、まだ『文章』が、自分の手元に無くて仕方なかったと、ニコルは自身に言い訳した。家系を継続した身としては、実にいい加減な考え方だが、その気になったのも、この少年のお陰――何百年も守り続けてきた掟を、破るはめになるかも知れないが、せめてお礼くらいさせてくれ、と、先だった先人達に対して、心の中で密かに謝罪した。
すると三太がニコルのコートを引っ張り出した。
ニコル自身に自覚は無いが、薄汚いコートは、夜でも解る程薄汚い息を何度も吐いた。
普通なら嫌がりそうなものだし、三太もそれを知っていたのに関わらず、構わずに何度も何度も繰り返して、ニコルを呼んだ。
「ねぇ! ねぇってば! マジで、……本当に、乗せてくれるの!?」
喜んで、はしゃいでいる様には、余り見えなかった。
ニコルは、突然興奮し出した三太に、訳を訊いた。
「どうしたんだ? いきなり――」
「あのね、思い出したんだ! それどころじゃあ無いんだ!」
「それどころじゃあ無い? 戦闘機に乗っているどころじゃあ無い、って事か? ……あ、そうか! 思い出したぞ――」ニコルは両手を叩いて、嫌らしく笑い出した。「そう言えば昼間、もうひとつ約束してたっけ。ほら、あれだ、……クリスマスパーティ! あの、ほら、病気の娘を救ったお礼で、誘われてた――」
「違うんだ! ……いや、合ってる! でも違う!」
「おいおい、どうした? 落ち着けよ」
「落ち着いてなんか居られないよ! その、病気の娘――洋子ちゃんに会わせて貰いたくて、戦闘機に乗せて貰おうと思って、此処迄来たんだ! ――でも、まさか、本当に乗れるとは思っても見なかったから、すっかり忘れちゃってて……」
「おい、まさか、……戦闘機で、その娘の家まで送って行け、って言うんじゃ無いだろうな?」
「まさか! 違うよ! 何言ってんの! ――そうじゃなくてさ、あー、もう! ――あ、あのね! それどころじゃないんだよ! ……病気が! ……心臓で! それで、手術が必要で! でも、名古屋だから! ――確かに僕は、パイロットになるって言ったけど、まだパイロットじゃないから、会えないんだ! だから会う為に、最後の手段で、クリスマスカードを頼りに、此処に……。全然信じられなかったけど、駄目元で……。――で、でも、今は信じる! 信じるから! ねぇ、連れてってよ!」
「おい、何を言ってるのか、全然解らないぞ! と、とにかく落ち着け!」
ニコルは三太の両肩を押さえ、目と目を合わせた。
肩と目に力を込めると、やっと三太も落ち着き始めた。そして完全に落ち着くと、彼はゆっくりと事情を話した。
すべてを聞き終わろうとする頃、二人組の相談は終了したらしく、ぶつくさと小声で不満を呟くファットマンを引き連れて、トールボーイがやって来た。
「オーケーです、聖ニコラス。――その子供を、戦闘機に乗せましょう。ただし、空軍の手間とメンツを考えて、通常の訓練コースを一回飛ぶだけ。……それ以上は我々も、彼等を説得する自信がありません」
三太に目的地を告げられて、不味い事になったな、と、ニコルは頭に浮かべたが、二人組にそれを告げる勇気は無かった。
いずれにせよ、戦闘機が準備されれば、後はどうとでもなる、と、いい加減な、実に彼らしい解答を頭の中で叩き出すと、ニコルは三太の肩を叩き、二人組に返事をした。
「よし、行こう」
二人組を先頭に、ニコルと三太は歩き出した。
ゲートに集まった兵隊達は、彼等の進路を妨げまいと、自ら一歩引いて後ろに下がった。
人垣が真ん中から真っ二つに割れて裂け始めると、まるでモーゼだな、自分は聖ニコラスなのに、と、ニコルは思った。しかし悪い気分では無い。自分の祖先から続く先人達も、こんな経験をしてきたのかと考えると、家系を継いだのも悪く無い、と、不謹慎ながら頭に浮かべた。
