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ソニエール男爵家

「ねえ、『ブラック・ローズ』。あなたのご主人様、今日も離縁をしてくれなかったわ」


 馬場の柵に両肘を置き、組んだ手の上に顎をのせた状態で彼に話しかけた。


 彼というのは、侯爵の愛馬である。名前を、「ブラック・ローズ」という。その名前がピッタリの美しい名馬である。


 これまでお父様と一緒にいろいろな馬を見てきたけれど、彼のように精悍できれいな馬にお目にかかったことがない。わたしは、彼に会った瞬間ひとめ惚れした。


 そう。あれこそ、書物に出てくるような「運命の出会い」だった。


 彼の駆ける姿は、それはもう美しくて力強い。まさしく、この世の美と力の象徴。


 ひとめ惚れしたわたしは、彼が欲しくなった。


 残念ながら、わが男爵家に彼を手に入れるような財力はない。


 お父様に頼み込み、彼の調教と管理を任せてもらうことになった。


 もちろん、表向きはお父様がしていることにしてである。


 馬関係は、レディがしゃしゃり出るのを嫌う傾向がある。さらには、大きな馬を非力なレディが扱えるわけがないという偏見がある。


 侯爵もそんな男性たちと同じだと思っていた。


 そう。偏見と意地悪な多くの男性たちと一緒だと。


 ズボラでいい加減なわたしと違い、侯爵は何事につけてもきちんとしている。

 彼は、「ブラック・ローズ」に会いに来る際にはかならず一報入れてくれた。


 侯爵が「ブラック・ローズ」に会いに来る際、わたしは他の馬のところにいるかその場にいないようにした。


 そこまで気を使っていた。


 しかし、侯爵は気がついていた。知っていたのである。彼の愛馬を調教、管理しているのがわたしであることに。




「ブルルルル」


「ブラック・ローズ」が駆けよって来た。そして、フニフニの鼻先をわたしの顔面におしつけてきた。


 彼は真っ黒くて精悍で美しい外見に似合わず、めちゃくちゃ甘えん坊なのである。


「なんですって? 離縁しなくていい?」


 彼がそう告げてきた。


 なぜかわたしは馬の言葉、厳密には気持ちが読めるのである。


 これだけは、名調教師と名高いお父様もうらやましがっている。


 それはともかく、驚くべきことに「ブラック・ローズ」は離縁するなという。


「でもね、ブラック。侯爵とは最初からそういう約束だったの。表向きは妻として振舞ってくれたら、あなたといっしょにいていい。それだけでなく、わがソニエール男爵家の財政難も助けてくれる、と」


 お父様は、軍を辞めさせられた。


 お父様は、軍にもとからいる調教師たちに嫌がらせをされていた。いくら謙虚で人のよすぎるお父様でも、馬の調教や管理にかけては超一流。軍所属の調教師といえど、お父様にかなうわけがない。だから、彼らがお父様に嫌がらせをするのはわかる。たとえそれが悪いことであったとしても。しかし、彼らはそれをお父様に直接にではなく、お父様が任されて調教や管理をしている馬に対して行ったのである。


 お父様も自分自身に対してなら、ある程度ガマンしたはず。でも、馬に対してとなるとそうはいかない。


 馬たちの為にも辞めてしまえ。


 お父様は、そう決意した直後に辞職願いをだした。


 ほんと、お父様の潔さは感服に値する。


 お父様は、馬や牛など家畜を中心とした獣医師の資格を持っている。だから、どこかの領地でその資格をいかしつつ馬の調教師も出来れば、と考えている。


 そして、わたしもである。


 すでに契約が切れているので、さっさと侯爵家から放り出してもらい、お父様といっしょに王都から去りたい。


 その為に、この契約妻の期間中に必死に勉強をし、つい先日獣医師の資格を取得出来たばかりである。


 わたしは、残念ながら他の勉強はまったく出来なかった。だけど、好きがこうじての獣医師資格取得の為の勉強は、おもいのほか楽しく出来た。


 驚くべきことに、この王国始まって以来の最年少取得者となった。ついでに言うと、レディが取得したのも初めてのこと。もっとも、レディ取得に関しては、これまで一度もレディがチャレンジしなかったからであることはいうまでもない。


 というわけで、王都を去る準備はばっちり出来ている。


 侯爵がさっさと離縁してここから放り出してくれれば、すぐにでも計画を実行に移したい。契約満了金がもらえるはずなので、それを元手にどこかの領地に行って獣医師をはじめられればいい?


 じつは、お父様は王宮で王族の馬たちの調教や管理をしているとき、給金をほとんどいただいていなかった。


 人がよすぎるお父様は、驚くべきことに給金をもらうどころか必要経費をソニエール男爵家のなけなしの財産の中から融通していたのだ。


 ひとえに、馬たちが快適にすごせるように。健康に暮らせるように。


 そして、わたしたちが食うや食わずやの生活を送っていた。


 侯爵は、そんなわたしたちの惨状をなぜか知っていた。それで、わたしとの契約結婚が成立する前から援助をしてくれていたのである。


 もっとも、その侯爵の援助のことを知ったのは、あとになってからだけど。お父様からきいて驚いてしまった。

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