#11 脱走兵
「〝ケニー・ニコル〟――本名は別にある。只、やたらと長たらしいせいもあり、我々……アメリカ人が発音しにくいんで、適当に略して呼んでいるだけだ」
オフィスの端にあるファックス機が声をあげた。基地司令官に告げる相棒のセリフに、不審な顔で聞き耳を立てていたファットマンは、真横のマシンの唸りに気が付いて排出された紙を手に取った。それを見た彼の顔は益々不審になっていった。
「届いたか? 持って来いよ」
相棒の呼びかけにファットマンは渋々近寄り、一枚の紙を手渡した。
「これ、見せるのか?」
「見せるよ。こんなの重要機密でもなんでもない、探せば誰でも見れる公式資料だ」
渡された紙を素通りさせ、トールボーイは基地司令官に手渡した。
「さぁ、これがケニー・ニコルだ」
基地司令官は胸ポケットに入れていた老眼鏡を掛けて、はっきりと見える様になった目で内容を見た。
其処には無精髭の一本も無い制服姿の青年が、帽子を真っ直ぐに被り、白黒でも解る色素の薄い眼をしっかりとこちらに向けていた。――精悍な出で立ちは、部下達から聞いて想像していたケニー・ニコルとは明らかに違っていた。ネクタイをキツく締め、汚れひとつ無い真っ白なシャツ、上着の記章は見た事もない階級章と部隊章を着けている。身長や体重が自分達と違い、フィートやポンドで無く、メートルやキログラムで表してあるところや、紙の一番端にうっすらと北大西洋条約機構《NATO》の刻印が写っている事から、ヨーロッパの同盟国の軍人であるのだけは理解出来たが、写真の真下の名前が読めない。
基地司令官は口を尖らせて無理矢理読もうとした。
「ケ、ケ……ヨ……何と読むんだ、これは? 素直に発音すれば良いのかね?」
トールボーイは地面を指した。
「北欧の言葉に、途中でこの国の言葉が混じっているから、読み難いんだ」
「この国? 日本かね?」
「父親は日本人……だが、この国に降りたのは偶然だ。奴に土地勘は無い。この国に来たのも初めてだ。知っての通り、奴を乗せた輸送機が、日本海で乱気流に見舞われて緊急着陸しただけだ。本当はもうちょっと先の国に搬送されるはずだったんだが……お陰で随分と慌てたよ、あんたらと一緒さ。思えばあれが、トラブルの発端だったんだな」
「この写真、制服を着ているが……何処かの国の軍人なのかね?」
「母親はフィンランド人。奴は日本人とのハーフで、フィンランド国籍を有するフィンランド空軍の大佐だ」
「フィンランド空軍? 同盟国の中で一番精鋭の揃った、一番誇り高い歴史を持つ栄光の空軍じゃあないか。第二次世界大戦の時は、数少ない寄せ集めのオンボロ機で、ナチの最新鋭機を次々と撃墜しまくったという逸話まである……。そんな身分のはっきりした立派な人物が、何で私の基地から逃げ出したりしたんだ?」
「我々に捕まりたくなかったからさ」トールボーイはファットマンと顔を合わせ、含み笑いをした。「奴は誰かに支配されたり、何処かに属するのを極端に嫌っている。奴の父親――日本人は、名前も記録に残っていない風来坊で、世界中を旅する途中でフィンランド娘とできちまって、奴が生まれた訳だ。『文章』を解読した開祖より何百年もの間、純系の血だけで『文章』を守ってきた家系に、余所の、名も無き、いい加減な東洋人の血が混じった事で、一族は大慌て……。奴も生まれながらにして、疎まれていたうえ、風来坊の父親の血のせいもあるんだろ、本来家系が守るべき『文章』にすら、自分を縛られたくなくなったのさ。自分を疎み続けて来た家系が守るべき『文章』を、逆に疎み、否定し続けているんだ。自分の出生にすら、そんなコンプレックスを持った人間が、他人の我々の思惑に、素直に従ってくれないのは当然だ」
「しかし、彼は軍属だろう? 自分が言うのも何だが、軍隊こそ自分の意見より組織の命令……ある意味、世界で一番自由が利かない場所だ。そんな人間が何故軍隊に? 矛盾していないかね? それに〝家系〟だ。何百年も文章を守り続けていた家系なら、その血を受け継ぐ者は沢山居るだろうし、彼以外にも文章が読めて解ける人間は居るだろう? 別に彼に固執しなくとも……」
また二人組が顔を見合わせた。
しかし今度は笑いもせず、真剣に、何を注意して次に言うべきかを、無言で相談している様だった。
少しの沈黙が過ぎ、今までニコルについて漏らしたがらなかったファットマンが、観念した様な溜息を吐き、珍しく最初に口を開いた。
「家系が途絶えたんです」
「奴の母親は、奴が幼い頃に既に亡くなっている。奴の父親は……風来坊なんでね、現在行方知れずだ。まぁ元々血を受け継がない人間なので、文章とは関係ないが……。そんな状況で、奴は奴の祖父に育てられ、文章の読み方や解き方を教わった。奴以外に、唯一文章を解読出来たその祖父も、先日他界しちまったんだ。実はその時、誰もケニー・ニコルの存在に気が付かず、家系は途絶えたかに見えた。――盲点だったんだよ、軍隊は。奴は文章から遠ざかる為、また自分の存在をくらます為、成人するとすぐにフィンランド空軍に入隊したんだ。それで今の今迄、奴の存在は軍隊の、ぶ厚い壁の向こうに隠されて来たんだ」
唖然とし、声も出なくなった基地司令官は口を動かそうと努力するも、なかなか一向に言葉が出なくなっていた。まさか軍隊を隠れ蓑に使うなんて、本当に盲点だ。賢いという尊敬の念も生まれたが、空軍基地を任される組織の長として、許せない気持ちもあった。
やがて何とか言葉が出てくる様になると、基地司令官は新たな、そして考えても答えの出てこない疑問をぶつけてみた。
「……で、では何故、今更になって、彼の存在を知る事が出来たんだ?」
トールボーイは不敵な笑みを浮かべた。
まるで勝ち誇ったその顔は、基地司令官では無く、ここに居るはずのないニコルに向けたものだった。
「内部告発があったんだよ。……ほら、奴と一緒に来たパイロットが居るだろ?」
「あぁ、あの分厚い眼鏡をかけた、赤い鼻の……」
「実は、あいつもフィンランド空軍の人間で、ケニー・ニコルの直属の部下だ。母国では英雄扱いのエース・パイロットらしいぜ。……そんな英雄様が、上官を売ってきたんだ。――ケニー・ニコルの祖父は死ぬ直前に、文章を孫が一番信頼する部下に託した。しかし祖父が死んだ直後、その部下は、文章の存在に――噂でも知ろうが知るまいが――興味を持ちそうな各国の実力者、首脳陣に片っ端から電話を掛けまくったのさ」
ずり落ちた老眼鏡の上で、基地司令官の目が丸くなっていた。やっと開いた口を逆の意味で大きく開き、驚いたのか、呆れたのか、それ以上の言葉は一切出なくなっていた。
トールボーイはまた笑って、確実に呆れた顔で言葉を追加した。
「しかも全部、国際電話の先方払いで……。我が国の場合、大統領は最初は悪戯電話だと思って、しつこく掛かってくるのを何度も切っていたらしい」
後ろで聞いていたファットマンは、敬意を含んだ真剣な表情で、何度も頷いた。
「一国の長として、実に正しい判断だよ」