そんな脳天気なニコルに、最初の試練が訪れたのは直後だった。
あともう少し、そこを越えれば別の国だという時に、立ちはだかる影があった。
基地司令官は、ゲートにある施設との境目を示すアスファルトの継ぎ目の中心で、立ちはだかり、拳銃を構え、銃口をこちらへ向けていた。
四人の足が止まった。
「准将……何をしてるんだ?」
「司令官、銃を降ろして下さい。貴方も、後ろの人物が誰であるか理解出来たでしょう」
場の雰囲気にそぐわない突然の奇行に驚き、二人組は口々に基地司令官にそう告げた。
基地司令官は、従う気配すら見せなかった。
「――ふざけるな、何がサンタクロースだ。幾らクリスマスだからって、人を馬鹿にするのも、いい加減にしろ……」すると突然、基地司令官の両目から、涙が溢れ出し、その頬を伝わった。「その男――ケニー・ニコルさえ捕まえれば、本国勤務になれると思っていたのに……。む、娘に……娘に、もう一度会えると、思っていたのに……」
基地の最高職の身にあるまじき態度が、辺りの兵士達を驚かせたが、誰も持っているライフルを構えようとはしなかった。理解し難い自分等の上官の行動に、誰一人として明確な判断が出来なくなり、その場で戸惑い、静観するのみとなっていた。
行動したのは、ファットマンだけだった。
素早い動きで、お得意の早撃ちを決めようと、太っちょの太い腕が上着の内側に刺さると、ニコルが手を差し伸べて、それを止めた。
ファットマンは目の前の奇行以上に、ニコルの行為に驚いた。
「聖ニコラス! 何故、止めるんです!?」
「別に止めやしない。だが、ちょっと待ってくれ……」そう言うと、ニコルは基地司令官に向けて叫んだ。「……娘に会いたいのか!?」
基地司令官は、銃を持つ腕と、身体を震わせながら答えた。
「――会いたいさ! いつだって、ずっとそれだけを考えて、生きて来たんだ! なのに、お前は、……お前らは、それを邪魔して……。――本物のサンタクロースだと? クリスマスだと? ――知った事か! 私は、娘に会いたいだけなんだ! ――もし本物のサンタクロースだというのなら、奇跡を起こしてみろ! 今日がクリスマスだと言うなら、私に〝贈り物〟を授けてみせろ! ……娘に、娘に会わせてみせろ!」
引き金に、震える人差し指が掛かった。
ファットマンはもう限界とばかり、基地司令官を撃ち殺すつもりで、拳銃を引き抜こうとした。絶対に、自分の方が早い――頭で瞬時に考えて、腕を抜こうとした。
止めるニコルの腕の方が、それより早かった。
ニコルはファットマンの腕を強く掴み、小声で囁いた。
「違うだろ? 出す物が違う。……あれを出してくれ」
「あれ? あれって、……何です?」
「とぼけるな。あれだよ。……『文章』を返してくれ」
「『文章』!? ――こんな時に、何を言っているんです!?」
「いいから返せよ。……俺の祖先も、国や民が困窮した時にこそ、文章を活用していたんだろ? こんな時だからこそ、俺が持っていないでどうする」
掴まれた腕がいつの間にか解放され、胸元で開かれた相手の手の平が、催促をしていた。
ファットマンは、上着の中で持ち替えた文章の入ったビニール袋を取り出すと、素直にニコルに差し出した。
久しぶりの再会は、感慨深いものがあった。これを最後に見たのは、もうずっと昔の子供の頃――優しかった祖父とまだ暮らしていて、自分の未来や将来など気にも留めていなかった時代だ。
あの頃、これを読む事が出来たら、現状が見えていただろうか。――例え見たところで、為す術は無い。子供の頃に祖父が教えてくれたのは、文書を守る家系は、文章に逆らってはいけない事。どんな結果が書いてあろうが、それを導きと考え、従わなければならない事。そしてもうひとつ、その内容を、決して他人に漏らしてはならない事。――それが、これから起きるべき未来を変えない為の、先人達が何百年もの間、守り続けて来た掟だった。
