手を握って……
「マヤ」
侯爵はヴァレールを無視して「ブラック・ローズ」から飛び降り、わたしに走り寄った。
「遅くなってすみません。ケガは? ケガはありませんか?」
やさしくて気遣い抜群の彼は、こんなときでも配慮を怠らない。
わたしに触れようと伸ばされた彼の両手が、触れる直前に止まった。あきらかに躊躇したあと、おずおずとわたしに触れる。
わたしの両手が、彼の両手にそっと握られた。
やさしくあたたかい彼の手に触れられた瞬間、またしても衝撃が走った。
そう。雷に打たれたような衝撃である。
触れられたことは何度もある。公の場では、わたしたちは夫婦。契約に基づいて夫婦を装っている。その心の内はともかく、彼は人前ではわたしの手を取ってエスコートしてくれる。そして、わたしはわたしで彼に手を取られたり、彼の腕に自分のそれを絡めてエスコートされたり甘えたりする。
そのようなときに一度もなかった衝撃が、いまこのタイミングで体中を駆け巡ったのである。
いいえ。衝撃だけではない。雷に打たれたような感覚と同時に、頭の中になにかが閃いた。雷の光とは違った。光というよりか、なにかの映像? 光景? なにかそういうものだった気がする。
それらが一瞬にして頭の中で炸裂し、全身を駆け巡った。
「マヤ、どうかしましたか? どこか痛むのですか?」
「触れないで下さい」
動揺というか混乱というか、とにかく驚きすぎた。
おもわず、わたしの手に触れている彼の手を払いのけてしまった。
「マヤ……」
目と目は合っている。イヤというほど。
その彼の美しすぎる顔に浮かぶなんとも表現のしようのない表情。
悲しみ? ショック? 困惑? 疑問? 非難?
とにかく、いま彼の美しすぎる顔に浮かんでいるのは、二度と忘れることの出来そうにない表情である。
その表情を見た瞬間、罪悪感に苛まれてドン底に突き落とされた気がした。
が、いまさら自分の行動を取り消すことは出来ない。
「ハハハッ! どうした、マック? ざまぁみろってやつだ。マヤも貴様の浮気癖に辟易しているんだよ。なぁ、マヤ? さぁそんな奴とは離縁し、おれのところに……」
「うるさいわね。だまってちょうだい」
ここぞとばかりに煽り始めたヴァレールをさえぎり、ピシャリと叩きつけてやる。
「ヴァレール、あなたも同じよ。この二重人格。というか、わたしを利用するつもりだったんでしょう? 冗談じゃないわ」
ヴァレールの方を見ることなく、誹謗中傷を投げつける。
視線は、まだ侯爵と合わせたまま。というか、彼の碧眼から自分の黒い瞳を外せないでいる。
「マヤ、違うのです」
「『違うのです』ですって? 侯爵閣下。そもそも、わたしたちは最初から違っています。なにもかもがです。いまさらおっしゃっていただかなくて結構ですっ」
(ギャーッ! わたし、いったいなにを言っているの? いま、このタイミングでそんなこと言う? っていうか、ここはお礼を言うところよね? 助けてもらったお礼を言うところよ)
自分の口から飛び出した言葉に自分で驚いた。
わたし、いったいなにを言っているのよ?
自分の言動すべてが信じられない。
「とにかく、わたしは、わたしは帰りま、いえ、行きます」
侯爵家に「帰る」と言いかけ、なぜか「行きます」と言い直したことにも驚いた。
(なにこれ? わたし、いったいなにを意地になっているの?)
意地をはっているとしか考えようがない。
モヤモヤするからイライラする?
ヒステリーを起こす一歩手前状態のまま、侯爵に背を向けた。
スタスタと大股に歩き始める。
全力で走りまわったせいか、足だけでなく体のあちこちの筋肉に違和感がある。




