『夢幻のあとで』
《あぁ、なんということだ……》
低く澄んだ声で話す彼は人の姿をしていない。
本でしか見たことのない――伝説の聖獣。珍しい銅色の毛を生やした、美しい一角を持つ獣と成り果てた。
茫然と立ち尽くしていると、いつの間にかアレクトラが目前に近づいて頬に手を当てた。ふわり、と柔らかに笑みを浮かべた彼は意味深な言葉をかけた。
それは後にゼロを長い間、苦しめる。
「真実を見てくるといい。もっとも」
敬礼を払うように膝を曲げてひれ伏し、ゼロの白い手をとった。
「深い真実は君自身にあるのを忘れないでね、我が愛する――レオ」
手の甲に接吻を受け、思わず手を引っ込める。得体の知れない彼の本心は、成長してもやはり分からない。アレクトラはそんな反応に笑い、側から離れた。
従兄を睨み、切り返して祖父の元へ足早に駆け出す。
《お嬢様! いけません、マスターのもとへ行っては!!》
シリウスが悲痛な叫びを発した時、少女の姿は既になく、廊下に虚しい響きが残った。
ディアスは天井を見上げた。
屋敷を覆う結界の力が弱まり、個人の魔力を微力ながら関知できるようになっていく。電灯が切れ、朧げな月明かりがディアスの後ろ姿を照らす。
もうすぐ愛しい娘の甘い夢幻が終わる。
「お祖父さ……」
半壊した扉から一歩踏み入れたゼロは言葉を失った。
飛び散った赤い飛沫、割れたグランドガラス、穴の開いた壁。物音一つもなく、月光が静寂な部屋を照らしている。
「ディアス」
古金色の瞳が静かにゼロを直視した。
足元に横たわる変わり果てた祖父の姿。流れ出る赤い水が彼の足を飲み込んでいく。叩きつけられた目前の信じがたい現状に体が金縛りにあったように動けない。
冷たい瞳で見ないで。
いつも向けられる、優しさをたたえた瞳が今はない。
「なんで……」
聞きたいことは沢山あるのに、全てが渦のように思いが混ざって言葉にできない。ディアスは一言も発さず、ただ後ろへ下がるだけだった。逆光で顔がよく見えない。
「いつから……姉さまと」
「覚えてねぇな」
感情のない声に一瞬体を震わせ、彼を見据える。
割れた窓から侵入した風が空気を切り裂く。
「そろそろか」
顔を合わせたように思えた突如、視界が歪む錯覚が現れた。
瞬く間に室内が変貌していく。
思わず床に横たわる祖父にしがみ、変化が終えるのを待つ。
違和感が消え、恐る恐る瞼を開ける。大きく穴の空いた床、埃臭い空気。壁に掛けていた絵画はすべて床に落下し、硝子の欠片が散乱していた。割れた音すらもしなかったのに。
ディアスはどうやったのか、気を取られてる間に姿を消してしまった。朽ちた窓からは白みを帯び始めた紺青の空が一面に広がる。
「バカな男だな。僕も殺せばよかったのに」
『神の血なんて私たちが継げば、十分だと思わない?』
懐かしい声が頭の奥深くで蘇る。
今の自分にとっては憎悪の核である、姉。
天使のような優しい笑みの下に隠された、憎悪は事が起きるまで誰も知らなかった。
『大好きよ。可愛い、私のレオ!』
無意識にに頬を一雫濡らす。
深い紺の混じった夜色の髪、古金の瞳。
大好きな夜を表現した色だと思った。
連行された時、老人は部屋に置き去りにし、聖獣の二人に押し付けて去った。その頃からシリウスは既に祖父の忠実な使役で、問題児と見られてたディアスだけが手を握ってくれた。
その手を離さず、近くにいてくれたのに。
「お祖父さま、ごめんなさい」
――『存在を忘れろ、この偽りの楽園を』――
忘れるなんてできない。
怒りが湧き上がり、心がどす黒く変貌する。同時に悔しさが込み上げて嗚咽を漏らした。
