ディアボロ
女は並々ならぬ決意を胸に、荒れ果てた屋敷の一室に立っていた。目前には、妖しい光を放つ不可思議な文様の魔法陣がある。彼女は、悪魔降臨の儀式を行っていた。
辺りには深い霧が立ち込め、昼間だというのに己の翳した手さえ見えない。そんな中、女のおぼろげな影と、魔法陣の放つ光だけがゆらゆらと揺れていた。
『……まったく、ようやく眠りに落ちたばかりだというのに……』
暫くそんな情景が続くと、くぐもった低い声が魔法陣から発せられる。次いで円陣より、揺れる光を押しのけるように漆黒の人影が立ち上がった途端、辺りに立ち込めていた濃霧は一瞬にして四散した。
はっきりとした視覚を取り戻した女の目に映ったのは、その身にまとった漆黒の着衣と同じ、まるで墨を塗ったような黒い肌と相反する輝く金髪、それを割って天を突く水牛のような角、蝙蝠のような羽根をもつ猛々しい男の姿だった。
「……悪魔っ……」
教典そのものの姿を前に、今さらながら女の身体には震えが走る。
『ディアボロ(悪魔)? ここはローマ教皇領のどこかか。……っ、……よくもこの苛烈な魔女狩りが横行している中に悪魔降臨など考えたものだな」
魔法陣からその身を現した悪魔は、女が独り言のように零した言葉に、怪訝そうに眉を顰めた。それでも、途中まで何ひとつわからなかった言葉は、途中からどこか呆れたような声音であったものの、彼女と同じ言語に変わっていた。
「これだけの完璧な布陣、今さら何を怖じている。伊達や酔狂でこんな真似をしたわけではあるまい?」
悪魔は己の足もとに刻まれた魔法陣を一瞥すると、再びその視線を女に戻して問いかけてくる。
「……私はっ、貴方と契約を結びたいの!」
「ああ、そうだろうな。そうでなければ呼ばれ損だ。何を望む、知っていると思うが、代償は己が命……望みが成就した後には、お前の命は闇に堕ち、輪廻を外れて未来永劫さまようことになる。どうする?」
悪魔の言葉に、女は眉をわずかに顰める。なぜか、自分を思い留まらせようとするような意図が感じられたからだ……そんなはずはないのに。
「早く決断しろ、こちらも暇ではない」
「わっ、わかっているわ! でも、ひとつだけ聞かせて。貴方は悪魔だから、どんな願いでも叶えてくれるわよね。叶えられるのであれば、どんなことでも叶えてくれる?」
悪魔の言葉に困惑させられながら、女は真摯な表情でそう尋ねる。
「人の世の滅亡だろうが、常しえの安穏だろうが、望みのままに。まあ、その顔を見れば、そんな綺麗事ではないことくらいわかるがな。契約を望むなら我が名に続き、願いを……我が名はフェッロ」
「……鉄……ディアボロ・デル・フェッロっ……彼を、私の夫を戦争から無事に返して! あの人はただの農夫なのに、領主様に無理矢理連れて行かれたのよ。そして、夫の生きている間だけでいいから、ここロマーニャから諍いをなくしてほしいの……できる?」
女は己の望みを口にする。悪魔は、その言葉に初めて多少驚いたような表情をした。彼が見当をつけていた願い事とは、まったく異なったものだったのだ。
「……最後の願いは?」
「……思いつかなかったの。でも、この二つの願いは絶対に叶えてほしい」
女の表情は切実だった。
「そんなことはないだろう、お前はマラリアにかかっているな。しかも末期だ……なぜ、延命を望まない?」
フェッロと名乗った悪魔には、それが意外だった。
悪魔の目には人間の寿命が見える、死期の近い人間の額にはその命を刈りとる死神の刻印が浮き上がるのだ。女の額にも、それがはっきりと見えた。
「私はもう、人生に思い残すことも未練もないわ。ただ、私が死んだ後の夫の行く末だけが心残りなの……あの人には、私以外に愛している人がいた。私は邪魔なのよ。私はいいから、あの人には本当に愛する人と幸せになってほしいのよ」
女の言葉に、フェッロは面白くないというような表情を刻んだ。きっと、愛だなんだという言葉は、彼ら悪魔にとっては不愉快な話以外の何でもないのだろう。
「では、何でもいいから願いを。悪魔も契約を破ることはできない。ロマーニャもお前の夫の行く末にも興味はない。先の願いを叶えてほしければ、もうひとつだけ何か願いを」
