#10 鍵《キー》
「……基地の人?」
ライトに照らされたカーキ色のコートに記章は一切無い。しかしそれがカーキ色であるのは三太にも解ったし、何よりも栗毛色の髭を生やした大きな外国人が、それを着てうずくまっていたので、三太は咄嗟にこう質問した。
返事は無く、ニコルは相変わらず眩しそうに、青く染まった両目に突き刺さる光線を、手で塞ごうとしていた。
「あ、ごめん」三太は懐中電灯を地面に向けた。
眩しさが消えると、今度は何やら不審そうに、三太を覗く顔――不審に思っているのは実はこっちで、本当は大声を出して驚いたって良いのに……と考えながら、相手に解る様、三太は言葉を言い換えた。
「基地……ベース、ベースから来たの?」
地面と水平に広げた三太の手の平が、広大な基地の敷地を表そうと横に往復した。
それを見てニコルは不思議そうに首を傾げた。
「ベースだよ、ベースキャンプ、ヨコタ……ったく、解んないのかなぁ」
寒空に指が一本立った。ニコルは真っ直ぐと空を指差した。
つられて三太も首を上へと曲げた。其処には吸い込まれそうになるくらいの、輝く星々を散りばめた宇宙があった。
「わぁ……!」
思わず声をあげてしまう程、星は満ち溢れていた。
そのひとつひとつは、それぞれ違う明るさ、別の色で輝いていた。パイロットになりたい三太はいつも空を眺めていたが、いつも眺めるは昼間――蒼穹の空に描かれるジェット雲を追い掛け、憧れる気持ちを、その空に馳せていた。夜空など眺める事のない三太にとって、改めて見る冬の寒空、澄んだ空気に透ける恒星の灯火は、生まれて初めて見る感動だった。
暫く眺めていた三太だが、ふと何かに気が付くと、ゆっくりとニコルに首を戻した。
「まさか、あそこ――宇宙から来たの?」
言葉が通じなくとも、三太の過度な期待と不安が入り交じった顔は、ニコルにも何を言っているのかが伝わった様で、呆れた顔で彼は指を引っ込め、手の平全体で何かの形を作り始めた。
非常に解り難かったが、どうやら飛行機を表しているらしく、口から発せられるジェットエンジンを真似た音で、やっとそれがジェット機だと解った。そして世界一みすぼらしいジェット機は、もう一方の手の平で作った、世界一整地されていないデコボコの手の甲の滑走路に着陸した。
三太が何であるかを理解すると、貯めていた期待と不安を溜息と共に吐き出し、言った。
「なーんだ、やっぱり基地から来たんだ。それ、馬鹿デカい旅客機とかじゃなく、もっと小さな空軍の戦闘機のつもりでしょ?」
ニコルを少しでも宇宙人と勘違いした自分を恥じると、三太は相手が普通の人間である事に安心した。……が、落ち着いた今、冷静になった三太の頭は、すぐに別の不安を思い付いた。
「……ひょっとして、脱走兵?」
三太も同様に両手を使い、ニコルの動作を真似してみせた。
「これ、ジェット機でしょ? ……それで、これがベース、ベースね」
やはり不細工な、文字通り手作りの戦闘機が小さな空を舞う度に、ニコルはやっと理解者を得た安心感を顔に出し、笑顔で頷いた。
三太は戦闘機を着陸させると、その手で二本足を作り、手製の兵隊を基地から脱走させた。
ニコルは何度も頷いた。
只でさえ、寒さで凍て付く三太の顔が青くなっていった。
「やべぇ……こいつ、本当に脱走してきたんだ」
愕然とする三太とは対照的に、ニコルは笑い続けていた。その余裕はとても脱走兵には見えなかったが、もし本当に脱走兵なら、三太にはどうする事も出来ない。思いつくのは、素直に翌日警察に通報して、後は警察が基地の憲兵《MP》を連れて来ておしまい……しかし、それまでこの大男をどうするかは、三太には見当も付かなかった。
とりあえず、此処でこうしていても只寒いだけなので、三太は部屋へ戻ろうと考えた。しかし大男をどうする? 彼を見てみると、当然自分より長く外に居たのであろう、大きな身体を小刻みに揺らし、とても寒そうに震えていた。
仕方が無いと三太は思い、ニコルに向かって手招きをした。
「おいでよ、僕の部屋に入れてあげるから……」
