#20 トラブルの始まり
基地の街に生まれたので、生まれながらにして外国人は珍しくは無かった。
物心というものが、果たして何時芽生えるのか知らないが、記憶にある一番古い思い出は、まだ飾り付けをしていた小さなクリスマスツリーと、クリスマスに訪ねてきた外国人の老夫婦だった。勿論、夫婦はサンタクロースには程遠く、持ってきた物もプレゼントでは無かった。老夫婦と、その手土産を前にして、母親が終始泣いていたのを覚えている。
老夫婦の土産はたいして数も無く、そのすべてが子供心にも薄汚れて見えて、その中のたった一枚の薄汚い紙切れを、震える手で握り締めた母親の頬には、何度も何度も涙が伝って、紙切れを更に汚したと記憶している。
成長し、節目節目に思い返してみると、老夫婦の土産は恐らく父親の遺品で、薄汚れた紙切れは、多分遺書か何かだったのだろう。持ち主が遭難して数年経ち、誰かが残された持ち物を発見して、どんな経緯を経てかは知らないが、恐らく多分、遺族の我々の元に届けてくれた物なのだろう。
しかしそれが、親切か、迷惑かは複雑だった。
余程辛い事実が書いてあったのだろうか、母親は遺書と思われる紙切れを、自分には見せないでいた。紙切れの存在を確認したのも、今では確信の無い、うろ覚えの記憶の最初の方だったし、ひょっとするとあれは思い過ごしで、実際は存在すらしていないのかも知れない。受け取った遺品は居間の仏壇の下にしまってあり、三太は何度も母親の目を盗んではそれらを取り出して、何を求めるでも無く只眺めていた。あの印象の中に消えた紙切れは現実の此処でも消えていた。
見付からないそれは、あったとしても母親が、余りの悲しみに耐え切れずに捨ててしまったのだろうか? 遺書だったとすれば、それは父親の残した唯一の言葉である。探してみたくもなったが、遺品の汚れは不気味に見えて、三太は今迄、文字としても父親の声を聴かずに今に至った。
以来、三太の家には静寂こそが、まるで父親の立場で居座り続けていた。
お陰で帰宅しても物音すらしない。
やはり誰も帰って居なく、此処暫くは同じ風景、既に見慣れた光景だったが、昨日から今日にかけてやたらと騒がしかったので、三太はいつになく寂しく感じた。
しかし今夜だけは、いつもと違う。
三太は洋子との約束の時間を心待ちにし、帰宅するとすぐに荷物を片付け、居間に降りて、早く時が過ぎないかと、馬鹿みたいに時計を眺め続けていた。
その際、否が応でも視界に割り込んで来るのは、大時計の隣の父親のパネル――目が合うと、思い出したくなくても、数時間前の出来事が頭を過ぎる。
ふと三太は、ニコルとの会話を思い出した。
目の前で黙する父親は、三太が将来に希望を持てなくなった原因の張本人。……しかし三太は、まだ夢に破れた訳では無い。夢に破れたのは三太が見詰める彼だ。――写真でも構わない。もし彼が口を開くのなら、今こそ三太は訊きたかった。夢が破れた瞬間、雪山でもう助からないと解った時の絶望を……。日本に残してきた母親のお腹には自分が居て、父親もそれを知りつつ絶命する間際、血を分けた息子に会う事も出来ないと理解した瞬間、彼はどんな気持ちだったのだろう?
今、父親が生きていれば……、もしくは思い返した遺書の件ではないが、彼の言葉を目にしていたなら、今の自分は、そして未来の自分はどんなだったろう?
――問い掛けたところで、静寂しか、三太の耳には聴こえてこなかった。
やはり恐ろしかったのだろうか? 三太がそれを父親から直接聞く事は、恐らく永遠に無いが、想像をしただけでも、三太は恐ろしくて仕方なかった。……彼は、将来に希望が持てないのでは無かった、只、夢が破れる瞬間が訪れるのが、恐ろしくて仕方無かったのだ。
すると三太は、今度は洋子を思い出した。
彼女は自分より立場が悪く、何か病気を抱えている。しかも、その為に転向する程だ。余程悪ければ、彼女には将来すら訪れないかもしれないのに、恐ろしく無いのだろうか? なぜそれ程までに将来の夢に希望が持てるのか?
考えると、居ても立っても居られなくなり、三太はすぐにでも洋子に会いたくなった。
今夜にふさわしく無い話題かも知れないが、訊いてみたい。ひょっとすると、彼女の答えによっては、自分の恐れは消えるかも知れない。
保証など何もないが、三太はどうしても知りたかった。
強い意志で夢を口にする洋子の様に、本当は自分もなりたかった。高い所が恐い自分や、父親を言い訳にして臆病になっている自分を、簡単に否定出来る程の、強く望む夢が欲しかった。
……いや、夢はあった。三太は本当に、パイロットになりたかった。そんな自分に邪魔をされないのなら、心の底から自由に空を飛びたかったのだ。
結論が出た時、三太は居間の隅にある電話機の前まで移動した。
約束があるのだから、待っていれば会えるのだが、三太は電話を掛け、洋子に催促しようと思い付いた。準備やら何やら忙しくて迷惑かも知れないが、断られたら断られたで仕方が無い。その時は最初の予定通り待てば良いのだ。三太は受話器に手を伸ばした。
すると突然、電話機のベルが、けたたましく鳴った。
少し驚いたが、伸ばしていた手で電話機を取り、三太は冷静に応対した。
なんと相手は、偶然にも洋子だった。
「さ、三太くん……?」
それはすぐにでも解った。電話の向こうで聞き慣れた洋子の声が、耳慣れない口調で震えていた。
三太は、洋子の具合がまた悪くなったのを察した。
「ど、ど、……どうしたの? 大丈夫?」
「う……うん。……あのね、三太くん、ごめんね。今夜の約束なんだけど……」
ついさっき迄、あれ程洋子に会おうとしていたにも関わらず、苦しそうな彼女の声を聴いてすべてを理解し、三太は素早く返事をした。
「あ、あ、いいよ。クリスマス・パーティの事でしょ? 僕はいいから、無理しないで……。それより、身体、大丈夫なの?」
「う、ん……これから、病院に行ってくる……」
「びょ、病院!? ……あ、あ、まさか、前に言ってた名古屋の!?」
「違うよ、駅前の市民病院……。其処で看て貰うだけだから……」
取り敢えず、三太は安堵した。
幾ら今日会えなくとも、名古屋で無ければ、まだ会う時間はある。本当は今日会いたかったが、苦しそうな彼女に対して我を通す程、自分は――ニコルには、さんざ子共と言われたが――子供では無い。
三太が気を使い、言葉を掛けようとすると、受話器の向こうから大きく、何かがぶつかる音が聴こえてきた。
三太は驚いて、洋子を呼んだ。
「もしもし! 大丈夫! ねぇ!!」
受話器の向こうでも、遠くから彼女を呼ぶ声がした。洋子の母親の声だ。
やがてその声は、けたたましい足音と共に近付いて、受話器に幾つかの雑音を与え、電話を切った。
三太の顔から血の気が引けた。
暫く呆然と立ち尽くすと、三太は慌てて居間を後し、玄関へと駆け出した。