そしてニコルは、そんな厳しい家系を継いで早速、その禁を破ろうとしていた。――ビニール袋を掲げ、銃を構える基地司令官に向かって、ニコルは、ゆっくりと近付いていった。
「――勘違いするな。幾ら本物のサンタクロースだからといって、幾らクリスマスだからといって、俺に奇跡は起こせない。それは神様の仕事であって、サンタクロースの領分じゃ無い。……但し、これから先の将来、あんたが娘と再会出来るかどうかは、見る事は出来る。――ずっとそれを気掛かりに、今迄生きてきたんだろう? 今日は、クリスマスだ。特別に、サンタクロースからの〝贈り物〟だ。今からそれを、あんたに告げてやる」
基地司令官が一瞬怯んだ。身体が大きく震えた瞬間、銃口から弾が飛び出てくるかと思い、二人組と三太は突発的に姿勢を低くした。
その横を、少しも怯まず、涼しい顔でニコルが通り過ぎて行った。
トールボーイは慌てて彼に進言した。
「聖ニコラス、いけません! 文章の内容を彼が知って、それが最悪だったら、きっと自分の運命に逆らおうとする! そうすれば未来が――」
歩みを止める事も無く、ニコルは返事をしながら背中を見せた。
「――変わらんよ。彼は知りたいだけだ。それをずっと、ずっと、我慢してきたんだ。もし最悪な結果でも、彼は何もしない。……それは、文章にも書いてある事実だ」
勿論、嘘だった。
今手に翳してある文章には、目を通す暇さえ無かった。それどころか、基地司令官の未来を調べたくても、名前すら知らない。
ニコルは、妖しく光る銃にも怯まずに、そのまま基地司令官の目の前までやって来た。
「……名前を、教えてくれ。ファーストネーム、ミドルネーム、洗礼名、――何でもいい。人々との繋がりで、あんたが何て呼ばれているのか、教えてくれ。……その名前は、必ず、此処に書いてある」基地司令官の鼻先で、ニコルは文章をちらつかせた。「――そして、未来も……書いてある」
次の瞬間、見ている誰もが目を疑う、信じられない光景が広がった。
只でさえ震えていた基地司令官の身体が、更に震え出すと、両目からは更なる涙が溢れ出した。そしてついには銃を降ろし、懸命に首を何度も横に振り、ニコルの申し出を拒否し始めた。
「止めろ、止めてくれ、……それを知って、どうしろというんだ? ……私は、知りたくない。……私は、娘に会いたいだけなんだ。……もし、其処に、聞きたくも無い事実が書いてあったら、私はどうすれば良いんだ。……私はこの先、どう生きていけばいいんだ」
「知って、望むべき未来で無ければ、変えようとは思わないのか?」
聞き耳を立てていたトールボーイが、思わず叫んだ。
「何を、余計な事を!」
大男の心配も無意味だった。基地司令官は、更に首を横に振った。
「そんな事をして何になる。……そうまでして、娘と出会えて幸せだと思うか? 娘が出て行ったのは、当然の事なんだ。出て行って当然の仕打ちを、この私がしたんだ。今の私の孤独は、そんな人間が受けるべき、当然の罰なんだ。……そうでなければ、娘と過ごしたあの過去が、あんなに楽しかったと思えるはずが無い。私が罪を自覚しなければ、可愛かった娘の面影も、色褪せてしまう。私は、そんな自分勝手な人間になりたくない。……お願いだ、そんな紙切れで、私の人生を決め付けないでくれ。私が娘と過ごして来た大切な、大切な思い出を、どうか、どうか傷付けないでくれ……」
基地司令官はとうとう泣き崩れ、その場にひれ伏した。泣いてすがる両手が、ニコルの薄汚いコートの先端を、しっかりと強く掴んでいた。
ニコルは、彼の肩に手を差し伸べた。
