沈み行く秋の紅(あか)
※直接描写等はありませんが、表現的にR15指定、またバッドエンドの作品ですので、苦手は方はご注意ください。
「沈み行く秋の紅」結川さや
ゆらゆら、ゆらゆら。
揺れる水面を私は覗き込む。もう少し、もっと近くで見たい気持ちを抑え、座ったまま精一杯身を乗り出して。
緑美しい初夏の庭では躑躅が満開で、目にまぶしい。花は好きだ。季節の移り変わりを私に教えてくれる、数少ないもの。だから今日の着物にも、赤地に薄紫の鉄仙が描かれた銘仙を選んだ。
けれど今の私は、花のそれよりも鮮やかな色彩に夢中だ。水の中で優美にたゆたう、美しい紅。まさに生きた輝きに見惚れていたその時、そっと肩に手を添えられ、背もたれに戻された。一瞬の戸惑いは、優しい微笑が消してくれる。
「だめだよ、朱乃さん。あまり乗り出していたら池に落ちてしまう。見た目より結構深く作ってあるんだよ」
心地のよい低音で注意するのは、薄い灰色のジャケットとズボン、という洋装姿の長身の青年。爽やかなカンカン帽もかっちりと糊の利いた白いシャツも、全てが洗練された印象だ。私より十も上の、大人の男性。
「お、おかえりなさいませ、宗一郎さん」
まだ慣れない言葉とお辞儀で迎えると、彼はにっこりと微笑んだ。銀縁の丸眼鏡越しに、穏やかな瞳が私を見つめる。
「ただいま。といっても、またすぐに出発しないといけないんだけれどね」
「まあ、今度はどちらへ?」
「横浜に着く船の積み荷を確認しにね。またお土産を持って帰るよ。いつも一人で待たせてしまってすまない」
「そんな……とんでもございません」
貿易商をしている宗一郎さんと婚約したのは、三月前のこと。その後すぐに生家を離れ、新居として与えられたこの立派な邸宅に移った。婚儀は彼の仕事が落ち着いた頃合を見計らって執り行うと言われていたが、正確な時期は知らない。
話し合いは父と彼との間で行われていたし、私ふぜいに、聞く権利などないのだ。 俯いた私に、宗一郎さんはしばらく今朝の新聞の話をする。が、軍部急進派や昭和維新などという単語の羅列に私が興味を持てないことに気づくと、かすかに苦笑し、話を変えてくれた。
「また鯉を見ていたんだね」
「ええ、秋翠を。ご覧になって、あの美しく複雑な紋様! まるで溶いた絵の具を絶妙に落としたような――」
秋翠とは、明治の頃に作り出された、数多い錦鯉の中でも私が一番好んでいる種だ。
はしゃいで指差しかけ、あわてて口を押さえる。でも、彼は微笑ましげに目を細めただけだった。
「ご、ごめんなさい……私」
「いいんだよ。この池の鯉は、私が大事に育ててきたものだ。君にも気に入ってもらえてよかった。君をようやく笑顔にしてくれた鯉たちにも、感謝しないといけないな」
言って、宗一郎さんは水中を泳ぎまわる鯉たちを優しく見やる。ししおどしの音が静けさの中に響き、宗一郎さんが押してくれるのと同時に、私の視界は動き始めた。
「乗り心地はどう? もうすっかり慣れたかい?」
尋ねるのは、彼が外国から取り寄せてくれた動く椅子――この車椅子のことだ。豪華な結納の品より、実は一番嬉しかった贈り物。奇跡とも等しい品だった。
「ええ、とても良いですわ。宗一郎さんには本当に感謝しております。部屋の中だけで過ごしていた私がこうしてお庭に出られるようになったのも、全部宗一郎さんのおかげなのですもの。でも私、何もお返しすることができなくて……」
歩くことのできない自分との結婚を望んでくれただけでも感謝しなくてはいけないのに、外の世界まで見せてくれた。私にとって、神様みたいな人だ。私が十六になるのを待って求婚してくれたのだと聞き、どれだけ驚いたことか。自分のような役立たずの娘などより、断髪し、都会的な洋装で街を闊歩する美しい女性のほうがよほど似合う人。なのに、未だに着物しか着ず、長い髪を結い上げた私を、彼はやわらかな笑みで見つめる。
「お返しなんていらないんだよ。君はただ、こうして僕のそばにいてくれればいいんだ。美しい君を見ているだけで、僕は本当に幸せなんだから」
