10
「お帰りなさい」
ぎゅっと手を握られ、その感触でピナはゆっくりと瞼を押し上げた。
「……?」
どこにいるかよくわからなく、何度も目を瞬かせた。
「ピナちゃん、大丈夫?」
ふっと自分の顔に影ができてピナはびくっと体を固くした。
「だ……れ?」
眉間に皺を寄せながら、ゆっくりとその影が誰のものであるか見極めようとした。
「ボクだよ、ボク。忘れちゃったの?」
「ボク……?」
記憶にそういう言葉遣いをする人がいたか手繰り寄せるも、霧に包まれたようで自分自身の存在すら不確かに思えてきた。その想いを振り払うように上半身を起こしてピナは頭を軽く左右に振った。
少しだけだがすぅと霧が晴れたような気がした。
「……えっと、ナルさんだったかな?」
「……。そうだよ。よく思い出してくれたねっ!!」
一瞬の沈黙をおいてナルは嬉しそうに笑顔になり、ピナのベッドに腰かけた。
「よかったよ。ほんと。もう目覚めないのかなって思ったんだよ?」
いっそこのまま目覚めなければよかったのに、とナルは心の奥底で思ったが、つとめて表情は明るい。
「あの、……どのくらい私寝てたんですか?」
時間も曜日感覚もピナにはわからなかった。首を傾げナルに問うと、つんと顎先を上げて得意げに教えた。
「一週間も寝ていたんだよ」
「一週間?」
「そうそう。なかなか目覚めないから、点滴もさせてもらったよ。暴れないでね?」
「え?」
よくよく自分の腕を見ると、針が刺してあり必要な栄養分がそれで補われていた。私、一週間も寝ていたの? 一回も目覚めなかったのかな? そんなことなんてあるの? 自分のことなのに、自分を遠く感じてしまう……。ピナはナルに言われたことが信じられなくて怪訝そうに彼女を見つめた。
「まったくぅ、疑い深いなぁピナちゃんって。まぁ僕の言ったことがほんとか嘘かは置いといて、マスターがピナちゃんの目覚めを心待ちにしてたんだよ。今呼んでくるから、そこで待っててね」
「マスター……?」
口にした途端、ピナの脳裏に光が瞬いたような衝撃が走ったが、すぐに収まってしまい首を傾げた。それに、自分の前に現れた車いすの人物の出で立ちが恐ろしくて衝撃がなんだったのか考えることが飛んでしまったのだった。……この人、こんなに皺が多かったかな? 周りの彩りが黒いというかなんというか。
「ようやく目覚めてくれたね。あぁよかった。本当によかった」
光を感じない目に見つめられ、ピナの背中に冷たい汗が伝っていった。怖い。どうしようもなく怖い。歯をガチガチ鳴らしながら、そっと自分を抱きしめた。
「どうしたの? ピナちゃん。具合悪くなった?」
すっとそばにナルはピナに近づくと、背をさすってやりながらも肩に手をかけた方はギリギリと力を込めていた。
「いたっ」
小さく悲鳴をあげると、ナルはぱっとピナから離れてにこにこ可愛らしい笑顔を作っている。マスターには一連の様子が見えていないので不思議そうに宙を見ていた。
「起き抜けに悪いとは思うのだけど、こちらも切羽詰まっていてね。是非君にやり遂げてほしいことがあるんだ」
折れてしまいそうな枯れ木のような腕を伸ばしてピナの手を握った。どこにそんな力があるのか、というほど力強く。すぐにでも振りほどきたかったが、固く固く握りしめられていて叶わなかった。ただただ恐怖心だけがじわじわと広がっていくのだ。
心に秘めた暗い過去にとぐろを巻くように締め付けられ、苦しくなってピナは顔を歪めた。
「あ、あの……」
途切れ途切れに言葉を紡ぐがうまく並ばず額に脂汗までもが浮かんできた。
「大丈夫。君は自分に特別な力があると知っているだろう?」
特別なんかじゃない。知りたくもない。
ぼんやりと今まで見ていた夢が朧げに思い出してきたのか、ピナは首を振って否定した。
「君のその力は我々にとって、とても必要なんだよ。たとえ君が忌み嫌っていても。それでも我々のために力を使ってくれないだろうか?」
必要? ……恐ろしい力でも必要としてくれているの? 私自身忘れたいほどの力なのに。虚ろな瞳でピナはマスターを見つめた。
「ヒナコくん、もうその力で悩むことはないんだよ。ここでなら誰も君を否定する人はいない。君が君らしくいられる所なんだよ。どうだろうか? 力を貸してくれないだろうか?」
「私が……私らしくいられる?」
「そう。誰も君を咎めることもない」
低く響く声に、ピナは引き締めていた口角を少し上げた。誰もとやかく言わないでいてくれるの?
「わ、私の過去も知ってるんですよね? なにをしたか知っているんですよね?」
「あぁそうだよ。あれは君にとって必要なことだったんだよ。自分を守らなきゃいけなかったのだから。正当防衛だ。気にすることはない」
そうだ。そう、私を受け入れてくれなかった人達、私を物のように扱ってきたから、だから私は自分を守るために力を使ったにすぎない。ぞくぞくと這い上がる優越感がピナの心を占めていく。
「どうか我々の希望の光となってくれないだろうか?」
光のないはずの瞳が一瞬煌めいたようにピナには感じた。
私が私でいられる場所で役にたちたい。そして腫れ物に触れるわけでもなく、認めてくれる人たちに力を貸してあげたい。
役に立つなら――――。
ピナは目を細めてゆっくり笑顔を作って頷いた。
3章はこれにてお終いです。
次回は4章スタートです。




