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守りたかった、守れなかった

アドニスを連れて帰国を目指したルーヴェリアだったが、呪いの進行は思っている以上に早かった。

もう助からない、頭ではわかっているのに認めることができなかったのは、彼女にとってアドニスが特別な存在であるからだと気がついたからだった。

『殿下、初めてお会いした時のことを覚えていますか。

今は過ぎ去った夏の日、太陽が眩しかったですね。

私の膝丈ほどの背しか無かった貴方が私を見上げた時、翡翠色の瞳が宝石のように輝いていて、綺麗だと思いました。

同時に、戦いというものを知ってその瞳が曇ってしまわないか恐れました。

争いは人の心も殺めてしまうからです。

でも貴方はただ、直向きに歩んでおられましたね。

何度私に打ちのめされても、果敢に課題に挑んで、叩きのめされて、それでも前を向いていた。

そんな姿に憧れていたんです。

私は未だに過去の記憶を引きずって、度々後ろを振り返っては、道に刻まれた死の数に震えていたから。』


流れる雲が月を隠して、一瞬だけ陰が差す。

光が戻ったら、彼の瞳から光が奪われるのではないかと思った。

でもまだ、大丈夫らしい。


『殿下がお誕生会の後に誘拐されたこともありましたね。

肝が冷えたんですよ。

この国の第二王子だからというだけでなく、私の大切な弟子が危険に晒されていると思うと、本当に怖かったんですからね。

ご無事でよかった。

そういえばあの時、お礼にとブローチを贈ってくださいましたね。

今でも大切に身につけております。

澄んだ青色をしていて、見る度に心が安らぐような気がして。

実は毎日、身につける前に十数秒は眺めているのですよ。』


彼が瞬いた。驚きからなのか、嬉しいからなのか、意外だと思ったからなのかは分からないが、反応が返ってきたことが嬉しかった。

舟も順調に進んでいる。

この分ならまだ、大丈夫だと信じたかった。

だからもっと過去の記憶に思いを馳せる。


『それから数年ですか。

化け物だの怪物だのと私が呼ばれていても気にもせず、何かと話しかけてくださいましたね。

鍛錬も順調に進んで、剣の腕も申し分なくなって。

シエラの話では、ヴィリディス殿下も剣を褒められていたとか。

私は誇らしく思いました。

その頃から、帝国とはいざこざが増えていましたね。

小競り合いとはいえ戦が起こるたび、貴方が心を痛めていたのを知っています。

なんと声をかけて差し上げれば良いか分からなくて、私は何も言えませんでした。

殿下は沢山成長していたのに、私は何も成長出来ていなかった。

クレストのように励ますことが出来たら良かったですね。

そうそう、急に騎士団長になると仰った時は心臓が口から飛び出るんじゃないかというくらい驚いたものです。

シエラから聞きましたよ、早く師匠に追いつくんだって城中にある禁書以外の書物を全て読まれたとか。

私が言えたことではありませんが、お体が心配でした。

全く、貴方は私を心配させてばかりですね。

でも私の後ろをついて回っていた貴方が、私の横に並んで立つようになって、嬉しかった。』


本当にそうだったろうか。

彼はちゃんと隣にいたんだろうか。

いつも先を行ってはいなかっただろうか。

生き急ぐように、死に急ぐように、私さえ置き去りにして走ってはいなかっただろうか。

待ってほしくはなかったか。

一度止まってほしいと思ったことはなかったか。

真っ直ぐ前だけを見て走る姿を見ていたが、それは……それは後ろ姿ではなかっただろうか。

月が一番高い位置で輝いている。

月光に照らされた彼の姿は悲惨だった。

足元は皮膚が溶け落ちて、骨が見えている。

その骨すら黒ずんでいて今にも崩れ去りそうだ。指先の方も。あの色が彼を蝕んでいく。

首元まで、もう。

ルーヴェリア「っ……」

失いたくない。

だから彼女は、部分的にでも元に戻らないか時間遡行の魔術を使ってみた。

でも、ダメだった。

先ほどと何も変わっていないことと、この侵蝕の早さでは城に辿り着く前に彼は死んでしまうと分かってしまった。

これが悪い夢なら良いのにと思った。

何年か前の自分が見ている夢ならば。

目が覚めたら身支度をして騎士団の宿舎に向かうのだ。

道中でクレストと合流して、稽古場で騎士団やアドニスに稽古をつけて。

昼前にだらしない格好をしたテオに小言を言って普段の倍走らせたりして。

覚めてほしい。醒めて。

いつの日かと同じ気持ちになった。

目を閉じて開いてみても、そこに広がる光景は何一つ変わらない。

アドニスの頬に温かな雫が一つ、二つと滴り落ちる。

ルーヴェリア「どうして、私が守りたいものは、この手からすり抜けていくのですか…?」

静かな、それでも力強かった彼女の声は、今や弱りきった小さな鳥のようだった。

アドニスはそんな彼女を慰めたかった。

泣かないで、大丈夫だから。

僕は死なない。生きてみせるから。

貴女のため、君のために。

そうして城に帰ったら、今度こそ父上と母上を説得するから。

もう寂しい思いなんてさせないから。

どうすればこの想いは伝わるんだろうか。

もう瞬きすら出来ない自分に。

魔力が渇いて心に話しかけることもできない自分に。

もどかしくて、もどかしくて。

その間にも雨は降ってくる。

仲間の誰かが死んでも、自分には涙一つ見せなかった彼女が泣いている。

ああそうか、僕は助からないんだね。

それを知ってしまったから、堰き止めていた何かが君の中で崩れてしまったんだね。

それならもう、僕にできることは君の話を聞いてあげることくらいだ。

でもちゃんと聞くから。

君の苦しみ、君の悲しみ、君の痛み、全て聞いているから。

重い目蓋を閉じないよう努めて、ぼやけていく視界を必死に目の前に広げた。

だから、沢山話してよルーヴェリア。

滴り落ちる雫の温度も感じなくなっていく。

彼女の口からは自分を責め立てる言葉が吐き出されていった。

ルーヴェリア「何が、何が戦女神だ…何が怪物だ……家族だけじゃなく、大切な仲間まで、手の届くところにいた人さえ、守れないくせに…」

君は誰かが死ぬたびにそうやって自分を責めてきたの?

そうか、だからクレストは君の側から離れることはなかったんだね。

君の孤独に気がついていたから。

ルーヴェリア「私は、自分の時間も家族も友人も戦友も何もかも奪われたのに…まだ、奪うの…」

世界が憎いんだね。

君から何もかもを奪うこの世界が。

理不尽や不条理で覆われた世界が許せないんだね。

ルーヴェリア「私にとって大切な人全て…」

そこまで言って、彼女は言葉を呑むように止めた。

彼は自分にとってどんな存在だっただろう。

家族とは違う。弟子というだけだった筈なのに、あまりに情が移りすぎた気がする。

テオのことは仲間だと思っていた。

クレストのことは戦友だと思っていた。

でも、アドニスのことは?