「宗一郎さ……」
しい、と唇に人差し指を添えられ、固まってしまった。ただ黙って彼を見上げた私の頬を、満足そうに撫でる手のひら。
「艶やかな黒髪と白磁の肌、希少な大粒の黒真珠を思わせる瞳。そして極めつけは、紅を差さずとも赤い唇――ああ、君はなんて素晴らしいのだろう。君の夫となる日が、早く来ればいいのに」
熱烈な言葉に、私の心も熱くなる。けれど、その心の奥に妙な感覚があった。ちりちりと、ざわざわと、何かが不安を植えつけてくる。ともすれば不安の理由を探ろうとする心に、私は蓋をした。
これもきっと、完璧な彼に釣り合わない自分を申し訳なく感じているから。そうに違いないと。そっと微笑み返した私の背後で、ぴちゃりと鯉が跳ねる音が聞こえた。
その晩のことだった。
ぴちゃり、ぴちゃり。耳元で何かがそう音を立てている。続くそれが水音だと気づいたのは、重い瞼を持ち上げてからだ。目の前に、一人の青年が腰掛けていた。
「……っ!」
思わずもれそうになった悲鳴は、唇に手を当てられて止まる。大きな、冷たい手。そこにつながる腕に、裸の肩に、胸に、広がるのは涼やかな鱗。肌色の滑らかな皮膚に時折混ざるその輝きは、彼が人ならざる者であることを告げている。黒く長い髪を背に垂らし、濡れた黒い双眸を私に向ける青年。ああ、そうだ。彼は――彼こそは、
「秋翠……」
名を呼ぶと同時にわかる。思い出す。昼間、日の明るいうちはなぜか忘れ去っている事実を。夜毎に重ねてきた、逢瀬を。
そして、もう一人の自分が目を覚ます。私の下ろしたままの髪の先に、青年――秋翠は口付けた。
「わたしの紅……君に会いたかった」
するすると、敷布の上を滑る彼の黒髪。それは薄紅の襦袢を這い、私の体を愛撫する。冷たい手を、私も握った。
「いいえ、紅はあなたよ。私の心を魅了して離さない、生きた輝き……」
言葉の終わりを待たず、秋翠が私の唇をふさぐ。しっとりと、濡れているのに乾いた不思議な熱は、唇から全身に伝わった。
息が乱れる。苦しいのに、もっとと求める。そんな淫らな自分は、明るい日差しのもとにはいないというのに。
秋翠は、衣服を身に着けていない。髪から、肩から、指先からも滴り落ちる水滴は、奇妙なことに私を濡らしはしても寝具にも床にも落ちはしないものだ。
「君は美しい。初めて見たあの日から、魅了されたのはわたしのほうだった」
紅、といとおしげに囁きながら触れる手は、着物の中にも入ってくる。はあ、とまた吐息が漏れた。
どちらが先かもわからない。互いに惹かれあったあの日の夜、たった一人で眠る広い寝室に、人の姿で秋翠が現れた。その夜からこうして罪深き逢瀬は続き、誰にも言えない夜を重ねているのだ。
――ああ、昼間の不安の正体はこれだったのだわ。
あれほど良くしてくれる彼を裏切り、持ってしまった秘密。始めてしまった罪の、消せない罪悪感。昼には忘れているその想いを自覚してもなお、私に抵抗するすべはない。いや、そんな気持ちすら持てないのだ。秋翠の抱擁に応え、強くしがみついてしまう。
滑らかな背にも、胸にも、首筋にも指をはわせながら感じるのは、ところどころに潜んだ鱗の感触。鮮やかな紅もあり、濃い闇のような黒もあり、月明かりに映える銀もある。奇しくも昼間、溶いた絵の具に例えた神秘的な紋様が、彼の体を彩っている。冷たく無機質なのに熱い肌と肌を合わせ、互いの荒い息が収まった頃、ふと秋翠が問うた。
「どうして、離れようとする?」
鱗を愛でていた指先は、唐突な問いで不自然に震える。
「何……? 私は、離れようとなんて」
「いいや、君はわたしに背を向けようとしている。逃げたいのか? 異形の者との逢瀬から」
「違う! そんなこと……」
きっぱりと否定したいのに、不可能であることを悟る。否、知っている。だって、まさに自分自身がその言葉を裏切っているから。彼の下から半身を起こし、襦袢をはおる。
