侯爵、登場!
ヴァレールが飛びかかって来るのを待っていたのだ。
鍵を解除した扉をおもいきり開け、うしろに飛び退った。
ヒラリと宙を舞う。って自分ではそのイメージで飛び退り、地面に着地した。
わたしに飛びかかってきたヴァレールは、目標物を失ってそのまま顔面から地面にダイブした。
それを確認する暇はない。
背を向けると走りだした。
(今日は最低な日だわ。いったいどれだけ体力を使うの?)
足をフル回転させつつ、心の中で腐らずにはいられない。
門を飛び出し、馬車道を一目散に走り続けた。
なにも考えず、ただ足が動くままに任せる。
気がついたら、シルヴェストル侯爵家のある方角に向っていた。
(そうよね。いまのわたしには、あそこしか帰るところがないんですもの)
そこで気がついた。
「行くべき」と表現すべきところを、「帰る」と表現していることを。
が、そんな悠長なことを考えてはいられない。
地面に全力で口づけをしたはずのヴァレールは、すぐに立ち直ったらしい。追いかけてくる。しかも、もうすぐ追いつかれる。
いくらわたしが俊足でも、そもそも足の長さが違いすぎる。それに、やはり男女の差は大きい。
「チビッ、待てよ」
どうやら「おまえ」呼ばわりから、「チビ」呼ばわりにかわったみたい。
わたしもえらくなったものである。
って、そんなことはどうでもいい。
だれもいない真昼間の馬車道を、ひたすら走り続ける。それなのに、すぐうしろにヴァレールの荒い息遣いを感じる。
腕を伸ばせば、襟首をつかまれる。
不安と焦燥でうしろを振り返れない。しかも、汗が目に入って前が見えにくい。
(もうダメ。侯爵、助けて)
自分でも驚いた。
(助けを求めるなんて。しかも、侯爵に?)
驚きのあまり、速度が遅くなった。
その瞬間、暗くなった。大きな影が射した。
反射的に上を向いていた。
巨大な影の正体に気がついたとき、驚きよりも安堵した。
心から、安心とうれしさに満たされた。
「マヤに、妻に触れるな」
侯爵である。「ブラック・ローズ」に乗った彼が、わたしを守るようにしてヴァレールの前に立ちはだかっている。
つい先程の大きな影は、「ブラック・ローズ」がわたしを飛び越えたその影だったのである。
「わたしの妻を傷つけた貴様は、ぜったいに許さん」
侯爵は、馬上堂々と宣言した。
その雄姿は、まさしく子ども向けのお話に出てくる「白馬の王子様」だった。
訂正。「黒馬の王子様」ね。
その雄姿がカッコイイということよりも、「わたしの妻を」の一言に心を揺さぶられた。
揺さぶったどころか、雷に打たれた以上の衝撃だった。
とはいえ、これまで一度も雷に打たれたことはないのだけれど……。
「マック。貴様っ、邪魔をするな」
そう怒鳴ったヴァレールの顔をよく見ると、傷だらけになっている。しかも、彼はソニエール男爵家の窓ガラスを割ったり、わたしが扉を開け閉めした際に体のあちこちを打っている。
彼の満身創痍感は半端ない。
その状態で書物に出てくる小悪党のような台詞を吐く彼は、正直ダサすぎる。




