3
「大丈夫か?」
声に反応してピナの瞼が押し上げられる。ゆっくりと開いた瞳の先には、心配そうに眉間に皺を寄せ、覗き込むサキチの姿があった。
……なんだかサキチくんには似合わない表情。もっと堂々としてほしいなぁ。サキチの思いをよそにピナは見当違いのことを考えていた。
「大丈夫か? って聞いてるんだけど」
すぐにぶっきら棒な言い方に変わったので、ピナはホッとした。やっぱりサキチくんはこうじゃなくちゃ、と心で呟く。そして口元を綻ばせながら、ピナはそろそろと起き上がる。
「ま、まだ寝てろって」
サキチは、慌ててピナの起き上がってきた肩を少し力を込めて押した。その力の反動で、変なうめき声と共に、再びピナはベッドへ押し戻ってしまった。
「もう、サキチくん乱暴だなぁ」
枕に勢いよくあたった後頭部をさすりながら言う。
「べ、別に起き上がらなくたっていいんだよ! 急にぶっ倒れたんだから、じっっとしとけって」
「え? え? 誰が倒れたの?」
そっぽを向いているサキチを、ピナは下からまじまじと見つめた。急に倒れたって、なんだっけ? と思いながら。
「え? 何言って……」
あの"ナル"っていう女に出会ったことで、倒れたことすら忘れてしまうほど衝撃が強かったのか? と喉まで出かかったが、サキチは飲み込んだ。病室のドア越しに気配を感じたからだ。
「サキチ……いますか?」
中を確認するように、少し間がある尋ね方だ。
「あ、キリさんじゃない?」
姿が見えていないにも関わらず、声だけでピナは即座に反応した。
先刻はキリの名前にすらピンとこなかったのに、この変わりようは何なんだ? と、サキチは訝しげにピナを見つめた。が、本人の視線は、サキチではなく、開けられたドアに既に向いていた。
がらっ、とドアを押し引いて現れたのは、お馴染みの白ジャケットを着たミサ。おおかたスカートなのだが、珍しく黒のスキニーパンツを履いて、落ち着いた雰囲気にしている。
一方、キリの格好が普段と違うので、ピナは心の中で絶叫していた。
レアだ!! レアだぁぁぁぁ。スーツのキリさんじゃない。素敵! チノパンなのに素敵! うわぁぁぁ、写真撮りたい、写真!! ミーハー心に火がついて、人目をはばからず、寝ながらぶんぶん腕を振り、枕元に置いたかもしれないタブレット端末を探し始めた。しかし、かすりもしないので諦め、心のカメラに焼き残すよう努めた。
「良かったぁ。少しは元気になってるのね」
興奮で頬を紅潮させているピナに、嬉しそうに声をかけたミサ。そして、ベッドのふちにぽすんと腰掛けながら、優しく笑んだ。
「あ、はい。いっぱい寝たせいか、今はすごく元気ですよっ! ほら」
サキチによって、安静のためベッドに戻されたというのに、今度は勢いよく跳ね起きた。
「ピ、ピナちゃん、そ、そんなにアピールしなくても」
そのままベッドでトランポリンをしそうな勢いのピナを、ミサは慌ててなだめた。
「そうですよ、調子がいい、と言ってあとで具合悪いです、なんて言われても困りますしね」
ため息まじりで元気さをアピールするピナをキリは制した。すると、ピナは顔を真っ赤にさせて、いそいそと布団を引っ張り上げた。それでも足りない、と思ったのか、頭まですっぽり包み込んでベッドに突っ伏した。
あぁぁ、恥ずかしい。キリさんも来てるのに、なんて子どもみたいなことしちゃったんだろ。布団の中で、後悔の悶絶している。
くぐもった声が漏れてるとは知らずに。
「ところでピナちゃん、何か起きてから変わったことはない?」
その場の空気を変えようとミサが口を開いた。
「え? いえ特に。あっ!」
何か思い出したのか、布団から顔だけを覗かせて声をあげた。
「あら? どうしたの?」
ミサは不思議そうに小首を傾げ、ピナを促した。
「すごく懐かしい夢と、あたたかい夢を見たと思うんですけど」
「思うけど?」
「内容までは覚えていなくて……」
「そう。まぁ、機会があれば私たちが潜入して夢を取りに行ってもいいけど」
「所長っ」
鋭く冷たい声が飛んできたので、ミサは頬を膨らませて口をつぐんだ。
「ところでピナさん、具合はいかがですか? ピナさんの返事次第で退院許可出せます、と医師から言われましたが」
選択がまるでないような威圧でキリはピナに迫る。
「あ、は、はい。調子はいいです。なので退院、今日でも……」
「いえ、明日で結構です」
間髪入れずに返される。いつにも増して手厳しい態度だな、とキリの言葉を聞いて、しょげてしまうピナであった。
「……まっそういうわけだから、今日はちゃんと飯食って、よく寝ておけよ!」
凍りそうな雰囲気を砕くように、サキチが屈託のない笑顔を見せた。その笑顔で、ピナ自身の緊張していた糸が緩むことができ、ほんの少し安堵し軽く息をはいた。
「じゃぁ、私たちはこれで帰るわね」
時を見計らったようにミサが立ち上がった。
「あ、はい」
慌てて起き上がろうとしたピナをミサが止めた。
「私たちに気を遣わないでね。起き上がらなくて大丈夫よ」
「す、すみません」
にこやかに笑むミサを見ると、ピナは泣きそうになってしまう。私、役に立ってるのかな? むしろ足を引っ張ってるみたいで申し訳ない、と。
「そんな深刻な顔してるとあっという間に、所長みたいに貰い手がなくなっちまうよ? お前らしくいつもケラケラしてなって」
「な、何よ!サキチっ、ひどいっ。私にだって恋人の一人や二人はいるのよ」
顔を真っ赤にして反論するミサである。
「だってヒモじゃん、ヒモっ!」
「ヒモじゃないからっ」
サキチとミサの、じゃれ合うようなやり取りを見て、くすくすとピナは笑う。
「そうそう、せめてそのくらいの笑顔がないとね? ね? サキチ」
含み笑いのミサに対し、
「は? 何言ってんだよ。もう帰るぞ」
茶化していたはずのサキチの顔がみるみる赤く染まっていった。そのさまもなんだか微笑ましくてピナは声を出して笑った。
「わ、笑うな。っつーか早く寝ろ! あぁ、くそっ」
乱暴に部屋のドアを開け、さっさと出て行ってしまった。
「フフフ、青いわねサキチ」
鼻を鳴らしそうなほど得意げに、サキチの背中に投げかけた。
「所長も行きますよ」
キリに促され、ミサも病室から出て行った。残されたピナは、今更ながら一人部屋だったことに気付く。先ほどまで賑やかだった部屋が、急に静かになり、寂しさを感じた。
「寂しいって言ってられないね。明日から仕事だ、仕事。しっかりしなさい! ピナ」
声に出して、自分を奮い立たせた。