「宗一郎さんは――いい方だもの。私のような女を望んでくれて、愛してくれて。だから……」
そこに自分の意志がなくとも、嫁がなければいけないのだ。唇を噛み締めた私の体を、秋翠が背後からそっと抱きしめた。
「君を望んでいるのは、わたしだ」
痛いほどにわかっている。けれど、と心の中で呟く私の声をも、秋翠は聞いている。はだけたままの襦袢の下から覗く、自分の両足。長年歩けぬままでいるために、細く棒のようになってしまった醜いモノ。ただ食い入るように凝視していた私に、低い声は続けた。
「人とは奇妙な生き物だな。歩けぬことが何だと言う? 体が動かなければ、その心さえ自由を選んではいけないとでも?」
「……理想ね。私だって、あなたのように生きたい。でも、私には枷がある。永遠に抜け出せない檻が」
感謝という名の枷と檻。そこに囚われている限り、私には自由などない。伏せた瞼の、睫の先にまで秋翠は唇を付けた。優しく、哀れむように。
「わたしとて、体は人の作った枷に留められている。だが、こうして抜け出すことができる。なぜだと思う? 心に、自由があるからだ」
「心……?」
そう、と囁き、耳たぶを食むようにされながら、私はまた甘い声を漏らす。けれど頭の中では、いつまでも秋翠の言葉の意味を追っていた。
宗一郎さんは、私に触れない。
手や頬や、髪に優しく触れはしても、決して体に触れようとはしない。婚姻前の男女が守るべき決まり事であるし、それが彼の優しさだと思っていた。だからこそ、今朝聞いてしまった女中の話が、いつまでも心を重くしているのだ。
『お屋敷のお人形、でしょう?』
『そうそう。あの方に必要なのは彼女のご実家との縁戚関係と、その信用でますますお仕事をうまく進めることだけですもの。だから妻だなんて名ばかりなのよ。それに一人で立てもせず動けもしない女に、何の魅力があるって言うの?』
『そうよね。せいぜいがあのお綺麗なお顔で楽しませるくらいのことしかできないのだし。お人形というのが、いい例えだわ』
くすくすと、影で笑いあう声。彼女らが言う内情は、決して驚くような話じゃない。薄々、自分でもわかっていたことだ。けれど、触れたくもないほどに本心では厭われているのかと思うと、やはり落ち込んでしまう。
その彼女たちの手で整えてもらった着物と髪型を、鏡台の鏡で見つめる。白磁とは褒められても、こうして日の差さない室内にいると病的なばかりに青白い顔。唇だけが血で染めたかのように赤く、ぎょろりと大きな目は何かを見透かすような不気味なもの。自分では、そうとしか思えなかった。
――厭われている? 当然のことよ。
くすくす、楽しげに笑う声が耳元で響いた。はっと周囲を見渡す。が、既に廊下にも人気はなく、いつものように広い部屋に一人きりだ。なのに、また笑い声がすぐ近くで聞こえた。
――どこを見てるの、こっちよ。
視線を戻した鏡の中から、声は言った。自分が――自分と同じ顔の女が、こちらを見て笑っている。
「なっ、何……何なの!?」
叫ぶと同じように動くのに、次の瞬間にはまた笑っている。その女は、今自分が考えたばかりの不気味な印象ではなく、鮮やかな赤い唇を優雅につりあげ、強い瞳で見つめ返してくるのだ。
――あなたがどんな女なのか、自分でようく考えてみるのね。あの人に嫁ぐ資格もない、汚れた女。
あははは、ふふふふ。女は可笑しくてたまらない、という風に笑い続けた。目を逸らしたいのに、女から視線を背けることもできない。自分さえも魅了する、赤く派手な女。人を惑わせ、全てを狂わせる女から。
「やめて……やめてっ!」
気づけば思いきり髪油の瓶を投げつけていた。笑い続ける女の顔を、声を、消し去るために。鼻をつく独特の香りと共に、割れた鏡に油がとろりと流れていく。そこに映っていたのは、呆然とした自分の顔。噛み締めていた唇は、より赤くなった気がした。
――お父様、お父様、どこへ行ってしまわれたの? お母様がいないの。
