豹変
侯爵とお父様と馭者のピエールはいないものの、侯爵家の使用人たちはほとんどいる。休みだったり用事で他出している人はいるけれど、それでも数人はいる。この時間帯、掃除や洗濯やその他もろもろの用事で飛びまわっているので、だれかしらの姿はあるはず。特にエントランスでは、シルヴェストル侯爵家自慢の大階段の手すりを磨いたり、階段を掃いたり、床の掃き掃除や磨いたり、彫刻や絵画や花瓶などの埃を払ったりしている。だれの姿も見えないなんて、ありえない。
前庭だってそう。名庭師のヤニク・マンドルーが、いつも花壇の花々や木々の手入れに余念がない。
そのヤニクの姿も見えない。
なにより、サンドリーヌである。
彼女は、自分の用事の合間合間にわたしにちょっかいを出してくることを生き甲斐にしている。訂正。わたしを気遣い、しょっちゅう様子を見にきてやさしく言葉をかけてくれる。
その彼女の姿も見えない。
それから、運搬人たちもである。
だれも行ったり来たりしていない。
そこはまぁ、もしかすると休憩中かもしれないけれど。それでも、休憩にしては長すぎる気がする。
いったい、みんなどうしているの? どこに行ってしまったの?
そんなふうに考えていたら、前方にその運搬人たちの姿が見えた。
まだ門は先にあるのに、手持無沙汰にブラブラしている。
と認識した瞬間である。
「マヤ、準備して」
ミレーヌが小さけれど鋭く言った。
と同時に、すぐうしろに人の気配を感じた。しかも複数人の人の気配を。
うなじの辺りがゾワゾワする。
これは、なにかよくないことが起きる前触れだ。
「ギャッ」
そのとき、耳に短い悲鳴が飛び込んできた。
ハッとうしろを向くと、男が股間を両手でおさえてへたり込んでいる。
「なにをしている。さっさと捕まえろ」
うしろで頬に傷のある男が怒鳴った。
が、うしろを振り返ることが出来ない。
なぜなら、さっき見た運搬人たちよりも多くの運搬人たちが、すぐ近くに迫っていたからである。
彼らは、木々の間に隠れていたに違いない。わたしたちのうしろに迫っていたこの足元の男は、わたしをどうにかしようとしたのだ。
その瞬間、すぐ近くまで迫っていた二人の男が同時に飛びかかってきた。
「ちょちょちょっ」
としか口から出ない。
「ギャッ」
「ぐわっ」
が、男たちはわたしに触れることなくふっ飛んだ。焦るだけでかたまってしまっているわたし。しかし、彼女は違う。
「マヤ、走って。木々の間を抜けていくのよ。ここは、わたしが食い止めるから」
なななななななんと、ミレーヌがひとりを蹴り飛ばし、ひとりを殴り飛ばしたのだ。
驚きすぎてよりいっそうかたまってしまった。
「マヤ、なにをしているの。はやく行きなさい」
ミレーヌの鋭い声と凛とした姿は、まるで「戦の女神」のようである。
「わ、わかった」
やっと反応出来た。
すなわち、走りだすことが出来たのである。
「逃がすな。その女を捕まえろ」
「そうはいかないわ。わたしが相手よ」
頬に傷のある男、それからミレーヌの怒鳴り声がした直後から、乱暴な音や気配を背中で感じる。
振り向きたくても怖くて出来ない。
(ミレーヌのことが心配なのに、とにかくいまは逃げないと)
その思いだけを力に、とにかく走り続ける。木々の間を抜け、とにかく走り続けた。
そうして、シルヴェストル侯爵家の門が見えてきた。
走り続け、やっと門にたどり着いたのだ。
背後はもちろんのこと、目の前に見える範囲の公共の馬車道にもだれもいない。
ミレーヌのことを気にしながら、とりあえず門を出てみた。
目当ての馬車はなかった。見にくるはずだった門を擦ったという馬車のことである。この分では、門に擦った跡はないはず。
だけど、見にきたはずの馬車のかわりに、ド派手な馬車が待ちかまえていた。
二匹の毒蛇が絡み合う紋章が刻印された馬車が。
わたしが立ち止まったと同時に、扉が開いた。
(この騒動の元凶は、ヴァレールだったのね)
彼ならぶっ飛ばしてやりたい。
「やあ、マヤ」
が、開いた扉から出てきたのは、ヴァレールではなかった。
ヴァレールの父親である宰相シルヴァン・プランタードだった。