「あんたは充分罪を償ったよ。だからまた娘に会いたくなったんだ。あんたの様な人間は、未来を知ったところで、変えようとはしないし、挫折もしないはずだ。どんなに未来が最悪だとしても、大丈夫だ。何故なら、あんたは、残酷かも知れない未来より、もっと、もっと、過酷な罪を背負って生きてきたからだ」
その言葉が、基地司令官に顔を上げさせた。
その隙を突く様に、ニコルの視線が、基地司令官の胸元に降りた。――軍服には、其処に、階級とラストネームが刺繍してある。
ニコルが文章を自分の顔の前に持って行くと、基地司令官も彼の考えに気付き、必死に胸元を手で覆った。
「や、止めろ! ……止めてくれ!」
もう遅かった。難解なはずの解読は、基地司令官にとって残酷なくらい、ほんの一瞬で終わった。
次に来るのは、答えそのもの。――ニコルは、何の躊躇も無く、告げた。
「……あんたは、あんたの娘と……会えない。あんたが死ぬまでの間、一生、会えないんだ」
痛烈な言葉だった。痛烈な仕打ちに、辺りが皆、基地司令官を憐れんだ。まったく救いの無い言葉は、今日がクリスマスである事さえ忘れさせた。最悪のプレゼントだ。
様子を、深刻な目で傍観していた二人組は、小声で相談を始めた。
「――ヤバいな。准将の手の中には、まだ銃が収まっている」
「撃つとしたら、どっちだろう? 俺だったら、あんな酷い事を平気で告げた、目の前の男を撃つね。……だが、司令官の性格だ。恐らくは自分の頭を狙うだろう。――いずれにせよ、その前に、俺が撃ってやる」
ファットマンの太い腕が、再び上着に刺さった。
対して基地司令官は、なかなか動かなかった。
彼等の予測した行動に出れば、確実に血が流れるだろう。クリスマスに流血とは、余り気分の良いものでは無いが、致し方ない。しかし、基地司令官は予想に反して、顔を上げたまま、ニコルを見詰めたままだった。
文章を顔から下げ、ニコルが向き合い、基地司令官に訊ねた。
「悲しいか?」
大量の涙を喉に詰まらせて、咳払いを繰り返し、基地司令官は静かに、ゆっくりと答えた。
「悲しいさ、……悲しいに決まっている。死んでしまいたいくらい、悲しい。……こんな悲しみは初めてだ。いつか娘に出会えると思って、生きて来たんだ。会えないと解った今、生きている意味など無い……。生きていたって、仕方が無いんだ……」
ついに基地司令官が動いた。銃を握り締めた拳が、浮き上がった。
ファットマンに緊張が走った。
その時、ニコルの言葉が割って入った。
「娘に与えた過去の過ちを、死を持って償うつもりか? それとも、自分が楽になりたい為だけに死ぬのか?」
拳が躊躇した。
宙で戸惑う拳銃を、ファットマンが、歯軋りをしながら目で追った。
ニコルは、頭を横に振った。
「どちらでもいいさ。――しかし、あんたが此処で死ぬのは、許されない。あんたは、これからも生き続なければならない。……それは、この文章にも書いてある」
基地司令官の腕が止まった。彼は顔を上げ、ニコルに訊ねた。
「生きて罪を償えと……? 生きながらにして得る一生分の孤独で、償えと? 娘は、娘は、……もっと悲しい想いをして居たはずだ。私が一生を掛けた孤独などで、償え切れるものか……。娘の孤独は計り知れないんだ……。それでも、その『文書』とやらは、私に生きろと言うのか? その紙切れは、私の死さえも、許してくれないのか?」
「娘への償いなど、関係無い。それは、もう過去の事だ。未来への責任を負う為に、あんたは生きるんだ――」
突然、場に相応しくない不敵な笑みを、ニコルは見せた。