何度も呼びかけながら二人を捜し、広い屋敷を歩き回っている自分の姿を、私は見ていた。そう、これは夢の中。まだ歩けた頃の、幸せだった幼い日の記憶。その幸せが割れた鏡のように粉々に壊れる瞬間に向かい、小さな自分は歩いている。
赤い着物に、まだ肩につかない黒髪。幼い面影は、立ち止まった廊下の突き当たりで固まった。驚愕の叫びも出ない。ただ、喉の奥で止まって、全身をがくがくと震わせるばかり。
――お父様……? 何を、なさって……。
問いの答えは、目の前に広がる悪夢のような光景が示している。飛び散った赤い血が、足元に広がる紅の海が、私に迫ってくる。ゆっくりと振り向いたお父様は、私に笑いかけた。
『お母様は行ってしまったよ。もう戻ってはこない。ああ、だから言ったのに』
そばにいてくれるだけでいいと。美しいその微笑みで、自分を癒してくれるだけでいいとあれほど言ったのに――お父様の顔が、段々歪んでいく。自身の血塗れた両手を見下ろし、涙を流している。動かぬ母の体に触れようとした手は、隣に倒れた別の男を見て止まった。悲しみはすぐ狂気へと戻り、憤怒の表情に変わっていく。
『お前の中にも、この汚れた女の血が流れているんだ……美しい朱乃。今のうちに、お前の中の醜い血を消し去ってしまわなくては』
来なさい。そう言って差し出された赤い赤い手を、小さな私は必死ではらいのけた。何度も転び、突っ伏して、それでも恐怖のままに外へ駆け出していく。突っ込んできた自動車に、私の視界は暗転して――。
はっと目を開けると、涙が流れていた。
「紅、どうしたのだ? 悪い夢でも見ていたのか」
薄闇の中、自分を抱きしめる腕を感じてやっと現実に戻る。視界に捉えたのは、美しい鱗を持つ青年――秋翠だった。そう、何度目かもわからない逢瀬の夜がやってきたのだ。
窓の外からはしとしとと細かな雨の音が続いていて、そのせいか秋翠の体からいつもより濃い水の匂いがする。
冷たい指先で涙を拭われ、私はほっと息を吐いた。何を見ていたのか思い出せないままに、秋翠の胸に身を寄せる。
「わからない……でも、すごく怖い夢だった気がする」
「父君を呼んでいたようだが」
「父を? どうしてかしら」
呟きながら、そういえば父から手紙が届いていたことを思い出す。厳しいけれど、こんな自分を大切に育ててくれた父。突然の病で母が亡くなった後も、男手一つで真面目に生きている人だ。生まれつき歩けない不憫な娘を、ずっと気にかけてくれている。
――違うでしょう? 忘れたふりをするのもいいかげんになさい。
ふと耳元で聞こえた声に、私は息を呑む。最近、昼間によくある幻聴だ。きっと疲れてでもいるのだと、そう考えていたのに、まさか夜にまで聞こえるなんて。
「どうした、紅。顔色がよくない」
心配そうな瞳に見つめられ、私はすがるように彼に抱きついた。
「怖いの」
「紅……?」
「私が、私でなくなるみたいで怖い。ううん、昼間には今のことも忘れているのだから、もうずっと前から私は私じゃないのかもしれない。もしかしたら、もっと前から壊れていたのかも……私は、私なんて存在は」
震えながらしがみついた私を、秋翠は力強く抱きしめる。
「君は君だ。わたしにとっては、昼間の君も今の君も、どんな時でも愛しい紅でしかない」
優しく、言い聞かせるような声は、まるで凪いだ水面のように揺るがない。けれど、鏡のように澄んだそこに、私は自身の姿を見てしまう。また、女の嘲笑が聞こえる。
「私が、汚れた女でも……? 何か恐ろしい化け物が私の中に棲んでいたとしても、それでも愛してくれるの……?」
こぼれた涙を舌で舐め取って、秋翠は微笑を浮かべた。彫像のように整った美しい顔が、私を憐れむように見つめる。
「愛しているよ、わたしの紅。わたしたちは、永遠に一緒だ」
正体のわからない不安と恐怖。そこにただ一つ下ろされた希望の糸を、私は必死で掴む。一緒にいて、一つになって、それなのに――どうしてこんなに悲しいのだろう。動かない足が、囚われの身の自分が、抜け出せないことを知っているから?
