#26 ほんとうの現実
荷台が広くなったが、ほんの僅か。……相変わらず機材は積まれているし、相変わらず目の前の男は、相棒では無いが、背が高かった。
ファットマンは荷台に座り、目の前のニコルを眺めながら、相変わらずの狭さに耐えていた。しかし、この苦しみもやっと、……本当にやっと、終わろうとしている。相棒が、屋根で首を曲げながら運転するこの車は、あと僅かで基地に辿り着こうとしていた。
車の持ち主は、流石に携帯電話を貸してくれなかったので、連絡はおこなっていないが――あれだけ脅したんだ、基地司令官は兵に完全武装させ、自分達を待ち構えているに違いない。到着したらコーヒーをまた飲んで、輸送機を準備する。そして本来到着すべき国に戻って……その後は、二人組には関係が無かった。自分が受けた任務は、あくまでニコルを捕まえて無事に引き渡す事、その後の処分は、次に待つ〝連中〟の仕事であった。
逃亡したニコルを追いかけるのは、勿論任務の範囲で、手間取ったが、たいした苦労では無い。……本当に手間取ったが、今となっては、たいした苦労ではない。――と、思いたい。大丈夫だ。あの靴下に入っていた紙切れさえ届ければ、目の前の男は約束は守ると約束したんだ。こちらの思惑通り動いてくれると取引したんだ。だから、心配事は何も無い。――ファットマンは狭い空間で、何とか短い腕を動かして、短い指を交差させながら、目を瞑った顔の前で、両手をしっかり握り締めて切実に願った。
端から見ていると、まるで祈りだ。ニコルはそれを眺めて言った。
「お祈りかい? クリスマスの……」
気が付いたファットマンが目を開けた。
「あぁ、そうだよ。お祈りだよ。神様、イエス様……マリア様に、聖ヨハネ様……えーと、あと、何がある?」
飛び込んでくる風景を真横にして、トールボーイが答えた。
「聖バレンタイン……も居るよな」
余りにもいい加減な横槍に、ファットマンは突然声を荒げた。
「名前当てゲームをやってんじゃねぇぞ! バレンタインなんて、クリスマスには関係無ねぇじゃねぇか! 俺は真剣なんだ! 真剣に祈ってるんだよ! ……とにかく何でもいい。この際、バレンタインでも構うもんか。聖人には代わりはしねぇ。すがれるものなら、何にでもすがってやるさ。俺はクリスマスに、ガキにクリスマスプレゼントを届けてやらなくちゃならないんだ」ファットマンは言い放ち、太い手首に巻かれた支給品の腕時計に目をやった。「おい! もうクリスマスまで間も無ぇぞ! もっと早く飛ばせよ!」
「無茶を言うな。慣れない右ハンドルのうえに、左側通行なんだ。しかも道路まで左側に偏って見えている。制限速度だってあるし、民間の車を緊急車両の様に走らせられるもんか。……まぁ心配するな、これからは予定通りにいくんだ。予定通りに事が済めば、予定通りにクリスマスには家に帰れるさ。――なぁ、そうだろ、大佐殿?」
ニコルは、ファットマンに顔を合わせて笑顔を見せた。
「あぁ、そうだよ。あんたらはクリスマスに家に帰れる。約束したろ? 俺は、あんたらに従うって……」
笑顔に答えず、ファットマンは不審そうな視線だけを返した。
ニコルは呆れて舌打ちした。
「何なら、はっきりさせてやろう。『文章』……持ってるだろ?」
普段ならお互い、此処で顔を見合わせるのだろうが、狭いミニバンの中ではそうもいかなかった。……二人組は黙って、静かに続きを聞いた。
「あれには、あんたらの過去も未来も書いてあるんだ。今すぐ『文章』を渡してくれたら、今すぐ解読して、今すぐにでも、あんたらの確実な未来を教えてやる」
一瞬、ほんの一瞬、静けさが車内に舞い降りた。誰も気が付かなかった事に気が付いて、誰もが言葉を失っていた。
故に、次に発せられたのは言葉ではなく、運転席からの大男の吹き出す笑い声だった。
トールボーイにはニコルの提案が受けたらしく、大声で笑って、やっと言葉を口に出した。
「そう言えば、そうだった。確かに、我々の心配する未来ですら、あれには書いてあるんだった。……すっかり忘れていたよ。『灯台もと暗し』って奴だな。最初から大佐殿に訊けば、お前も焦る事も無かったんだよ」
話を振られたファットマンは相変わらす黙っていたが、なるほど、同意したのか、顔を緩ませて口の端を持ち上げ出した。その手は胸ポケットに――ニコルは、これから出てくる物を受け取るべく、合わせて笑顔を作り、手を差し出した。
いつの間にか、ファットマンの顔から笑みが消えいた。
抜かれた手に握られていたのは、『文章』の代わりに彼愛用の拳銃――銃口は、ニコルの額に向けられていた。
「ふざけるな。渡せる訳が無いだろ。今度ふざけたら、本当に撃ち殺すぞ」
困惑したニコルはトールボーイに助けを求め、視線を送った。
大男は見えるはずもない視線を感じ取って、相棒と同様、笑いをすっかり消し去らせて答えた。
「その通り。パーティは終わりだ。これから我々がやろうとしている事は、悪く言うと確実にやらせだが、もし仮に、口裏を合わせたやらせだとしても、何百年も続く『文章』が絡んだ、史上最大のやらせなんだ。真剣にやって貰わないと困る。……解ったか、大佐殿」
長く軍隊に潜んで居るが、空軍だったせいもあり、長い人生で銃を突きつけられたのは、ニコルはこれが初めてだった。
だからと言って、ミサイルにロックオンされた経験すらも無く、実のところ平穏な軍隊生活。むしろ逃げ込むまでと、逃げ出した今の方が、『文章』のお陰でエキサイティングだったかもしれない。
ニコルは緊張して唾を飲み込み、脂汗を額から湧き出させ、何度も無言で頷いた。
「見えたぞ」
トールボーイは視界の左側に小さく光る、普段より煌々と灯りを点した基地施設を見付けると、長い足でアクセルを踏み付けた。「まるでクリスマスツリーだ。――大佐殿、あんたにもそう見えるだろ? 本当のクリスマスパーティは、これから始まるんだ」
ニコルは、大男の頭が邪魔をして見えるはずも無い風景を、まるで見たかの様に、太っちょの向ける銃口を見詰めたまま、何度も無言で頷いた。