ウエストがちぎれるんじゃない?
侯爵は、わたしが獣医師になる為の勉強をしたいとか、学費を貸してくれとか、勉強に集中したいから公の場にはいっさい出ないとか、ありとあらゆる類のワガママをきいてくれる。しかも、そうたいして詮索せずにお金を貸してくれる。
離縁をしてくれないことに対してはムカつくけれど、こういうところは感謝している。
とくに費用面については、彼がいなければなにも出来なかったから。そして、がんばれたことについても彼に感謝している。
いつも彼の美貌に浮かぶやわらかい笑みを見ると、彼に離縁された後がんばっていかないと、と気合いを入れてしまう。
それがいつになるかはわからないけれど。
「く、苦しいわ。サンドリーヌ、コルセットを緩めてくれない?」
「お嬢様、それは出来ません。苦しくても死ぬことはありません。苦しいのは、お嬢様が夜中にクッキーを食べたり、毎食おかわりをするからです」
わたしの背後でサンドリーヌは腰に手を当て「フンッ」と鼻を鳴らしている。
鏡に映る彼女は、まるで書物に出てくる意地悪なメイドそのもの。
こうして哀れなヒロインは、メイドにさえ蔑まれ惨めな思いをするのである。
もっとも、いまのわたしは彼女のド正論に返す言葉がないだけ。
「ええ、そうね。きっとそうよ。だけど、このままでは王宮で食事がいただけないわ。出されたものは残してはダメでしょう?」
「そのようなことはありません。いまどきのレディは、『もったいない』はどうでもいいのです。いかに痩せ細って見えるかが大切なのです。つまり、だされたものは残す。体裁上、『一応手はつけましたよ』と装っておくのがマナーなのです」
「そんなバカなことってある? 信じられない。食材をバカにしているわ。作ってくれた人に対して申し訳なくないの? なにより、『もったいない』の神を冒涜している」
コルセットを緩めてもらうだけで、どうしてこんなに熱く議論をするのかしら?
「それが平和でものが溢れているいまどきの風潮なのです」
鏡に映る彼女は、大きな溜息をついた。
二人ともわかっている。そのようなことをしているのは、裕福な者だけであることを。
公の場や日常のテーブルにかぎらず、多くの貴族たちが食事を粗末にしている。男女にかぎらず、体を動かすことがないのでお腹が空かずに食べることが出来ないとか、痩せた体を維持したい、もしくはもっと痩せたいという理由で食べない人たちがいる。
が、世の中はそんな贅沢なことが出来ない人がほとんどである。それどころか、一食の糧でさえまともにありつけない人たちもいる。しかも、その数は少なくない。
彼女とわたしは、そのことを知っている。わたしたちもそうだったから。それでも、ほんとうの地獄をあじわったわけではない。ほんとうの飢餓というのは知らない。だから、わたしもまだ考え方が甘いのかもしれない。
とはいえ、貧乏のあまり飢えたことはたしかにあった。
それもいまは、そんな心配はいっさいしなくてよくなった。
それもまた、侯爵のお蔭であることはいうまでもない。
コルセットがきつすぎるほど食事やつまみ食いをさせてもらっているのだから。
これもまた、贅沢すぎることによるもの。
人間は、その環境に慣れてしまえばそれが当たり前のようになってしまう。感謝を忘れ、傲慢にさえなってしまう。
あらためてそのことに気付かされた気がした。
もちろん、離縁のことは別だけれど。
結局、コルセットは緩めてもらえなかった。
ウエストの辺りがちぎれてしまうのではないかと冷や冷やしつつ、自室を出てエントランスに向った。