おたがいの顔の距離が近すぎっ!
「わたしのほんとうに愛するレディ? まさか、ミレーヌのことですか?」
「彼女しかいないでしょう? あなたのほんとうに愛するレディといえば、彼女でしょう?」
「ですから、ミレーヌは……。まぁたしかに、ある意味では愛するレディですが……」
「ほら、ご覧なさい」
鼻息荒く勝ち誇った。
この期に及んでグズグズと認めないのは男らしくない。それをようやく認めさせたのである。
「彼女は、なんともありません。ケガどころか、かすり傷ひとつ作っていません」
「ほんとうなのですね?」
「え、ええ」
「それならよかったです。彼女になにかあったら、あなたに申し訳なさすぎますから」
「心配には及びませんよ。なにせ彼女は……」
「グルルルルル」
わたしのお腹は、彼が口を開いている最中でもおかまいなしに自己主張する。
「これは失礼しました。そうですよね。起きたばかりのあなたには、わたしとの会話より栄養補給の方が重要ですよね」
ふたりの顔が近いままである。彼の碧眼にわたしが映っている。わたしの黒い瞳には、彼が映っているはず。
苦笑している彼の美貌が……。
「ええ、そうですね。お腹が減って減って死にそうです」
その彼に嘘をついた。
いいえ、違う。まったくの嘘ではない。お腹が減って死にそうだけど、食事が彼との会話より重要事項かというとそうではない気がする。
だけどまぁ、侯爵との会話は食事後にでも出来るわよね? 急ぎの用事ではないのだから。
だったら、まずは食事よ。
「そうですよね……」
彼の苦笑がさらに苦々しくなった。というよりか、苦しそうな感じに見える。
気のせいかもしれないけれど、わたしにはそのように見えた。
「では、わたしはこれで。落ち着いたら、あらためて話をしてもらえますか?」
落ち着いたらって、領地への移動やそのあとの片付けなども終ってからね。
それだと、ずっと先になりそう。
でもまぁ、彼がそのつもりならそうしておきましょう。
宰相の出方もあるけれど、その動きにいかんによっては、わたしは領地に行かない方がいいかもしれないし。
「ええ、考えておきます」
だから、彼に「話をする」とは約束しなかった。
もしも約束を破ることになったら心苦しいから。
「マヤ……」
不意に彼の右手が伸びてきて、わたしの左頬をやさしくなでた。
よだれの跡でもついているのかと、一瞬ドキッとした。
が、彼の美貌がますます近づいてきて……。
鼻の頭と頭を擦り合わせられそう。ついでにおでことおでこをごっつんこさせられそう。それほどおたがいの顔の距離が近い。こういうのを不愉快すぎる距離感というのかしら?
(えっ? 顔の距離が近すぎよ。これって、まさかわたしの……)
いままでにないほど焦った瞬間……。
「お嬢様―っ、侯爵とイチャイチャするのもいい加減にして下さいよ。さっさとランチにしてください」
サンドリーヌの大声が扉の向こうからきこえてきたときには、部屋の扉が勢いよく開いていた。
彼女は、ランチらしきものをのせたトレイを胸元に抱えている。
「まあああああああっ!」
サンドリーヌの悲鳴にも似た叫びとともに、侯爵の顔がわたしのそれから離れてしまった。
シルヴェストル侯爵家の名料理人レナルドは、わたしの為に得意のミートパイを焼いてくれていた。それとサラダと白パンとチーズ。ベリージュースとヨーグルトも添えてあった。お茶はアップルティー。食後のデザートは、チョコレートマフィン。
どう見積もってもニ人前ずつの量だった。サンドリーヌは、それらを二回に分けてわたしの部屋まで運んでくれた。
ずっと眠っていたし、侯爵から「今日はもうゴロゴロしておけ」ときつく言われているから、食後はそれに従わなければならない。
ということは、これだけの量を食べてしまうと?
考える必要はない。答えは簡単である。
ということは、やはり控えめに食べなければならない?
しかし、それだとレナルドにたいして失礼にあたる。残すようなことをすれば、彼を傷つけることになる。