#15 少年
朝、目を覚ますと、追い出そうと思っていた大男が、居なくなっていた。
あの後、とにかく早く追い出そうと、母親に見つからない様に一階の茶の間、仏壇まで父親の靴下を取りに行き、戻って与えたが、彼はそれを履きもせず、コートのポケットに突っ込んで、相変わらず部屋の隅に蹲っていた。
どうすれば良いのかと、ニコルを眺めて思案するうちに、三太はそのまま眠ってしまった。
朝目を覚まして夢だったのかと思い、部屋の中を見ると、サンタクロースの置物が、壊れた戦闘機の中に突っ込んで棚から足を出していた。
やはり現実だったのか。今日で二学期が終わるのに、しかも今日はクリスマス・イブなのに……。三太の気分は朝から最悪だった。
しかしクリスマスイブ・イブだからといっても、三太にとっては何も喜ぶべき事は無かった。
学校へ行っても今日一日の同級生の話題は、冬休みに家族で父親の実家に行ってくるとか、通知票を貰っても、こんな成績では親に怒られる、お年玉が減ってしまうとかばかり。あげくには今夜から明日へ掛けてのメインイベント、クリスマスプレゼントに何を貰うか――そんな話に終始していて、三太は話を振られる度に、答えに困って無口になっていた。
別にプレゼントは、皆と同じにゲーム機が欲しいのだが貰えないなどという、そんなものでは無い。ゲーム機なら既に最新のを持っているし、今までのクリスマスも母親から、戦闘機のゲームソフトや模型を山程買って貰っていた。では何故、こんなにもクリスマスや年末年始の話題が嫌なのか。本当は三太にも漠然と理由が解っていたが、あえて考えるのはもっと嫌だったので、只時間が過ぎて、このまま二学期が無事に終わるのを待った。
誰とも殆ど何も会話をしないまま、昼を迎え、やっと学校が終わると、誰とも挨拶すらしないまま、まるで逃げる様に三太は学校を後にした。
校庭のジャングルジムで、数人の生徒が飽きもせず登頂記録を争っていたが、三太は目もくれず、一目散に学校を離れた。
登校時は離着陸が多くなるので基地のフェンス沿い、下校は本屋やゲームショップ、模型店が並ぶ商店街を抜ける道筋が、普段の三太の通学経路だったが、この日は避けて別の道を通った。クリスマスの喧噪は、今日の三太には辛かったのだ。昨日のニコルではないが、街に増殖するサンタクロースから逃れる為、三太は滅多に使わない用水路沿いの道を通った。
人通りが少ない道を通ると、寂しくはあるが、余計な気遣いをしなくて済む。特に今日は、こんな道の方が落ち着く。三太は見慣れない風景を眺めながら歩いた。
すると行く先に、見慣れない物が見えてきた。
一瞬解らなかったが、近付いてみると、それが道に蹲った女の子であると解った。
三太は近付かなくとも、それが洋子であると理解し、慌てて駆け寄った。
「――ど、どうしたの? 大丈夫!?」
覗き込んだ洋子の顔は恐ろしい程真っ青で、三太は恐ろしくなって一歩引いた。
「ど、ど、ど……どうしよう!」
辺りを見回すも、なにせ人気のない道なので、誰の姿も見当たらない。
三太が困っていると、洋子は苦しそうにしながらも言った。
「薬――ランドセルの中に、薬が入ってるから……」
「え、薬があるの? ……ど、どこ?」
三太は言われた通り、洋子のランドセルを開けて手を突っ込み、薬を探した。
幸い、明らかに薬の入った瓶と解るサイズの、ポリ容器が一発で手に当たったので、三太は急いで取り出して確認した。
「――あ、あった! これだ!」
しかし水が無い。
三太は次に水を探した。
隣を見るとフェンスの向こうは用水路。……だからといって掬うのは手間だし、だいいち病人でなくとも飲めた代物では無い。近くに公園でも無いものか……。三太は焦った。
その時、目の前で靴下が揺れた。しかも片方だけ。見覚えのあるそれには中に何か重い物が入っているらしく、左右に大きく揺れる度に液体の波打つ音が聴こえた。
三太が顔を上げると、そこにはニコルが立っていた。
「あーっ! お前ー!!」