それらで括られるものだろうか。

どれだけ冷たく振り解いても屈託なく笑って、ただ真っ直ぐに明日を見つめるその姿に、焦がれただけだっただろうか。

違う。

知らない感情だ、私が唯一知らない感情だ。

抱いてはならなかったから、封じ込めていた感情の一つだ。

ああ、そうだ、私は。


──彼を愛していたんだ。


白む東の空。

小川を流れていく小舟は石にぶつかることもなく進んでいく。

ルーヴェリア「殿下、私の声は、まだ、聞こえていますか…」

瞬きの返事はもうない。

顔まで暗い紫色に似た赤色に染まってしまって。

ルーヴェリア「返事を…してください…」

無理だとわかっている。

微かな心臓の音が、更に弱々しくなっていくのが手に取るようにわかる。

ルーヴェリア「私の声は聞こえていますか…」

静寂の返答。

せせらぎの音が嘲笑っているかのようだった。

聞こえていなくても、聞こえていても、どちらでも構わない。

この想いを伝えたい。

本当は抱き締めたかったが、それによって彼の体が崩れ落ちては困るから、我慢した。

ルーヴェリア「殿下、私は貴方を愛しています」

うん、僕もだよルーヴェリア。

初めて君に会ったあの日、女神様のように美しかった君に心を奪われてからずっと。

僕は君を愛しているよ。

心臓の音はもう、聞こえない。

ルーヴェリア「私の声は聞こえますか…私の言葉は届きましたか…」

返事はない。

ああ、愛しいと想った人さえこの世界は奪う。

唯一恋情を抱けた人さえ。

この憎しみを、怨みを、どこに向ければ良いのか分からなかった。

けれど、彼に吐き出すのは違うだろう。

じっと自分を見つめる白濁した翡翠の瞳を見つめ返す長い沈黙の末に、日が昇る。

そうだ、貴方への愛を語ろう。


『殿下、貴方は私の初恋の人です。

馬に乗り、北方に広がる白銀の世界より美しい髪を靡かせて駆ける貴方が好きです。

儚げだった柔肌が、稽古を続けることで健康的な色に変わっていった貴方が好きです。

剣を握るたびに肉刺を作っては潰し、痛くても投げ出さなかった貴方が好きです。

死の恐怖と相見えても諦めない心を持っていた貴方が好きです。

冷えきった私の心を溶かしてくれる温かな声で話しかけてくれた貴方が好きです。

死して尚揺らぐことなく、真っ直ぐに私を見つめる翡翠の瞳を持つ貴方が、好きです。』


全部ちゃんと、聞いてあげたかった。

さらさらと流れる水の音と、小舟の軋む音と、彼女の声が混ざり合って、くぐもって、聞こえない。

せめて瞼くらいは開けていたかったのに、意に反してそっと閉じられた。

厚いすりガラス越しに見えていた景色はついに闇に閉ざされる。

ルーヴェリア「私の声は聞こえますか?私の想いは届きましたか?」

もう、醜い世界を見つめなくて良いと目を閉じてやりながら語りかける。

甘く刺すような腐臭に寄せられて虫達が鎧の隙間に入り込んでいくのを見た。

今晩には、蛆が這い始めることだろう。

焼き払ってあげた方が良かったかもしれないが、未練からそれは出来なかった。

できるだけ長く一緒に居たかったから。

顔の皮膚が溶け、剥がれ落ちて、黒ずんだ骸骨が剥き出しになる。

その頬に唇を寄せて、崩れてしまわないように優しく、そっと触れた。

もっと早くにこの気持ちに気がついていれば。

いや、本当は時折あった。

剣を打ち合わせた時、食事時、朝にかわす挨拶の時など、時間も場所も問わず彼の笑みに胸が高鳴ることが確かにあった。

失うのが怖いから、見ないふりをしていただけで。

でも結局こうなるのなら、そんなことせず素直に認めていたら良かったのに。