悪魔の言葉に、彼女は少し考え込むが……。
「……じゃあ、本当につまらないことだけど」
そう言って、最後の願いを口にした。
フェッロはその願いを耳にすると、さらに失望したような表情を浮かべたが、静かに頷いた。
* * *
その後、ロマーニャは大きく様変わりをした。長く続いた戦争は終わり、兵士達は戦場で次々と武器を捨て、家族の待つ故郷へと帰っていく。新しくやってきた若く有能な統治者により、薄暗く乱れ切っていた治安も回復に向かい、憎悪と諍いしかなかったこの国に、久方ぶりの平和が戻った。
平和な喧騒のただ中において、この平和に誰よりも貢献しながら、誰にも知られていない女の葬儀がひっそりと執り行われていた。天涯孤独だった女の夫によって行われた本当に小さな葬儀は、参列者も少なく、さほど深く悲しむ者もいなかった……ただ、一人を除いて。
戦争から帰郷した彼女の夫だ。女とは知人の紹介で結婚した間柄で、そんなに深く愛し合う前に戦場に赴いており、そこまで悲しむ理由は見当たらなかった。参列者達は一様に首を傾げながら帰っていった。
それでも、男は涙を流し続けていた。心が引き裂かれたような、戦場でさえ味わったこともない苦痛にさいなまれ、ただ苦しくて涙していた。
私が死んだとき、ほんの一滴でいいから夫が涙を流してくれますように……女の最後の望みだった。
* * *
暗闇の中、玉座に身を沈めたフェッロは、世界の喧騒を映した水晶球を見つめていた。悪魔である己の手によって平和を取り戻した人の世界が気に食わないのか、その表情はひどく険しい。
『……ここにいたか』
そこにもう一人、悪魔が現れる。フェッロとは対照的に、白い肌に清水のごとき輝く銀髪、翡翠のような緑の瞳の美しい悪魔だった。
「エルマーダ、何か用か?」
世界を変えた悪魔は、彼の方に視線も送らずに尋ねる。
『人間にかぶれおって……どうするつもりだ。皆が黙っていない』
人族の言葉を口にする悪魔に、エルマーダと呼ばれた銀色の悪魔は眉を顰めて言う。
「どういう意味だ?」
『契約違反に気付かぬと思ってか、お前は契約者の望みを違えた』
「……最後の望みは叶える必要がなかったからな。だから、あの女の識域下に眠る望みを叶えてやったまでだ」
漆黒の悪魔は何でもないように答える。
『その魂を天使に引き渡すことがかっ! このままではお前は魔界を追われる、二度とこの地は踏めないんだぞ。それでもっ……』
「そうだな、日本にでも居を構えようか。魔王の相手に飽きれば、お前も遊びに来るといい」
『マキュっ……』
「その名も捨てる。これからはフェッロ……いや、クロガネと名乗ることにしようか。日本だからな」
悪魔の真名を口にしようとしたエルマーダを制し、漆黒の悪魔は新たにみずから名付けた名を告げた。その顔には、どこか清々しげな表情が刻まれている。
『決めたのか……もう』
「ああ、魔王補佐官のお前には迷惑をかけることになるが……」
心持ち肩を落とした様子のエルマーダに、フェッロ改めクロガネは少々決まりが悪そうな表情を浮かべた。
『今さらだ』
「まぁ、違いないな……本当に済まん、兄上」
『もういい、行け。目障りだ……クロガネ』
虫でも払うように手を振り、言ったエルマーダの呼号に彼は微笑むと、その手に握っていた水晶球が床に転げ落ちる。エルマーダが足もとに転がってきたそれに視線を移し、目を上げたときには、すでにクロガネの姿はかき消え、空の玉座だけがその場に残されていた。
* * *
『……それでは、次のニュースです。イタリア北部モデナにある古代ローマ遺跡から、男女の人骨が発掘されました。埋葬時はお互いを見つめ合い、その手を繋ぎ合った姿勢だったとみられ、約千五百年ぶりに地上に姿を見せた強い絆が話題を呼んでいます』
殺風景な六畳間の畳の上、寝転がっていた男が勢いよく上体を起こす。つけっぱなしだったテレビでは、ニュースを読み上げる女性アナウンサーから丁度現地のニュース映像に切り替わったばかりだった。
掘り返された発掘現場に横たわる二体の白骨死体……その手もとを大写しにしたカメラ映像では、確かに骨になっても手を握り合っている様子が映し出されている。