叫ぶ三太に目もくれず、ニコルは靴下から水の入ったペットボトルを取り出して、洋子に手渡そうとした。
「大丈夫なのか?」
「だ、だ、大丈夫。……それより、三太くん、早く、薬を……」
ニコルに気を取られていた三太が、やっと気が付いて慌てて薬瓶を手渡すと、洋子は手慣れた手付きで蓋を開け、一錠だけ舌に乗せて口に含んだ。
青かった顔に血の気が戻ってくると、洋子は落ち着いて息を深く吸い込み、思い切り吐き出した。
「あ、ありがとう。死んじゃうかと思った。あとね、これ、水いらないんだよ」
三太とニコルは面食らい、お互い顔を合わせた。もういらなくなったペットボトルを三太に渡し、三太も自然とそれを受け取って一口頂いた。そして気持ちが落ち着くと三太は思い出した様に、ニコルを指差して叫んだ。
「あーっ! お、お前、日本語喋れるんじゃないかよー!」
「父親に教わった。でも父親以外と日本語を話すのは、今日が初めてだ」
とても聞き取りやすい流暢な日本語が、三太の耳に入ってきた。
それを聴いて、また三太が叫んだ。
「じゃあ、昨日は何で喋れない振りしてたんだよー!」
「……寒くて、髭が凍り付いて、口の周りが固まって、動かせなかったんだ」
「何だ、それ!? ふざけんな! ……それと、それ! 靴下! せっかくやったんだから、ちゃんと履けよ!」
「こんな小さいの、入らない」
相変わらずスリッパだけの素足を、ニコルは持ち上げて見せた。
裏から見て初めて解ったが、大きな踵が完璧にはみ出していた。三太は呆れて顔を覆った。
きょとんとして静観していた洋子が、質問してきた。
「三太くん、この人、三太くんのお友達?」
「違うよ! こんなの友達でも何でもないよ! 昨日、うちの庭で拾って……!」
「……拾って? やだ、猫みたい」
「そう! 最初デカい猫だと思って、降りて行って見てみたら、こいつで――」
洋子が突然前屈みになり、苦しそうに肩を振るわせた。
三太は――昨日聞いた、何かの病気のせいで――また発作が起こったのかと驚いた。
「大丈夫?」と手を置こうとする三太より早く、洋子は真っ赤になった顔を上げて、元気良く大きな声で笑い出した。
「あははっ! ……可笑しい! やめてよ、また苦しくなっちゃう!」
洋子は腹を抱え、三太は胸を撫で下ろした。
ニコルは猫の鳴き真似をして、更に洋子を笑わせた。心配した三太はニコルを制止した。
「おい、やめろよ。また苦しくなったら、どうするんだよ!」
「――だ、大丈夫だって。薬も飲んだし……。それより、二人のお陰で、助かったわ」
「二人って……こいつ、何にもしてないじゃん」
三太は不満気にニコルを指差した。
「そんな事無いよ。笑ったせいで楽になったもの」
「本当? 本当に大丈夫なの?」
「えぇ、最近毎日、こんな調子だけど……」洋子は目に溜まった涙を拭いながら言った。「でも大丈夫、このくらいじゃ死なないわ。――三太くんは、私が死んだら悲しい?」
心臓が縮まり、鼓動が激しくなってゆく三太の顔は、洋子と違って青ざめるどころか、逆に真っ赤になっていった。
三太は照れ臭そうに否定した。
「――か、悲しいとか、そんなんじゃなくて! し、死ぬとか言うなよ! 人はそんな簡単に死なないんだから!」
「俺は昨日、死にそうになった」
タイミング良くニコルの言葉が入り、洋子がまた笑った。
三太は笑うどころか、むしろ冷めた目でニコルを見た。
「わ、私もよ――」洋子は笑いながら言った。「私もさっき、死にそうになるくらい苦しかった。けど――そうだね、三太くんの言う通り、人はそんなに簡単に死なないよね。それに、私は看護師さんになるんだもの。だから、今は絶対に死なないわ。……だって将来は私が逆に、死にそうな人達を助けなきゃいけないんだもの」
「きっと、なれるさ」ニコルは言った。「強く信じれば、必ず叶う。今は存在していなくても、それが信じられれば、いつか必ず見えてくる。だから、強く信じているという〝現実〟があれば、それはもう〝夢〟じゃないんだ」
