10
ありがとう。
ありがとう。
どうしようもない私を見つけてくれて。
幸せで平凡な時間が過ごせたことを。
何度お礼を言っても言い足りないくらい。
でも思い出してしまった。
今の私があるのも、あの人のおかげだということを。
今があるのは、全てあの人が形成してくれたから。
そして約束をしていたから。
忘れてしまっていたけれど、果たさなくてはいけないことを。
涙は枯れ果て――――。
どこをどうやって歩いたのかわからない。
電車に揺られてきたような気もするし、ただ歩いてきたのかもしれない。
頭の中に霧がかかっているようになっているのに、私は見覚えのないビルのエレベーターのボタンを押していた。
一方では押してはいけない、と警告が出ているのにも関わらず。
吸い寄せられるようにピナは虚ろな瞳でエレベーターに乗り込み、地下階を押した。
すぐに着くと思っていたピナは首を傾げた。地下に下っているはずなのに時間がかかりすぎているのだ。少し不安に思い頭上にある表示を見上げると、どこにも行き先が表示されてなく、どこを進んでいるかも表示されていなかった。
「どうして?」
不安を口にすると急に体が震え出した。
どうして? どうして平気な顔でサキチくんたちの所から出て行けたの? どうしてあの子の言った言葉を信じたの? 約束ってなに? 怖い。行きたくない。会いたくない。知りたくない。
震えが止まらなくて、唯は膝を抱えてしゃがみ込んだ。
すると間の抜けたような"チン"という音と共に、エレベーターのドアが開いた。
「待ってたよ。ピナちゃん」
心から嬉しそうに今か今かと待ち構えていたナルは声をかけたが、うずくまるピナの様子にすぐに表情を変え、口の端をゆっくりと持ち上げた。
「大丈夫? 気持ち悪いの?」
心とは裏腹にナルは優しい言葉をかけた。
するとピナはゆっくりと頭を振るだけで、まだうずくまったままだ。
「どうしたんだ? あの子は乗っていないのか?」
ざらりとした声がピナの前方から聞こえてきて、思わず顔をあげた。ナルより背丈が低い人物の影に気付いた。
あぁ……。心の中で色んなものが合わさっていくような奇妙な感覚にピナは陥った。
「いえ。マスター、無事に着いています」
今度は苦虫を潰したような表情で、振り向きながら後ろに立つ自分の主、マスターに告げた。
「そうか来たのか。ヒナコくん、会いたかったよ。この時をどれほど待ち望んでいたか!!」
感極まっているのか語尾が震えている。タイルの床をゴム底で鳴らすような音と共にピナの前へ移動してきた。
「あ、あの……」
言葉に詰まる。自分が想像していた様子を激しく違うことに。
もっと体格がよくて、目つきもギラギラしているように思っていたのだ。しかし、目の前のにいるのは、車椅子に体を預け、白髪の髪を一つに結わえた不健康そうな風貌であった。服から出ている場所は骨と皮だけのように、骨ばっていた。目は窪んで、ギョロっとした視線でピナを見ていた。
「ヒナコくん、こっちへ来てよく顔を見せてくれ」
手招かれているが、ピナは一歩足を踏み出すことができない。
「ほら。マスター直々に仰ってるんだから、ほら、ほら」
ナルに後ろからせっつかれ、つんのめりながら、マスターの前へ出ると、折れそうな手を伸ばし、ピナの手を握りしめた。あまりにも冷たくて、声をあげそうになったが、マスターの視線に釘付けになり、声はせり上がってこなかった。
ガラス玉みたいな目。……なにを映しているのだろう? 私じゃない何かを見ているような……。ピナの目とワザと合わせていないわけではないが、ピナを擦り抜けて何か別のものを見ているように思えたのだ。
「ここでゆっくりとしていきなさい。今までのことは悪い夢だったのだよ」
力強く握られ、より一層冷たさを感じながらピナは、頭に軽い痺れが走った。
今までが悪い夢?
どこからどこが夢?
最初から?
「マスター。少し混乱しているようですよ」
よろめくピナを脇から支えながらナルがたしなめた。
「あぁ申し訳ないね。ヒナコくんがあの支部に配属されてしまったこと……。それは、何かの手違いだったのだよ。あの支部で出会った人、出来事は、幻に近い。何も思い煩うことなどないんだ。あそこより、ヒナコくんが生きやすいのだよ。ここは」
甘い囁き。
耳の奥にずっと残っていくような声。ピナはゆっくりと瞼を閉じていった。まるで考えをやめるように。
ゆるゆると体に力が入っていかなくなるピナを支えながら、ナルは目を細めた。
ようこそ、楽園に。と呟きながら。
次回は3章突入です。頑張ります!
※3/25人物名の修正。句読点の修正しました




