呼び出し
「マヤ。あなたは、ほんとうに強情だ。それならば、命じます。ふたりのときもマックと呼びなさい」
(なんてこと。侯爵、強情なのはあなたも同じよ。だけど、命じられたら仕方がない。なにせわたしは雇われている身。彼に逆らえるわけはない)
「わ、わかり、わかりました、侯爵閣下、では、なくて、マック」
「それでいいのです」
侯爵は、殺人的抱擁からやっと解放してくれた。
「マヤ、おやすみの口づけをしても?」
が、わたしの雇い人である彼は、まだわたしを許してくれるつもりはないみたい。彼のある意味折檻は、終わっていないようだ。
「『おやすみの口づけ』ですって? そもそも、それをする相手が違うでしょう? ぜったいにお断りです」
だってそうでしょう?
理由は、もう述べる必要はない。
「ど、どうしてですか? わたしたちは、夫婦なのですよ」
「あくまでも契約夫婦です。まがいもの、です。あるいは、偽装でしょうか。いまの流行的に言えば、『白い結婚』ですけどね。たとえ挨拶とはいえ、過剰なスキンシップはいかがなものでしょうか? まぁ馬とだったら大歓迎ですが、侯爵とはっていう感じですね」
侯爵のこの形のいい唇は、わたしなんかより彼自身の愛するレディの口やその他の体の部位に触れるべきもの。
けっしてわたしみたいな馬糞臭のきつい、「ちんちくりん」の唇や体のどこかに触れるべきではない。
「マヤ、なにを言っているのです? たかだかおやすみの口づけではないですか」
「たかだかだからこそ、なのです」
「ほんのちょっと頬にチュッとするだけです」
「それがダメなのです」
「『それが』、とはなにがダメなのです?」
侯爵は、駄々をこねはじめた。
もう付き合っていられない。だから、背を向けようと上半身をよじった。
その瞬間、頬になにかがあたった。
「ほら、あっという間でしょう?」
ハッと見上げると、彼の美貌が勝利で輝いている。
あろうことか、頬に瞬時に「チュッ」したのだ。
「ま、まぶし……」
キラキラ感が半端ない。とっさに両手で目をかばったけれど、それでも目がくらんでしまった。
それにしても、侯爵って子どもみたい。
まぶしさに目が慣れてくると、こんどは可笑しくなってきた。
可笑しいと思うと笑ってしまう。最初は遠慮して口に手をあてて笑っていた。だけど、ツボにはまってしまったのか、笑いがとまりそうにない。
そのわたしの様子を見ていた侯爵も笑い始めた。
結局、ふたりして廊下で大笑いし続けた。
その笑い声をききつけたミレーヌが、「楽しそう」と廊下に出てきた。
結局、三人で笑い続けてしまうという謎の状態を迎えたのだった。
明け方、呼び出された。
宰相に、である。すくなくとも、彼のシルヴァン・プランタードの名で呼び出された。
わたしだけではない。お父様と侯爵も。それから、なぜかミレーヌも。
すぐにということで、慌てて乗馬服に着替えてみんなで向かった。
プランタード公爵家に到着したけれど、早朝ともあって近隣の屋敷は寝静まっている。どこもかしこも人の気配がまったく感じられない。
出迎えてくれたのは、プランタード公爵家の使用人や宰相の護衛のダークスーツ姿の男たちでもなかった。
先日、侯爵のもとに訪れた客人が連れていた部下のひとりだった。
彼の案内で向かったのは、古びた館である。
このときはじめて、プランタード公爵家には旧館と新館があることを知った。
とはいえ、旧館といってもそこまで古いわけではない。外観は、まだ十分使えそうな感じに見える。
どこか見た覚えのあるその外観に、「どこにでもある様式よね」と思い直す。
そして、みんなに続いて中に入ってみた。
旧館内も、掃除さえすればすぐにでも使える状態である。
「さほど古くもないのにどうして使わなくなったのだろう」と、不思議に思った。
同時に、違和感を抱いた。
どこかで見たことがあるとか、ここに来たことがあるとか、そういうデジャブー的な違和感を。
一歩足を進める度、その思いは強くなっていく。
そうして、案内人はある部屋の前で歩を止めた。
「マヤ、きいてくれ」
お父様は、案内人に待ってくれるよう声をかけてからわたしの前に立って言った。
「この扉の先には、悲惨な光景が広がっているだろう。もしかすると、おまえにとってつらすぎる結果になるかもしれん。おまえを連れてきたが、ここから先はわたしの意思でなくおまえ自身の意思で行くか行かないかを決めて欲しい」
訳が分からないけれど、お母様に関係することだということだけは分かる。
先程からのデジャブー的感覚がその証拠。
(デジャブーがあるのなら、もしかするとほんとうにここに来たことがあるのかもしれない。そして、わたしの記憶が失われたのも、ここでだったのかもしれない)
そう直感した。
その直感は、おそらく正しい。
だとすると、一択しかない。




