殺人的抱擁
「ああ、まさかっ」
おもわず、大声を出してしまった。
(いつも思うけれど、わたしってほんとうにバカね。彼が話があるといえば、わたしたちの関係についてにきまっているでしょう? そうよ、そうなのよ。ついにあの話ね。離縁のことよ。念願の離縁よ。離縁してくれと言われるのよ)
どれだけ願ってやまなかったことか。どれだけ望んでいたことか。どれだけ夢にみたことか。
だから、『やったぁっ!』とよろこべるかと思った。
だけど、なにか違う。
よろこびとは違う感情が、体内と脳内を駆け巡っている。
なぜか急に彼の話をききたくなくなった。これ以上、彼に喋ってほしくなかった。
「その、侯爵閣下。その話、いまでないといけませんか? いま、すごく眠くて。頭が回転していません。明日でもよければ、明日ききたいのです」
(いやいや。頭はいつだって回転していないわよね?)
自分で自分にツッコんでしまったけれど、とりあえず先延ばししたかった。
「もちろん。わたしの話は明日でも大丈夫です。体は、休めた方がいい。明日にしましょう」
「ありがとうございます」
同時に立ち上がった。
ミレーヌと使った食器類を集め始めると、彼が自分がやると言ってくれたので甘えることにした。
「ミレーヌの相手をしてくれてありがとうございます。彼女、あなたのことがすごく好きなのです」
侯爵は、いつものようにやわらかい笑みとともに言う。
が、複雑な内容すぎる。
(彼は、『彼女がきみが好きなのは、ほんとうに愛されているレディの余裕だよ』とでも言いたいのかしらね?)
意味もなく、カチンときてしまった。というよりか、「理由もなくカチンときた」といった方がいいかもしれない。
だから、頷くだけにとどめた。
彼に笑顔を向けたつもりだけど、強張っていたのに違いない。
「マヤ、おやすみのハグをしても?」
彼がローテーブルをまわってこちらに近づいてきた。
「まぁ、おざなりのハグ程度なら」
よくある形だけのハグなら、とやかく言われないだろう。もちろん、ミレーヌにだけど。
彼女のようなハグをはるかに凌ぐ超ハグでないかぎり、許容範囲内のはずである。
彼がわたしの前に立ち、ハグしてきた。
それはもうきつくて熱いハグだった。
(もしかして、このハグは護身術かなにかなの? 相手を絞め殺す技的なもの?)
そう勘繰ってしまうほど苦しい。
だから、負けじと絞め返した。
その状態がしばらく続いた。だから、しまいには肩で息をするほど疲れてしまった。
(まったくもう。わたしったら、こんなことまで負けず嫌いなんだから)
やっと彼に解放された。わたしも彼を解放する。
集中しすぎと力をこめすぎで、酸欠状態になっていた。
彼に「おやすみ」をいう気力もないほど、疲れてしまった。
とんだ力技のハグだった。
そして、わたしは自室に戻った。
必要ないのに、「きみの部屋まで送るよ」と言ってきかない侯爵を引き連れて。
そして、わたしの部屋の前までやってきた。
「侯爵閣下、おやすみなさい」
扉のノブに手をかけ、侯爵におやすみの挨拶をした。
わざと彼を見上げない。
なぜなら、廊下の灯火を吸収しえムダにキラキラ光って見える。まぶしくて目がくらんでしまうのである。
「マヤ、待って下さい」
扉を開きかけたタイミングで、彼に肩をつかまれた。
と認識した瞬間には、ぐるりと振り向かされて彼の胸の中にいた。
またしても強烈なハグ。というよりか、殺人的抱擁に見舞われる事態に陥ってしまった。
「こ、侯爵閣下、く、苦しい」
分厚い胸板におしつけられている。息が出来ない。喘ぎつつ、訴えてみた。が、彼のわたしを抱き寄せる力は、いっこうに弱まらない。
「マヤ、侯爵閣下はやめてください」
「で、ですが、候、侯爵閣下。侯爵閣下、は、侯爵、閣下、で、す。わ、わたし、は、あなたに雇われている契約、妻。つまり使用人、なのです。そこの、ところは、きちん、と、すべき、です」
息も絶え絶えとは、まさしくこのこと。
「それでしたら、雇い主としてあなたにお願いします。わたしには、マクシミリアン、通称マックという名があります。ふたりでいるときもそう呼んで欲しいのです」
「それ、は、出来、ません」
だってそうでしょう?
ふたりの関係があやふやになってしまう。わたし自身を戒める為にも、彼を爵位で呼ぶべきである。