「思い出してみろ。遠い昔、俺の代わりに――サンタクロース役をやって、娘にプレゼントをやっただろう? しかしそれは、何もクリスマスだからじゃ無かったはずだ。愛すべき人に、愛を与えたかったからじゃないか? つまり、先に生きる者は、これから未来を生きていく人間に、〝贈り物〟を授けなくてはならない。それは〝愛〟だったり、〝希望〟だったり、〝夢〟だったり、――それを受け取った人間は、同じ様にまた、先に生きる人間に、〝贈り物〟を受け渡すんだ。其処に居る少年が、今日生まれて初めて、自分の歳と同じ歳月を掛けて、父親からクリスマスプレゼントを貰った様に……。そして、そのプレゼントが、少年に未来への希望を芽生えさせた様に……。〝人々の繋がり〟とは、そういうものだ。そして、それらが書いてあるのが、この紙切れであり、道に迷った人々にそれを伝えるのが、この紙切れを持つ者の使命なんだ」
ニコルの顔の前で、基地司令官にとって、もう必要の無いはずの文章が舞った。
何が起きるか、誰も解らなかった。基地司令官は只々、ニコルの動きを静観した。
そしてニコルは、更なる文章に書き記された、〝人々の繋がり〟を告げた。
「娘には、会えない……それは確実だ。――が、いずれ若い男が、あんたを探して訪ねてくるだろう。その男の名前は……ファーストネームが、あんたと同じなので、すぐに解る……」
閃光が走った。
それは最初、基地司令官の頭の中だけのものだったが、辺りで耳にしたすべての人間にも、ニコルが言わんとしている内容を把握すると、同様に頭の中で、結果が閃光を放って弾けた。
すべての人間が、目の前で惨めに跪く、孤独な老人と気持ちを共有した。彼を見捨てた娘が、彼と同じ思いをして生きてきた事実は、誰の目にも明白だった。それ以外に、考えようの無い事実だった。
ニコルは、その解答を明確にした。
「――彼は、あんたの娘の息子だ。あんたの娘が、あんたの事を忘れられずに、あんたの名前を付けた、あんたの孫だ。あんたの血を引く、唯一の存在が、あんたに会いにやってくる……」
報いは訪れた。
それは、其処に居た人間にとって、報い以外の何物でも無かった。誰もが敬虔な気持ちを思い出し、誰もが其処に立ち竦んだ。クリスマスに相応しい奇跡は、人々の心を本当に穏やかにし、呆然とする兵隊達に、持っていた銃さえも捨てさせた。
勿論、基地司令官にもだ。
だがニコルに言わせると、やはりそれは奇跡では無く、何百年も前から伝わる文章に、既に書き記された事実にしか過ぎなかった。――そして報いについても、これから来る未来こそが、基地司令官にとっての報いであり、償いであると言わんばかりに、彼に語りかけた。
「娘に対する罪を償うばかりが、もはや生き続ける目的では無い。それは、過去への償いにしか過ぎないんだ。――だが、時の流れには未来もある。その男が、あんたに会いにやってくる限り、あんたは、これからも生き続けなければならない。その男の未来の為に……。それが、それこそが、〝人々の繋がり〟であり、未来への責任だ」
――事は済んだ。
もう、誰一人として、騒ごうとする人間は居なかった。
空気は次第に、久しぶりの安静を取り戻した。最も、最初から厳戒態勢という騒ぎだったので、やっとクリスマスらしい――それでも完璧であるはずないが、それなりの夜が、訪れ始めようとしていた。
基地司令官がもう何もしないと解ると、二人組が駆け寄って来た。
トールボーイはニコルの脇にそびえ立ち、目が合うと、両手を広げて呆れた顔を見せた。
「困ったお人だ……。これからも、そうやって、生きていくつもりじゃあ無いでしょね?」
ニコルが仕草を真似て返した。
ファットマンは基地司令官に近付き、へばりついたままの彼を、地面から剥がすべく、脇に手を通し、起き上げようとしていた。
気が付いたニコルが、ファットマンに問い掛けた。
「――ちょ、ちょっと待て。彼をどうする気だ?」
「お気になさらずに、聖ニコラス。司令官は大分お疲れの様ですし、我々が〝保護〟して置きますから……」
