ミレーヌの謎理論
「マヤ、どうしたの?」
ミレーヌは、わたしのイライラの要因のひとつ。だけど、尋ねられてそれを無視するほど意地悪ではないつもり。
「馬車が出て行く際に門を擦ってしまったとか。修理等のことがあるので、見にきてほしいと言っているの」
「まぁっ、門を擦ったですって? それを修理するの? ずいぶんと良心的な業者さんね。バカね。そんなこと、だまっていればわからないわよ。擦った跡がわかったとしても、だれがやったかわかるものですか。それに、マックならたとえ馬車で突っ込んで門を破壊したとしても気にしないわ」
彼女の説明に驚いた。ただ単純に驚いた。
穏やかで人当たりのいい侯爵でも、馬車で故意に突っ込んで門を全壊されれば、さすがにムッとぐらいはするでしょう?
するわよね?
わたしだったら、完ぺきにキレてしまう。
「というわけで、気にしない気にしない。わたしとマヤもきかなかったことにするから」
ミレーヌは、あっという間に話をまとめてしまった。
「い、いや、それは困ります」
慌てて言ったのは、頬に大きな傷のある男である。彼は、大きな手をブンブン振り回しつつ言った。
「あとで揉めることになるケースが多いんです。そのときには、はやく作業を終わって欲しいから『いいからいいから』って言うくせに、あとになってクレームをつけてきて、挙句の果てにこっちが故意にだまっていたと言って多額の弁償をさせる。だから、かならずその場で見てもらうというルールがあるんだ」
業者さんも大変よね。
必死に説明をしている彼を見ると、仕事をするのってほんとうに大変なのだとつくづく思う。
「やだ」
ミレーヌは、それにたいして男好きのするような可愛い笑みを閃かせた。
彼女は、可愛いと美しいを微妙に使い分けている。
はやい話が、相手の男性によってその男性の好みのレディを演じることが出来るのである。
自慢ではないけれど、それはわたしにはとうてい出来ないスキルだ。
「マックがそんな小さい男だというの? わたしたちが言うんだからぜったいに大丈夫よ」
ふんわりと説明されると、そうなのかなと錯覚してしまいそうになった。
それは、頬に傷のある男も同様みたい。しばらくの間、彼女をポーッと見つめていた。が、頭を二度三度振ってからまた口を開いた。
「とにかく、見て下さい。ちょっと見てもらうだけでいいんです」
気の毒になってきた。
「わかりました。行きましょう」
どうせわたしが見に行くことになるんだし、それならさっさと行って見た方がいい。こうして口論をしている間にでも見に行けるはず。おたがいの時間がもったいない。
「奥様、行きましょう」
彼はホッとした表情で先に立って歩き始めた。
「わたしが行ってくるので、あなたはここにいればいいわ」
これ以上、彼女の謎理論をきくつもりはない。
「マヤが行くんだったらわたしも行くわ」
なんと、よりにもよって彼女も行くといいだした。
というか、実際ついてきた。
しかもわたしの腕に自分のそれを絡め、ぴったりくっついて。
(ああ、なんて面倒くさいのかしら)
心の中で腐らずにはいられない。
「マヤ、合図をしたら走って」
不意にミレーヌが右耳に囁いてきた。
「えっ?」
おもわず、彼女を見てしまった。すると、彼女はプックリとしている唇の前で人差し指を立てた。
「いいわね?」
いまの彼女は、いままでの彼女とはまったく違う。違うどころか、別人のようである。
彼女のすべてが、まるでまったく違うだれかのようだ。
なにがなにやらわからないけれど、とりあえず頭を上下させて了承した。
その間にも、頬に傷のある男は門に向って前庭の馬車道を歩き続けている。
そこでふと気がついた。
やけに静かなことを。