ふと三太の頭に、昨日ニコルと出会う寸前まで見ていた夢が思い出された。確かめられなかった機種――恐らくはハリアーのコックピットに座っていたサンタクロースが言った言葉と、ニコルのそれは逆の言い方だが、意味は一緒だった。
しかし三太には、どちらも信じられなかった。三太にとっては、どちらも胡散臭いし、高所恐怖症の自分がパイロットになれるなんて、絶対に信じられなかった。現実が甘くは無いのは、子供ながらに理解しているつもりだし、またそう思うようになったきっかけも、三太には――決して口には出さないが――あった。
三太は、より冷めた目でニコルを眺めた。簡単に夢が叶うなどと言う、訳の解らない外人の言う事など、心の底から決して信用しなかった。
「――ねぇ、三太くん、聞いてる?」
突然、洋子が声をかけてきた。三太が色々考えているうちに、どうやら何か質問したらしい。
三太は申し訳なさそうに謝り、訊き返した。
「ごめん、聞いてなかった。……何?」
「あのね、三太くん、今夜どうしてるの?」
「どうしてる、って? 別に……」
それ以上、答えようが無かった。別にクリスマス・イブだからといって、今夜に限って母親が早く帰ってくる訳でも無く、他の家庭みたくパーティーをやる予定も無い。自分の所は他の家庭とは違うのだ。
三太が困っているのを察したのか、洋子は、彼の聞き逃した台詞を、もう一度口にした。
「もし、良かったら、……さっき助けてくれたお礼っていう訳でも無いんだけど、……うちのクリスマス・パーティーに来ない。お父さんも、お母さんも、引っ越す前に友達を呼んでおきなさい、って……」
少しうつむき加減に話す洋子は、どことなく恥ずかしそうだった。
その理由が察し良く解るには、三太はまだまだ子供だった。しかし――決して口には出さないが――自分が洋子を好きなのは明白で、好きな女の子の誘いがうれしいのは、子供でも同じだ。だが素直に喜ばないのが子供である。
三太は心と裏腹に、迷惑そうな表情を懸命に作り、引きつった顔で返答した。
「えぇー、いいよー、遠慮するよー。……だって、クラスの女子とか呼んでるんでしょ? だったら嫌だなー」
洋子は首を横に振った。
「ううん。……最初はね、呼ぼうと思ったんだけど、それをしちゃうと、引っ越しの時に辛くなっちゃうと思ったから、誰も呼んでないの。それに両親は、一番大切なお友達と過ごしなさい、って言ってたから……」
三太の心臓のピッチが急に上がった。
自分がジェット戦闘機なら、あの最悪の夢とは違って、今にでも、この大空に飛んでいくだろう。高所恐怖症も、たった今なら克服出来る錯覚すらする。それだけ洋子との会話は彼の気持ちを高揚させた。いつもいつも、これでは心臓に悪い……ひょっとして、何か病気を持っているのは自分の方なのではないか?
三太は、今にも飛び出しそうになるくらい吹かされたエンジンを無理矢理飲み込むと、舞い上がった頭で、どう答えたら良いか、必死になって考え出した。
取り敢えず、やたらと乾く喉を潤し、口の滑りを滑らかにしようと、相変わらず手に持ったペットボトルの水を、勢い良く飲み出した。
「俺はもう、オーケーしたぞ」
突然のニコルの横槍に、三太は心臓が突かれるくらい驚いて、含んだ水を吐き出した。気管に入った水滴が、三太のしゃべりを邪魔したが、それどころでは無いと、彼は咳き込みながらも叫んだ。
「な、な、な、何で、お前が、オーケーしてるんだよ!!」
「助けてくれたお礼だって……」
「だから、お前は何もしてないだろ! この水だって、どっから持って来たのか知らないけど、結局は僕が飲んでるだけじゃ――」ふと三太は口を止め、見るからに一文無しのニコルを見ながら、気が付いた事を口にした。「お前、この水買ったのか? どっから持ってきたんだよ?」
ニコルの大きな指が、脇の用水路を指差した。
三太は目を丸くして驚き、咄嗟に地面に跪くと、飲んでしまった水を吐き出そうと何度も嗚咽を繰り返した。
「――大丈夫。日本の水は、とても綺麗だ」
ニコルの言葉に、洋子はまた腹を抱えて陽気に笑い出した。