「馬鹿を言うな。告げるべき事は、まだ残っているんだぞ――」
太っちょの太った身体がぴたりと止まり、大量の脂肪を覆った皮膚が慣性で揺れた。
基地司令官が宙にぶら下がった姿勢になり、ニコルは近付き、彼に目を合わせた。
「告げる……と、言うか……、実は、……頼み事だったりするんだが……」
先程迄、文章を片手に多弁だった口が、非常に言い辛そうに動くのを見て、二人組は嫌な予感と不安を感じた。
ニコルは二人組の背中の向こうに向けて、大きく手招きをした。
トールボーイの巨体が避けると、其処には三太が立っていた。
ゆっくりと、遠慮がちに歩み寄って来る三太を指差し、ニコルは、遠慮がちに基地司令官に言った。
「実は、そのう、……これは多分、『文章』にも書いていない事かも知れないが、……あんたには、もうひとつ、未来への責任があるんだ。……いや、文章を読めば、あんたが関わるとは、記されているはずだ。それで生まれる結果も、当然書いてある――と、思う。……しかし、それがおこなわれる場所まで、書き記されているか、どうか……。もう調べるのも面倒臭いので、調べないが……兎に角、あんたに――いや、あんたで無ければ駄目だ。……是非、協力して欲しい。あの子を戦闘機に乗せて、その場所まで連れて行ってくれないか?」
「……協力? ……戦闘機? ……いったい、何処まで?」
二人組の目が丸くなった。
もう復帰は不可能と考えていた基地司令官が、動くはずもないと思っていた口を動かして、そう答えると、二人組は顔を合わせて驚いた。
彼等を尻目に、ニコルは三太に確認した。
「おい! あの娘が行き着く先は、どこだ!?」
「な、名古屋! 名古屋の病院だよ!」
耳慣れない言葉が、二人組の耳にも届いた。
ファットマンは首を傾げて、相棒に訊ねた。
「――今の日本語は? ……聴き取れたか?」
「いや、聴き取れなかった! 確実に聴こえたが、日本語だ――聴こえたって、我々には解らんはずじゃあないか! 聴こえたのは絶対に、何処かの地名だし、訓練コース上に無い事まで、完全に解ったが……それでも解らん! ――お前だって、そうだろう? これ以上の面倒は、もううんざりだ!」
大男は、大きな手の平で耳を塞ぐと、その場から立ち去り、先に基地の敷地内に向かって歩き始めた。
トールボーイを余所に、ニコルは構わず、頼み事を続けた。
「なぁ、お願いだ。――今夜はクリスマスだろう? 孫に贈り物を贈る予行練習として、特別に、あの子にプレゼントを授けてくれないか?」
基地司令官の視線が三太を捉えた。
いずれ出会う孫は、今見ている子供よりも、ずっと大人だろう。ならば、小さい子供に贈り物を授けるのも、これが最後だ。小さかった娘から比べると、何年ぶりだろう。
基地司令官は、すっかり冷静さを取り戻した頭で、そう考えながら、久しぶりに立ち上がった。
「……よかろう、協力しよう。――今日はクリスマスだ、何でも言ってくれ。何でも手伝おう、〝ミスター・サンタクロース〟」
基地司令官はそう言うと、辺りに残った大勢の兵士に合図をして、皆に基地に戻る様、指示を出した。
落とした銃を拾って、ぞろぞろと、敷地内へと歩き出す兵士達――まるでこれから、基地の中で楽しいパーティが待っているかのごとく、それぞれの顔は楽しそうに笑っていた。
その列に混じって、ニコルは三太を連れて、平然と基地の中へ入っていった。
ゲートに一人取り残されたファットマンは、基地司令官を起こそうとした姿勢のまま、孤独を味わっていた。――曲がった背筋を伸ばそうともせず、これから自分がやらなければならない大事を想像し、やがて生まれつきの言葉で、今夜に相応しくない台詞を呟いた。
「畜生、何がクリスマスだ! ……糞聖職者め!」