わかっている。本当は、悲しいのは愚かな自分を知っているからだ。永遠の愛を囁かれ、頷き、彼に抱かれながら、その背徳をも楽しんでいるもう一人の自分がいる。
――そう、化け物は、私自身。
瞼を閉じ、長い夜に身を任せながら、それでも頬をつたう涙は止まらなかった。
花の命は短い。
躑躅の次は薔薇が咲き、それが枯れると紫陽花が咲いた。そして花が散って、木々の葉が紅く染まる頃に突然の知らせはもたらされた。父と宗一郎さんの間で、婚儀の日が決められたのだ。
「ああ……とても綺麗だよ、朱乃さん。いいや、朱乃。やはり君には、赤が似合う」
用意された花嫁衣裳は、紅い色打掛。銀糸や黒で刺繍のされた落ち着いた色合いは珍しいものの、私もすぐに気に入った。まるで、大好きなあの鯉の紋様を着ているようだったから。
――秋翠。
脳裏に響いた声は、ちょうど目で追ったあの鯉の名前。移動が難しい私のためにと、式はこの屋敷の庭で行われることになった。だから、私は車椅子に腰掛け、いつものように池を見ていた。
隣に立つ宗一郎さんは、今日も洋装だ。西洋の結婚式で身に着けるという、白いジャケットとズボン。彼にはとてもよく似合うけれど、二人並んでもまるで夫婦となる実感は沸かなかった。
「お客様は……父もまだなのでしょうか」
遠慮がちに訊ねると、宗一郎さんは優しく微笑む。
「大丈夫、すぐに来られるよ」
「……あの、屋敷に誰もいないようなのですが」
着付けが終わって、ふと見れば大勢いた女中もどこかへ行ってしまった。広い屋敷の美しい庭園で、宗一郎さんだけが隣にいるのだ。
「式の前に二人きりになりたくてね。人払いをしたんだよ。それに、そもそも婚儀はただの儀式で、誓いとは当人同士で立てるものだ。違うかい?」
「それは……そう、ですね」
会話をしながら、何か違和感を覚える。宗一郎さんはいつもと同じ優しい笑顔と話し方で、何も変わりはしないのに。変わったのは自分なのだろうか。
ししおどしが鳴り、池の水面にはらりと紅葉の葉が落ちる。ゆっくり流れていく赤い色が、水の中の紅色と重なった。
「あ……ああ……!」
頭が突然激しく痛む。もし立っていたならば、崩れ落ちそうな痛みだった。けれど、元々立てない体では、車椅子の上で呻くだけ。
ぴちゃり、と鯉が跳ねる。囁きが、耳元で蘇った。『紅』と呼んでいる。私の中の、本当の私を呼んでいる。
「宗一郎、さ……」
それでも振り切るように必死で伸ばした手は、微笑んだままの彼に無言で拒絶された。身を引かれ、体勢を崩し、私は地面に倒れこむ。動けない下半身を引きずり、必死に起き上がろうとする私は、まるで打ち上げられた魚のようだ。
「まだ、僕を呼ぶのかい? いつまで待たせれば気が済むのだろうね、この子は」
口調だけは優しく、しかし見下ろす瞳はひどく冷たい。突然の変化に背筋が凍えるような感覚を覚えながら、私は涙を流した。
その私の結い髪を、宗一郎さんの手がぐいと掴みあげる。
「ああ、髪は結わなくてもよいと言ったのに。まあいいか、乱す楽しみが増える」
「宗一郎さん? 離し……やめてください」
痛みに声を上げる私を、彼は楽しげに見下ろした。
「さあ、誓いを成そうじゃないか。君を愛する『彼』の前で、動けぬ君を陵辱する。それは、どれほどに楽しいものだろうねえ」
ぐいと乱し、引き出されていく自分の髪が、視界に黒く散っていく。帯を解き、合わせを開かれてもなお、自分が何をされているのかがわからない。強い手に襦袢を下ろされ、ようやく悲鳴を上げた。その声さえも楽しむように微笑みながら、突如豹変した彼は私の鎖骨を指でなぞっていく。ゆっくりと、下に進むほどに強い力となったそれで示されたものは、私自身の罪の印。紅く散らされた、欲望の名残。
「ほら、これでもまだ封じようとするのかな? 夜毎に僕でない男に愛され、悦んできた本当の君を」
「やめて……」
「ああ、そうだ。君のお父君にもようく頼まれていたんだっけ。君の中に眠る汚れた血を、必ず封じてほしいと」
何を言っているのだろう。わからない。何も聞こえない――そう首を横に振るのに、言葉は残酷に真実を導き出していく。
