15.合理的な考え
工房の方向から叫び声が上がったにもかかわらず、私はラウンジ脇にとめてある自転車に向かった。
工房までの距離でも自転車の方がきっと早い、と自分に言い訳をする。
自転車であれば前回のように豚マスク男を振り切れると思ってしまったからだ。
叫び声は女性の声だった。
美羽か唯の声だったように思う。
もし、どちらかが襲われていたとして、自分は逃げずに豚マスク男に向かって行けるだろうか?
迷いながらペダルを漕ぐ。
ガレージのようなつくりの工房は、入り口側には扉も段差もないので、自転車のまま工房内に進む。
中には誰もいなかった。
もちろん智輝もすでにいない。
私が置いた釣り道具とギターもそのままだった。
ギターを持っていきたかったが、自転車に乗せて走るのは難しそうだ。
さっき調べた引き出しに他にめぼしい楽器はないか探す。
まだペットボトルマラカスを作っていないため、豚マスクに遭遇して戦闘になってももほとんど何もできない。
「ハミングで小回復くらいか…」
歌が聞こえた自分が回復するのだから、バードコールの音やタンバリンの音も自分に作用するという法則なのだろうか。
確かに、とも思うがなんだか腑に落ちない。
そういえばギターはどうなんだろうとステータスを確認してみる。
結局、智輝はギターの修理をできていなかったようで【こわれている】ままだった。
ギターを前にすると先ほど智輝に襲われた生々しい感触がよみがえる。
自業自得ではあるけれど、あれは、ファーストキスだったのだ。
今日の朝からやりなおせれば、あんなキスだってなかったことにできる。
今日の智輝はリセットされたほうが唯にとっても智輝にとってもよいのではないか。
そのためには……
悲鳴が上がったということは豚マスク男が出現したということだろう。
今のうちに自転車でできるだけ遠くまで離れて、「ぜんめつ」を待てばリセットできる。
どうしても胸の奥から「合理的な」考えががあふれてくるのを抑えられない。
合理的に考えれば、
今日をなかったことにしてしまえば誰も傷つかない。
私が生き残って逃げおおせるのが賢い。
あの悲鳴が上がった時点で誰かは死んでいる確率が高い。
丸腰の私が頑張ったところで豚マスク男に勝てない。
そうだ、私一人で逃げるのが、一番合理的なんだ。
私は無意識に探し物を楽器から自転車の空気入れに切り替えていた。
工房内をざっと見回すが空気入れはない。
ラウンジ横の自転車置き場には置いてなかっただろうか。
戻って探してみよう。自転車を押して工房をでる。
「香菜!」
声をかけられて振り向くと航一郎だった。
緊張で体が固まる。
無意識に首に巻いたスカーフを抑える。
「ここにいたんだ、どこに行ったのかと思った!」
航一郎がふいに抱き着いてきて、さっきもこんなことがあったなとデジャヴのような感覚に襲われる。
「あっ、ゴメン」
航一郎は慌てて体を離そうとするが、私はとっさに航一郎のシャツを掴んだ。
人の体温に包まれていると、智輝に乱暴にされた記憶や夕べ豚マスク男に襲われた恐怖が和らいでいく気がする。
「か、香菜?」
「ごめん、ちょっと……怖くて」
子供のように航一郎の胸に顔をうずめる。
航一郎の手は置きどころなく宙をさまよっている。
「さっきさ、唯が外でシカみたいなのの死体をみつけて」
「叫び声は聞こえた。唯だったんだ」
焦った気持ちを誤魔化すように航一郎がすこし早口になっている。
そんな航一郎とは裏腹に私は冷静に、豚マスク男が現れたのではなかったかと考えていた。
「うん。ちょっと不気味だし、いったんここを離れようってことになって。
いま、智輝たちは湖にもっていった荷物を取りに戻ってて、俺は、香菜を探しに行けって美羽に言われて……」
「美羽が……?」
「うん。さっき香菜にキツイこと言っちゃって気まずいからって」
美羽にしてはめずらしいな、と思ったが口には出さない。
「ありがとう。落ち着いた」
航一郎から身体を離す。
「美羽たちと、何か、話した?」
航一郎の表情の変化をみたかった。
「ああ、ステータスのこと?
シカの死体をみたときに、香菜が行ってたステータスとかの件、いちおう話したんだけど、美羽にふざけてるのかって怒られちゃって」
「そっち……?」
この様子だと、美羽も唯も首筋のキスマークや口紅がよれていた理由を航一郎には話していないようだ。
「とにかくさ、行こう」
ギターも釣り道具も航一郎が持ってくれたので自転車を押していく。
この期に及んでまだ逃げることを考えている自分は利己的な人間だと思う。
でも、おそらくだが、自分が逃げのびるか、豚マスク男を倒さなければずっとこの世界に閉じ込められたままになるだろう?
もし、誰かが殺されるようなことがあれば、やり直すためにも自分には逃げる使命がある。
それが、恐怖心から出た言い訳なのだと私はまだ自覚していない。