するとニコルは庭木の間をガザガザと音を立てて抜け、こちらに来ようとした。いったいどうやって、その大きな身体を詰めたのか、擦れ合う枝は彼が動くと悲鳴をあげ、中には耐え切れずに折れる者もいた。
三太は慌てて口の前で人差し指を尖らせた。
「しーっ! 静かに! お母さんが起きちゃう!」
この合図だけは万国共通らしく、ニコルはすぐに理解し、親指を立てて拳を作った。その際、相手にはっきりと解る様にと、勢いよく抜き出した腕が枝に当たって大きな音を立てた。
三太は呆れながら、また同じ動作を繰り返した。
長い間を掛けて困難を潜り抜けたニコルは、三太の前に出ると、長い間曲げていた腰を真っ直ぐ伸ばした。背の高さは見る見ると大きくなってゆき、三太の視線は先程の様に空を仰いでいた。長い間寒空にさらされていたせいか、髭には鼻水と涎が凍って固まっていた。
そして三太には正体は解らなかったのが幸いだが、周りには昼間に被った嘔吐物の破片が、相変わらずこびり付いていた。
三太は怪訝な顔をして、それでも自分の部屋にあげるのだからと、とりあえずはコートの上に付いた枯れた木の葉を叩き出した。
近くでよく見ると、コートはカーキ色ではなかった。日に焼けて色褪せ、汚れたカーキ色だった。暗がりでも解る程、それは汚れていた。木の葉が付いていた方が、まだ見栄えが良かった気がしたが、とにかく三太は木の葉を落としまくった。
やっとニコルに張り付いた色々が、もう落ちない程度仕上げると、三太は彼の足元を見た。草木に隠れていて気が付かなかったが、素足にスリッパだけ。顔を上げると、いまだ流れる滝の様な鼻水。放って置いたら、自宅の庭先に大きな外人の死体がひとつ――余所の家はクリスマスの電飾で派手に飾られていて、同じ外人でもサンタクロースの置物が置いてあるのに、うちは大違い。これはかなり迷惑な話だ。そうならない為にも、仕方ないが、この外人を早く家に上げて、靴下でも与えてやらなければ……。
三太は亡くなった父親の登山用の防寒ソックスが、仏壇の下にしまってあるの思い出した。父親が死んだ時に履いてた物らしいが、形見といえど会った事もない人間の物だし、もう二度と誰も履かない物なので、この際、縁起など余り気にせず、それを提供する事を思い付いた。
そうと決まればと、三太は手招きを繰り返して、震えるニコルを玄関へと招いた。
玄関扉を静かに開けると、三太はまた口元に指を立ててニコルに合図をし、彼を先に中へ入れた。そしてゆっくりと扉を閉めて、またニコルの前に出ようとしたが、言葉の通じなさそうな外人は、震える大きな身体の振動を床に伝えながら、スリッパのまま勝手に上がっていってしまった。大きな身体に耐え切れず、歩調と合わせて床がきしんだ。
三太は慌ててニコルの身体を押さえた。
「……三太、三太なの?」
真横のふすまの向こうから、母親の寝起きの声が小さく聴こえてきた。
突然の、予想外の出来事に、三太は心臓を押さえ付けるられつつも、咄嗟に返事をした。
「そ、そう! 僕だよ!」
「何してるの? ……誰か居るの?」
今までもそうだし、これからの人生も三太は経験していくのだろうが、いつだって隠し事をしている時に言われる母親の見解は鋭い。まさに現在、そういう状況だ。すぐ側に居る疑惑の原因はきょとんとした顔で、無責任に相棒の次の出方を眺めている。
三太はニコルに顔を合わせながら、必死に言い訳を探した。
「猫! 猫を拾ったんだよ! 大きな猫を……!」
間違いで無かった。最初は三太も、ニコルの事を大きな猫と思って庭に探しに来たのだし、母親が不審に思って起き上がり、ふすまを開けなければ、隣の大きな外人はずっと猫のままのはずだ。しかし、言い訳にしても、余計に不信感が漂うこれは不味かった――三太は口に出した後で後悔した。
一瞬の出来事だったが、三太には時間がとても長く感じた。そして長い時を経て、やっと母親が返事をした。
「そう……朝には、ちゃんと捨ててきなさいよ」
まだ半分寝ていたのか、返事は意外にもあっさりしていた。