そうしたら、彼が自分をどう思っているのかくらいは分かっただろうに。

後悔はいつも影のようについてくる。

城に帰ったら、丁寧に、丁寧に葬ってあげよう。

それからクレストも迎えに行って。

魔王の棲家となった帝国を壊しにいこう。

空を見上げると、高く昇った日が照っていて少しだけ暑さを感じる。

水辺だから湿度が高いのもあるかもしれない。

風が時々周囲の木々を揺らしてさわさわと音を立てる。

羽虫が彼の鎧の中に入っていく。

腐った臓腑から放たれる強い香りに誘われて、一匹、また一匹と。

骨が崩れ落ちた首元に見える空洞からは、白いものが蠢いているのが見えた。

舟が、時間が進むごとに、彼の形は無くなっていく。


『殿下、貴方をこんなにも恋しく思ったのは初めてです。

他の騎士達と談笑する貴方が恋しい。

鍛錬中私の剣技に苦笑する貴方が恋しい。

汗を流したいと水を浴びて無邪気に笑う貴方が恋しい。

休暇の日にはクレストの奥さんが経営する食事処に行こうと約束して、嬉しそうにしていた貴方が恋しい。

貴方が私を呼ぶ声が恋しい。

いつも訂正するよう言っていたのに、いつまでも師匠と呼ぶ貴方が恋しい。

一度くらい名前で呼んでほしかったけれど、あのやり取りを恋しく思うくらいには、悪くない会話でした』


「師匠」

「ルーヴェリアです、殿下」


お決まりの会話。

過って止まらない思い出。

新しい記憶に触れるたびに流れる涙。

溢れてやまない、もう戻ることの出来ない時間。

守りたかった。守れなかった。守れなかった。

いつの間にか夜半の月が顔を覗かせている。

地図がないので憶測でしかないが、明日の夜には城に着くだろう。

きっとその頃には彼の体は跡形もなく消え去っている。

だからそれまでは。

虫が張っていようと構わない。

ただこの想いを貴方に語りながらその時を待たせてください。

サフラニアは私が守ります。


そうして迎えた帰国の時には、城壁から漏れる灯りは無かった。

一切の音も無く、生命の気配も、無かった。

【おまけ】ある日の騎士談


君を初めて見た時。

太陽光を反射して黄金色に輝く艶やかな髪と、青空を嵌め込んだような美しい瞳に心を奪われた。

精一杯手を伸ばしても決して届くことのない空の上の人のように感じて、幼い頃から君の背を追いかけていた。

女神のような君に振り向いてほしくて、女性にはどんなものを贈れば喜んでもらえるのか、シエラに相談したこともあったんだ。

ふふ、シエラの驚いた顔が今でも忘れられないよ。

君はいつも僕に名前で呼ぶよう指摘していたけど、なんだか恥ずかしくて呼べなかったんだ。

それを君はどう感じていたかは分からないけど、今はすごく後悔しているよ。

最期の日に声まで奪われると分かっていたなら、ルーヴェリア、君の名前をちゃんと呼んであげれば良かった。

休日にはクレストの奥さんが経営しているレストランに行こうって話をしていたね。

約束、守れなくてごめんね。

君が背負っていたものがあまりに多過ぎて、大き過ぎるように感じた。

だからその痛みや苦しみが少しでも和らぐのなら、僕はなんでもしようと思っていたんだ。

君を苦しめるものは、たとえ神様であっても殺してしまおうとすら思っていたんだよ。

でも所詮、運命に抗えない僕ごときじゃ無理だったね。

いつかどこかで君を見つけたらその時は……。

僕が君を、幸せにしてあげたいな。

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