なにもかもがゼロを束縛し、楽園が仄暗い水の底から逃がさないように感じる。
楽園、楽園、偽りの楽園――アークリオン(箱舟の楽園)小王国。
祖父の顔に視線を落とす。眠っているように思える、その顔は苦悶の表情がわずかに滲んでいた。
「今までありがとう」
これは、最初で最後の、感謝の意。
頑丈な籠の中の居心地は思いの外、悪くなかったと思う。
「籠の向こうは、もう待っててくれないみたいだ。外に出るのを許してください」
答えはないのを知りながら、それでも誓いをたてる。
「僕がエディン家を蝕む罪鎖を紐解いてきます」
朝は、もうすぐそこにある。
◆
廃墟と化した屋敷外で、一つの煙が夜の明けた蒼空へ吸い込まれていく。ゼロは青天井を見上げたまま動かない。風は美しい白銀の髪を揺らし、通過する。
背後でシリウスはただ、時間とともに経過するのを待つのみだった。
これは今から少し前の話になる。
屋敷が朽ちた表面を露見した時、青年は煙のように消え失せ、赤銅色の毛並みをした一角獣は一人途方にくれた。
「あ、シリウスいた」
ぎしむ廊下を歩こうと前足をあげると、ゼロが廊下の端から現れた。穴を避けながら彼女の元へ近づく。
さっきまで泣いてたのだろう、瞼が多少腫れているのがわかった。
「手伝って欲しいことがあるんだ」
いつもと変わらない様子で言われ、シリウスは拍子抜けした。
余計に緊張してしまい、言葉を慎重に選びながら内容を聞く。
《手伝ってほしいことですか?》
「お祖父さま」
はっとして娘を直視する。
「せめて僕たちだけで見送りしよう。火葬にしたいんだけど、僕だと力不足だから契約して」
《鉱石を使用すれば》
「それは却下」
おねだりする子どものように、ゼロはしゃがんだ。
「本名は?」
《困ったお嬢様ですね》
そう真摯な瞳を向けられたら、こっちが折れざるを得ない。
《シレイスト・ドルイウス――まずいと思ったら中断してくださいね?》
「心配性だな、大丈夫だよ」
額をでこぴんされ、永遠に若いままの娘を見上げる。
赤い小さな唇が動くや否や足元を巨大な魔法陣が流れるように描かれていく。
「風に巣くう陰陽の者、光を臨み闇を糧に――我が汝に命じる、契約者の名を」
《ゼロ・E=エディンを私の主と認める》
前へ伸ばしたゼロの手首を風が覆う。僅かな唸りをあげて皮膚が裂ける音がした。ゼロの血が翡翠の光に混じり、文字をなぞる感触が角から伝わってくる。
同時に橙の閃光が身を包んで暖かくなった。
「我の力を糧に、是、蘇らん」
気がつくと、ゼロより少し高い目線に立っていた。視線を両手に落とし、少しして再び娘を見る。
「なにか違和感とかある?」
「いえ、十分です」
契約が成功したのにも驚きだが、それ以上に亡き主より魔力の余裕が体の芯から感じとれる。
亡き主の言葉が少しわかったような気がした。
「肉が裂ける瞬間は好きになれないな」
「それはそうでしょう」
そして――現状に至る。
弔いの黒煙が徐々に細くなっていく。
ふと、ゼロの手の甲に接吻をした青年を思い出す。
柔らかな眩しい金髪、瞳は恐らくエディン家独特の紅系だろう。
亡き主が“祖父様”――となると、少なくともゼロの従兄なのがわかる。
「あのアレクトラという青年ですが、お嬢様のことを『我が妻となるはずだった』と……」
「そうだろうとは思ってたけど、まだ諦めてなかったんだな」
「なにかあったのですね」
執着心の強さにゲンナリし、見届けたゼロは枯渇した噴水の縁に腰を掛ける。泳いでいたはずの錦鯉は、一匹もいなかった。
「さぁね。どうだったかな」
真紅の瞳が鮮やかにシリウスを見据える。
否定も肯定もない。