「でもね、朱乃。君のその血は、決して汚れたものなんかじゃない。むしろ、美しいものだ。紅を差さずとも君の唇が赤いように、誰が教えずとも君の中の本能は君を染めていったんだよ。僕が君を望んだのは、その血を……君の中の紅を見つけたからだ」
掃き整えられた白砂の上、ゆっくりとのしかかってくる男。もはや別人のような彼に触れられた瞬間、自分を抱擁する腕の感触を思い出した。いや、確かに今、ひやりと冷たいのに熱い、優しい腕が自分を包んでいる。まるで引き離すように、守るように。どくり、と心臓が大きく跳ねる。
「違う……!」
自分のものでないような強い声が、固まっていた喉から出ていった。
赤く染まった母と父の記憶。夜毎に重ねてきた自分の罪。自ら封じてきた、全て。
駆け巡る奔流の中、私はあふれる涙と共に叫んでいた。
「違う、違う、違う……っ! 私は、そんな汚れた女じゃない!」
はねのけた手が、彼の眼鏡を地に落とす。それでも、宗一郎さんは微笑んでいた。愉悦すら感じさせる表情で、私を見つめている。
「私は……動けなくても人間よ! 心を持ち、泣き、笑い、求める――一人の女なの。人形じゃない。あなたが愛でて楽しむ、愛玩動物でもないわ!」
役立たずの烙印を押され、ずっと以前に世界から切り離された存在であっても、私の中で消えずに蠢いていた生への渇望。飢えて、乾いて、それでも枯れずにいた感情のすべて。
満たされず、爆発しそうな心を抱え、檻の中で大人しく生きようとしていた。囚われた身の自分を呪いながら、重い枷を自分ではめていた。そんな自分を、ありのままの心を愛してくれたのは、ただ一人。
「私は、あなたにとっては汚れた女かもしれない。世界中の人がそう言っても、蔑んでも、私は……もう迷わない」
言い切った刹那、自分を包んでいた優しい気配が更に近くなった。濡れた、冷たい手と唇の感触が鮮やかに蘇る。
愛したのは――彼だけ。
いつしか池のすぐそばまで来ていて、まるで夜毎の逢瀬の時のように、強く濃い水の香りが漂う。私を、呼んでいる。
「秋翠、今……枷を外すわ」
押さえつけようとしてきた青年の腕をふりはらい、暴れて――私は懸命に動いた。乱れた髪と色打掛が、視界が反転すると同時にぱっと広がる。深い深い水の底に、私は沈んでいく。
体はもがき、息は苦しいのに、それでも心は満たされていた。重く重く沈む体を、優しい腕がそっと抱きとめてくれる。
「待っていたよ、わたしの紅」
囁きに頷き、何よりも愛しいひとに口づけられて。あふれた幸福の涙は、優しい水に溶けていった。
はらり、と紅葉の葉が舞い落ちる光景が、私が見た最後の世界だった。
*
がやがやと、大勢の人が庭につめかけている。美しい和風の庭園で、皆の目当ては広大な池。いや、その中を泳ぎまわる錦鯉の一匹だった。
「珍しい新種ですとか」
「本業でも素晴らしい業績を収められているにも関らず、希少な鯉の飼育でも名を挙げられるのだから……本当にうらやましいばかりですな」
頷きあい、羨望の眼差しを送る人々。その内の一人が遠慮がちに言った。
「しかし、婚儀の直前に妻となる女性を亡くされたばかりだとか。さぞお辛いことでしょう」
皆が同意し、見つめる前で沈痛な表情をするのは、銀縁の丸眼鏡の青年。が、次に浮かべた寂しげな微笑は、彼の端正な風貌をより美しく見せた。
「ええ。せめてもの供養に、彼女の好んだ種で成功させたかったのですよ」
「で、新種の名は何とお付けになられたのです?」
一人に尋ねられ、彼は話題の鯉を見やった。元々の赤に黒、銀の入り交ざった模様。そこに新たに加わった鮮やかな紅色を満足げに見つめ、笑みを濃くする。
「紅秋翠と。美しい紅の交配に成功しましてね……」
皆は拍手し、魅了されるように鯉の泳ぐ光景を覗き込んだ。季節が巡り、また染まった紅葉の葉が、水面に落ちて流れていく。微笑む青年の瞳の奥に何が映るのか、知る者は誰もいなかった。 (了)
読んでくださりありがとうございました!
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