#14 恐ろしい事
「私も、私のお祖父さんも、そのまたお祖父さんも……ずっとこの紙を守ってきた。そしてお前も、いずれはこの紙を守るんだよ」
真っ白い髭を顔中に生やした老人は、一枚の薄汚い紙切れを手にして言った。
さっきまで涙を流していた少年は隣に座り、真っ赤になった目を擦り、垂れていた鼻水を啜り、話を聞こうと幼い子供なりに努力をしていた。しかし量は少なくなったものの、やはり涙は止まらず、僅かながらも溢れて来る。少年はその度に、着ている黒い上着の袖で涙を拭った。
老人はそんな少年の姿を見て、優しく微笑んだ。
「可愛い孫よ、お前はまだ小さいのに、この紙の意味が解るんだね。悲しいのに……悲しくて悲しくて仕方無いのに、私の話を聞かなければいけないと頑張っている。愛おしい孫よ、お前はやはり我が家系を継ぐ者だ。そして家系を継ぐ者は、この先もずっと、この紙を守って行かなければならない。これから教える読み方、解き方を決して他人には漏らしてはならない。そして国の王様であろうと、町で暮らす普通の人であろうと、その内容を一切伝えてはいけない。……いいね?」
少年は赤くなった鼻を啜り、頷いた。
すると前に居た、より真っ赤な鼻を持つ、眼帯で片眼を覆った中年の執事が幾度と無く咳き込み、口を押さえた。
老人は心配して、赤い鼻の執事に声をかけた。
「大丈夫か?」
「……お気遣い、ありがとうございます。どうぞお気になさらずに、お話を続けて下さい」
「いや、まだ時間はある。それより、もうそろそろ……」
「えぇ。ここを曲がれば……」
老人と少年を乗せた黒塗りの車は、人気の無い森の中へと入っていった。
執事は車を少し走らせて森を抜けると、静かにブレーキを踏んだ。
「着きました」
そう言うと執事は直ちに運転席から降りて、老人と少年が座る後部座席へと向かった。
やがて外から扉が開くと、二人の頬に冷たく湿った外気が触れた。
老人は少年の背中を優しく押した。
「さぁ、お母さんに会いに行っておいで」
夜が明けて間もなくだったので、まだ朝靄が立ち籠めていた。目の前には教会に似た古臭い建物が建っていて、その脇にぽつりぽつりと石碑が立っている。
うっすらとでも、それが目に映った少年は、車から降りると一人でそちらへ走って行った。
霧の中に消えていく少年の後ろ姿を見送ると、執事は赤い鼻を震わせて言った。
「恐ろしくは、ないのですかね?」
「恐ろしくはないさ。彼は何度も此処に来ているし、此処に眠るは皆彼の先祖だ。私もいずれは、此処で……」
「恐ろしくは、ないのですか?」執事はまた赤い鼻を震わせて、同じ言葉で別の質問をした。「『文章』が読める事で、自分の未来が見えてしまうのは――。自分の死の瞬間まで、はっきりと……」
やがて少年の姿が見えなくなると、老人は静かに呟いた。
「それが我が家系の宿命だ。何百年も前から、此処に眠るすべての人間が経験してきた事だ」
執事は鼻を震わす代わりに、咳き込んだ。今度は酷く、ずれる眼帯を押さえながら苦しそうに身体を揺らした。
「大丈夫か?」
「え、えぇ――大丈夫ですよ。私には文章は読めませんが、自分の先行きくらい目に見えています」執事は眼帯を元の位置に戻しながら言った。「それに……先日やっと、遅咲きながら、息子が生まれました。これでもう、私が居なくなっても大丈夫です。坊ちゃまには、息子が仕えるでしょう。私も、死んだ先祖達への義務をやっと果たし、これでいつでも彼等の仲間入りが出来るってもんです」
「よしてくれ、お前はまだまだ――」
執事の震える手が遮った。
「旦那様こそ、およしになって下さい。文章を守る家系は、容易に人に、人の未来を語ってはならないのです」そして執事は未だ咳き込みながらも、執事としての威厳を保とうと背筋を伸ばした。
「人間は弱いものです。一国の王でなくとも、誰だって自分の未来を知って、それが望むべきものでなければ、足掻いてでも変えようとする。しかし、それで変わるのは自分の未来だけではありません。自分に関わる人々の未来まで……。本来は関わるべき人々が沢山居るのに、自分の未来が変わったばかりに出会えずに、生み出すべきものも生み出されなくなる。つまりは、すべての人間の未来が変わってしまうのですよ。それはとても恐ろしい事です。それを坊ちゃまに、これからお教えしなければ、ならないのではありませんか」
「そうか、そうだったな……」
ぽつりぽつりと雨が降ってきた。
執事は車から傘を出して、少年を迎えに行こうとした。
今度は老人の手が、それを遮った。
「二人きりにさせてあげよう。あの子はいずれ帰ってくる。帰ってきたら、お前が今、私に思い返させてくれた事を、あの子にも伝えてあげよう」
そして二人は小雨の中、母親の眠る墓を見舞う少年の帰りを、只々待ち続けた。
少年が老人の元へ帰って来るのは、この時が最後だった。
数年後、自分の様な子供を産んだせいで一族に疎まれた母親が、ついには自殺した事を知ると、少年は可愛がってくれた老人の元ですら、二度と帰らなかった。
ケニー・ニコルはそれ以来、自分が少年だった頃の嫌な思い出を、夢の中で何度も思い出し続けた。