『地元の研究者の話では、二人の埋葬時期は西ローマ帝国が終末を迎えた五、六世紀頃と見られ……』
「ちゃうっ、五百年前! 研究者、盛り過ぎやろ」
男はアナウンサーの説明に間髪入れずに訂正を入れる。
『年齢や関係は不明。手をつないでいることから、恋人か夫婦の可能性があり、研究者は「多くの発掘に携わったが、こんなに感動したのは初めてだ」とコメントしています。また……』
「年は二十代後半、二人は夫婦や……嫁は病死で旦那は後追い自殺! あーっ、しょーもないニュース!」
さらに、早口の関西弁でまくしたてるようにすべてを否定すると、彼はテレビの電源をブチンと切った。不愉快そうに鳥の巣のような金髪の頭をバリバリと掻きむしっていると、隣の部屋からインターフォンを鳴らす音が耳を突く。
「鍵開いとるから、勝手に入ってー」
大声でそう返すと、男は胡坐をかいた畳の上からのそのそと立ち上がって、そちらに向かった。
「……貴方がクロガネさん?」
「願いを何でも叶えてくれるというのは、本当なんですか?」
安アパートの形ばかりの玄関に立つ夫婦らしき中年の男女は、彼の姿を見て目をパチクリする。首周りの伸びたTシャツに、着古したジーパン姿という金髪碧眼に褐色の肌の男(しかも、怪しげな関西弁)が、不法滞在する外国人にしか見えなかったのだろう。
「あー、俺がクロガネや……正真正銘、この通り悪魔や」
そんな二人に男はニヤリと笑いかけると、胸を張って両手を組む……すると、その背からは蝙蝠のような漆黒の羽が、両方の耳の裏側からは同じ色の角がニュッと生えてきた。その様子を目の当たりにした夫人は口もとを押さえてのけぞり、夫は慌ててふらつく彼女の肩を支える。
「……失礼、突然だったもので」
「ええ、ええ、気にせんで。信用したなら、さっさと上がった、上がった」
クロガネは元のように羽と角を元のようにしまうと、二人を部屋の中に招き入れた。さきほどの畳の間で夫婦と差向いで胡坐をかくと、彼はさっさと話を切り出す。
「……で、依頼は何やねん?」
背筋を伸ばして正座をする目の前の二人は、どちらも見てくれだけでなくとても善良な人間だ。魂のランクは最上級、そして、同じように額に死神の刻印を刻んでいる。死期が近いのだ。
「俺の信号を受け取ったっちゅーことは、もう先はない。わかってるやろ? 俺は、あんたらが心残りがないよう手助けしたる……見返りはコレや。ウチは見返りに魂を、なんて古いやり方してへんから」
己の商売の説明した言葉を一旦切り、クロガネは顔の横に上げた手の人差し指と親指で輪を作った。
「良心的な金額設定に、アフターケアもばっちしやって評判なんやで……」
「わかりました、お願いします」
どう見ても怪しげではあるのだが、藁にも縋る思いなのだろう夫婦はそう言って頭を下げた。
「実に物分かりのええ……あんたらにはオマケしとくわ。アフターケアも任しとき」
クロガネも気をよくしたように答える。
「ありがとうございます。私達の身はどうなってもいいんです……けれど、娘だけはどうしても助けてやりたいんです」
目に涙を溜めた夫人は手に持っていたバッグの中から写真を取り出し、クロガネの前の畳の上に置いた。
「沢村斎、私達の一人娘です」
何度も頭を下げる二人の言葉も耳に入っているのかどうか……クロガネは目を皿のように見開き、目の前の写真に見入っていた。
亜麻色のまっすぐな髪、強い意志を思わせる大きな双眸に、すっきりとした鼻梁、真一文字に引き結ばれた唇は、微笑みを刻めばどれだけ魅力的だろうか……その写真に手を伸ばし、触れた瞬間に彼女のすべてが脳髄を駆け巡る。
目に見えない死神の印を額に刻まれた彼女の魂は、両親をさらに超える極上品だ。どんな裏取引を持ちかけても、死神は彼女の死期を見逃してはくれないだろう。
それでも……。
「わかった、俺が何があっても守ったる」
写真に視線を置いたまま真摯な表情で深く頷いたクロガネに、彼女の両親はようやく緊張の面持ちを解き、ホッとしたようにお互いの顔を見合わせ、微笑み合う。
五百年ぶりに、悪魔の心臓が跳ねた。