シルヴェストル侯爵領へ行くことに……
「マヤ、それはそうかもしれんが……。だが、なにも他の領主を頼る必要などなかろう。それに、おまえを置いていく? そもそも、おまえはわたしの妻ではない。娘だ。厳密には、おまえはもうソニエール男爵家の令嬢ではない。シルヴェストル侯爵家の人間だ。侯爵の妻だ」
「お父様っ」
おもわず両の拳を握っていた。
お父様は、わたしが契約妻であることを知っている。というか、何度も話をしている。それなのに、ソニエール男爵令嬢ではないだなんて……。
なにか突き放されたような気がした。寂しくなった。
ただ、お父様はわたしが侯爵の契約妻であるということがピンとこないらしい。それこそ、書物の筋書き程度にしか理解していない。何度話をしてもすぐに忘れてしまう。というか、とぼけてしまう。
(ダメだわ。これでもう何度目なの? やはり、お父様は理解してくれていないのね)
こういう契約結婚とか偽装結婚は、いまでこそ横行している。若い世代は、簡単に夫婦を装ったり結婚しているふりをする。流行りすぎていて、巷では「白い結婚」などともてはやされている。
もっとも、それもどうかと思うのだけれど。
とにかく、古い世代であるお父様たちにはもともとそういう概念がない。
結婚するということは、妻を娶る、あるいは夫に嫁ぐのはひとえに愛があってのこと。
愛こそががすべてなのだ。
「とはいえ、正直なところわたしもひとりでは心細かったところだがね。だから、よかったよ。ひとりでなくて」
お父様は、両肩をすくめた。その意味するところは分からないけれど。
「マヤ。おまえだけでなく、侯爵もいっしょにいってくれるのだ。というよりか、侯爵領に戻るのだ。いっしょで心強いよ」
「な、なんですって?」
自分の怒鳴り声が耳に痛かった。
(侯爵もいっしょに行くですって? ではなく、戻るですって?)
目の前がチカチカしてきた。
侯爵とお父様と夕食をともにしてから、とんでもなく忙しくなった。
結局、わたしはお父様といっしょにシルヴェストル侯爵領に行くことになった。
そのことはいい。
わたしのやりたいことの半分はかなうのだから。
契約期間中、がんばって学校に通って、というよりか通わせてもらって獣医師になるべく勉強し、資格を取得出来た。その資格があれば、お父様の手伝いが出来る。
しかし、しかしである。それは、あくまでも離縁され、ほんとうの意味で自由になってからのこと。
自由を得、ほんとうの意味でのひとりに戻ってからお父様と新天地で生活をはじめたい。あらたに一歩をみ出したい。
そこに侯爵は存在しない。そこに彼の居場所はない。
それなのに、実際は彼もいる。彼の領地だし、彼がスポンサーだし、彼も手伝うなんて言っているし。
(というか、騎士団長が自分の領地とはいえ辺境の地へ行っていいの?)
不可思議でならない。不可思議でならないけれど、もちろんわたしが彼にそのことについて尋ねるつもりはない。
そのことだけではない。どうしてお父様の援助のことを教えてくれなかったのかとか、どうして侯爵まで行くのかとか、いろいろ尋ねたいことはある。
しかし、やはり尋ねる気にはならない。
侯爵領に行くというよりか戻るのは、この屋敷で働いている使用人たちもである。彼らのほとんどが、侯爵領か、もしくはその周辺の出身だとか。旅系料理人であるレナルドでさえ侯爵領の出身らしい。もっとも、だからこそ領主である侯爵家の料理人になったのでしょうけれど。
今日は、国王と王妃に暇乞いをすることになっている。
わたしが、ではない。侯爵が、である。騎士団長だから当然といえば当然。わたしは、妻だからである。
いうまでもなく表向きは、だけれど。
というわけで、朝からサンドリーヌに謁見を含めた公式の場用のド派手な色合いでありえないデザインのドレスを着せてもらっている。
サンドリーヌも当然侯爵領へ行ってもらう。
侯爵は、離縁は拒んだとしてもそれ以外のことは寛容なのでである。