侯爵のほんとうに愛するレディ
「ブルルルル」
そのとき、背後で「ブラック・ローズ」が鼻を鳴らした。
『マヤ、きみらしくない。侯爵とケンカをしてはいけない。いっしょに帰ろう』
「ブラック・ローズ」の思いが、背中にあたった。
「ケ、ケンカなんてしていないわよ」
振り返り、彼に反論した。怒鳴り声になっていた。
「マヤ?」
驚き顔の侯爵がすぐうしろに立っていた。彼の分厚い手がこちらに伸びている。
幼い頃からの剣の鍛錬で、彼の手は分厚くて剣ダコがいっぱい出来ている。
わたしは、彼の美しすぎる顔よりずっとその手が大好きである。
それはともかく、侯爵はわたしを追いかけてきていて、わたしの肩をつかんでひきとめようとしたに違いない。
それをわたしが急に「ブラック・ローズ」に怒鳴ったものだから、彼が驚いたのもムリはない。
「マヤ、いっしょに帰りましょう。いいえ。いっしょに帰るんだ。いいね?」
侯爵の美貌にやわらかい笑みが浮かんだのは、ほんのわずかなとき。彼は、すぐにそれをあらためてわたしの本を握っていない方の手を取った。
そのタイミングで、「ブラック・ローズ」が駆けてきた。
その瞬間、侯爵の手が離れた。そのときには、彼はさっそうと「ブラック・ローズ」に跨っている。
「マヤ、いっしょに帰るんだ」
彼は、わざと怖い表情を作りつつわたしに手を差し伸べた。
「はい」
もう反抗はしなかった。
素直に頷き、彼の手を取る。
そうして、彼の前に横座りし、屋敷へと帰った。
シルヴェストル侯爵家へ。
侯爵家に戻ると、お父様が待ちかまえていた。そして、めちゃくちゃ怒られた。
「男爵邸には戻らぬこと。ぜったいにひとりでは行かぬこと」
結果、そう約束させられた。
ヴァレールについては、侯爵が警察に訴えるとともに弁護士に相談してくれるらしい。
ヴァレールがわたしに近づかないよう、法的になにか対処が出来ないかどうかを。
お母様の部屋で見つけた日記のことは、告げるタイミングを逃してしまった。けっして故意にではない。それよりもヴァレールのことが話題になっていたので、つい失念してしまったのである。
日記が隠されていたことについては、なにか意味があるに違いない。以前、お父様もそれを探していた。それから、ヴァレールも血眼になって探していた。お父様はともかく、ヴァレールにいたってはなぜ探していたのかはまったく意味がわからないけれど。
それなのに、わたしはなぜかお母様の日記が重要だとは思わなかった。
お母様がじつはどこかの国のお姫様だとか、もっとありえない推測だけど諜報員で凄い秘密を握っていたとか、そういうレディでないかぎり日記が重要なアイテムだなどとは思わないから。
というのは言い訳で、じつはまずわたしが読んでみたかった。
どのようなことが書かれているのか、読んだ上でお父様に話すか渡せばいい。
みんなが欲しがるお母様の日記……。
興味津々だった。
が、そうはうまくいかなかった。
わたしがヴァレールに追いかけまわされている間に、なんと侯爵が自分のほんとうに愛するレディを屋敷に連れてきていたのである。
屋敷というのは、当然シルヴェストル侯爵家の屋敷のことである。
「腹違いの妹のミレーヌです。マヤ、きみとおない年なのです。厳密には、何か月か彼女がお姉さんですが。とにかく、いろいろと教えてやって下さい」
侯爵は、あろうことか彼女をそんなふうに紹介した。
ミレーヌとは、以前見た侯爵と馬車に同乗していたレディだった。
すごく美しいし、可愛い感じもする。つまり、美しい系が大好きな男性、可愛い系が大好きな男性、双方に対応している容貌である。
残念ながら、わたしはそのどちらにも対応していない。
それはともかく、侯爵が彼女を連れてきたことで、そろそろわたしの偽りの妻の役目も終わりを迎えそう。
侯爵はそのことを婉曲に伝えたかったのと同時に、正妻としての心構えとか義務とかを引き継げと命じたかったのだ。