三太は胸を撫で下ろし、また、朝にはちゃんと捨ててくるという母親の言い付けを――勿論そのつもりだったし――当然守ろうと思い、誓った。やっと落ち着いて顔を上げると、問題の捨て猫がこちらの苦労も知らずに笑っていたので、三太は憮然と彼の背中を押して、階段を登っていく様、合図した。
スリッパに着いた泥で階段が汚れたが、電灯を点けない暗闇の中、どのくらい汚れたかも解らず、それよりもスリッパを明からさまに玄関に置いておくよりまし、何よりもこの外人は日本の家屋にあがる際の靴を脱ぐ習慣を知らないんだなと、三太は自分に言い聞かせた。むしろ今は、急いでニコルを二階に上げて、自分の部屋に押し込みたい気持ちで一杯だった。
やっとの、本当にやっとの思いで、部屋の扉を開け、三太は一息吐いた。
お構い無しに、ニコルは物珍しげに部屋の中を眺めていた。暫くすると視線は、棚の上に整列していた数多くの戦闘機に留っていた。
三太は棚に近付いて、自慢気に言った。
「凄いだろう? 僕のコレクションさ。……ねぇねぇ、あんた、空軍の人だろ? ひょっとしてパイロット?」
先程までの苦労などすっかり忘れて、三太はニコルに問い詰めた。
なにせ相手はひょっとすると憧れのパイロットだ。身なりは……この際、置いておくとしても、予想では米空軍の人間なのだ。まだ極秘の、日本にはない最新鋭のテスト機を扱っているかも知れない。それがたまたま日本の横田基地を訪れて、うんぬんかんぬん……と、三太は期待しながら、想像を膨らませた。
背中にある本棚よりも高く、無言で戦闘機を眺め続けるニコルの身長を改めて見て、三太は更に質問した。
「そんな大きな身体、コックピットに入るの? ねぇ、どんな機種を操縦してたの? この中ので、実際に乗った事のある奴、指差してよ」
言葉が通じたのか、期待が伝わったのか、ニコルの手が棚に伸びた。
三太は胸を高鳴らせながら見守った。ニコルは、その中の一機を手に取った。が、それには戦闘機にあるはずの翼が着いておらず、今のニコルの様に汚れた髭を生やしていた。
サンタクロースの置物を手に取ったニコルは、只それを、じっと眺めていた。
笑いながら三太は首を横に振った。
「違うよ、戦闘機だよ。解んないかなぁ? えーと……あれ? 〝戦闘機〟って、英語で何て言うんだっけ?」
三太は腕を組んで悩み始めた。
一方、ニコルは顔を神妙にし、ついには嫌悪の顔を見せると、眺めていた置物を戦闘機の並ぶ棚に投げ付けた。
「あーっ! な、何するんだよ!!」
三太の叫び声より早く、彼のささやかな空軍基地は、サンタクロースの奇襲により壊滅的打撃を受けた。数機の精鋭機種は軽々と吹き飛び、翼は折れ、苦労して塗った塗装は剥げ落ちた。
三太は慌てて棚に近付き、その中の一番大切にしている機種を手に取った。それはニコルと出会う前までに見ていた夢の中で出会っていた、と思われる機種の原型――英国空軍が誇る不朽の垂直離着陸機《VTOL》、ハリアーだった。
「あー、もう! どーすんだよ! 翼折れちゃったじゃんかー! あーっ、タイヤ取れてるし! ……これじゃ飛べないし、着陸出来ないよ! ったく、もう! 弁償してよね!」
壊されたのはもちろん模型なので最初から飛びもしないし、初めから着陸したままだ。
しかし一番大切にしていた物を壊された為に、まるで本物のハリアーが破壊されたかの様に、目の前のみすぼらしい大男が弁償出来るなら、実機が買える程の代償を払って貰おうかという勢いで、三太は顔を真っ赤に染めて怒った。
そんな彼を、まるで何も聞こえないという態度で無視して、ニコルは窓際まで数歩歩いて立ち止まると、何やら呟きながらしゃがみ込んで足を組み、腕で抱いて丸くなった。
顔の表情からすると、何やら不満を述べているみたいだったが、声も小さく、英語にも聞こえない言葉は、何処の国の言葉か解らなかった。英語だとしても三太には理解出来ないが、どうやらこの大男はサンタクロースや戦闘機が嫌いらしい。――そういえば、こいつは脱走兵かも知れないんだ。何らかの理由で戦闘機が嫌いになってしまったか、もう二度と基地の空気を嗅ぎたくないか――じゃあ、サンタクロースは何故?
ニコルの不可思議な行動に、三太は怒る気も失せ、只々呟くニコルを見詰めながら考えるだけだった。