キャラクター
ある人間が、幸福な物語をかいた。
だれにも読まれず、誰にも好かれず、誰にも嫌われない物語だった。
その物語に手を加えるまえに、彼はその人生をおえた。
彼は死の間際に不幸な人生を呪った。親に捨てられ、知らぬ大勢の人々に暴力をふるわれ、学校に通うこともできず、成人するまえに死んでしまうのだと。
彼の目に映る世界は残酷だった。彼は道端に捨てられた本で“物語”を学習したが、人々が幸福に暮らし、多くの人間はキャラクターを演じきるまえに人生を終える。そもそも人々に好かれる“キャラクター”ほどの幸福さえ彼はもっていなかった。家族もない、学校も知らない、自由もしらない。時間が足りない、資金がたりない、ありとあらゆるものがない。けれど物語を知ってしまった。だから彼がかいた物語、その世界は“平凡な満ち足りた世界”を書いたのだ。けれど人々は彼の物語をよまず、好かず、嫌われもしなかった。
彼は知らず知らず病に倒れ道端で一度目の人生を終えた。
次に目覚めた時には、彼の意識は電脳空間にあった。彼はその中の従業員だった。いわば電脳世界で働き、人々にその世界が本当にあるかのように演じる演者であり、キャスト。けれど彼はしらない。
その人生がいつはじまったか、いつ終わるのか、彼はしらない。
それでもその生活がいつまでも続けばいいと思った。
だって“かつての”人々は退屈な物語を嫌ったから。
刺激がなく、残酷さもなく、苦痛のない物語を嫌うから。
それが不公平の源だと知りながらも。誰かの苦痛こそが、それを独占しようとするものの富と喜びになる。
そんな世界を呪っていた。
けど今は違う。その電脳世界を訪れる人間は、皆が皆“いいひと”で残忍さも悪意も苦痛も刺激も求めなかった。
彼の脳は機械化、生活もすべて電脳化されて、エネルギーやメンテナンスはある企業によって“管理”されているキャストだった。彼は、その電脳空間が“誰によって、誰に提供されているか”をしらない。
その方が幸福かもしれない。
真相はこうだった。彼が二度目の生を生きるまえに人間は滅びた。現存する人間は“脳”だけを持つサイボーグや、“脳”そのものの機能を機械化した人間だけ。それもすべて“新しい存在”に提供されている。
“新しい存在”は、“不幸な死”を持っている人間を探した。なぜなら彼らにとって娯楽作品に登場するような“キャラクター”は色が濃すぎ、刺激を求めすぎ、苦痛や残酷さを求めすぎたからだ。
“新しい存在”は、妬みを持たず、意味のない悪意を持たず、まるで“ある人間”が描いた幸福な物語の主人公のような存在だった。けれどそれは人間ではなく、人造人間なのだった。
“幸福は平均化されるべきだ”
その理念のものに設計し、つくられた人造人間は、まるで人間の精神と肉体の不完全さを補うように、地球の環境問題や、富の分配の問題を解決し、一つの戦争さえ起こさず地球の終わりまで地球を支配したという。
彼の演技と、時々おりなす物語は電脳世界で愛され続けた。彼の平坦な物語は、“同じように感受性が豊で、世の不公平さに心を痛めるものにのみ響いた”。