『裏切り』
時間がないことにアレクトラの表情が多少険しくなる。
「ちっ。レオもどこに惚れたのかわからないねぇ」
恋は盲目っていうし、とアレクトラは律儀にお辞儀をすると窓へ姿を消した。
胡散臭い青年がいなくなり、ディアスと影の黒い犬が数匹が残された。犬は並大抵の大きさより二周りも大きく、低く唸り反撃の機会を手繰っている。
聖獣としての能力がない分、ディアスは勝手に奪った鎌という武器があり、明らかにシリウス側が不利である。影から造成された犬の手前、武術ではすり抜けてしまう。弱点である雷光でかき消し、ゼロを早く保護しなければならないのに。
「焦るな。シリウスはアレクトラを追え」
「ですが……」
冷静な声にシリウスは反論しようとしたが、力強い瞳に口を慎む。主の身が不安だが、今の自分にできることは一つしかない。
「承りました」
シリウスが扉に手をかけた、その時。
「シリウス――レオを頼んだぞ」
初めて、彼女の名を呼んだ驚きが混ざり、変なふうに返事してしまった。
「は、はい!」
強く頷き、シリアスは月光が照らす薄暗い廊下へ出た。
「いいのか、レトが先に行ってるのに」
「追い越せば十分だ。相変わらずお主は問題児のままじゃ、余計なことをしおって」
エウクレイウスは軽蔑の眼差しを裏切り者に向ける。
「師匠は相変わらず人嫌いが激しい」
嫌みを含んだ皮肉を受け、エウクレイウスはディアスの影に、幼き頃の彼を映し描いた。
「あの日拾ったのは間違いだったようじゃ」
その言葉に彼は自嘲気味に笑い、傍らにいる黒い犬を撫でた。
「“アリス”側に荷担して、何が目的じゃ」
しばしの沈黙が続き、聞こえるのは獣の唸り声だけ。
「答えぬのも当然か」
老人は短いため息をつく。
「話を変えよう。娘と交われば一角獣といえども無事で済ますはずがない。純潔の花を散らす行為は危険を伴うーーじゃったよな」
ディアスの体が僅かに微動した。
本来、一角獣は一線を引く生き物だ。
それ故に純潔の娘へ近づく男を引き裂く、獰猛さを持ち合わせている。そして一線を越えると双方に、何らかの形で悲惨な結果を迎えることが多い。
「あんな風にならないよ」
静かに声を落としたディアスの瞳が真紅に染まる。
「お主――……!」
驚くのをよそに、ディアスは鎌を掲げた。黒い鎌の先で電気が出現し、火花を盛大に放出しては縮小を繰り返す。
エウクレイウスは眉をつり上げた。
影から創られた鎌に生じないはずの雷に首を捻りたくなった。
「オレは道を外した一角獣だから関係ない」
「お主もか、アレクトラと同じ道を辿ってどうするつもりだ⁉︎」
「さぁな」
反省の色もなく、ディアスは無表情でただ直視していた。
映し出される景色は今やなにを見ているのかさえ伺い知れない。
もとより、親交を深める気はなく、永遠に理解しないままでいいと思った。
「残念じゃ、契約違反棄により消してやろう」
「消えるのは師匠の方だ」
彼がその魔力を最大にした瞬間、エウクレイウスは驚愕した。
体の芯まで震え上がるほどの波動が老体の身で受け止めるにはきつい。
この巨大な魔力は一体なんだ。
「今日をもつて『時空の魔術師』はこの世から消える」
そしてもう一つ知る。
――命を堕とすのは間違いなく自分だと――
『E家のせいで争いが生まれるのなら、この子たちを護るだけだ』
『もう嫌! ただ、生きてほしいだけのどこが我儘なの!』
亡き息子と娘の姿が走馬灯のように蘇る。
アレッサンドロ、アンジェリナ。
小王国と共に燃え盛る業火の中へ散った。
――お主たちの言う通り、罪の血を持つ者は滅びるべきか決めれば良かった――
◆
――酷い。
廊下を慎重に歩く途中、塊が予想外に散乱していた。骨がわずかに見える手であったり、眼のない首だったり――。四方八方切り裂かれたその屍は、気配からして紛れもなく祖父の作られた使役だ。激しい防衛戦の痕跡に、なぜ気づかなかったのか悔やまれる。
あの日と同じ。いつもの見慣れた人が突然原形もなく、血塊に変わり果てていた。鮮やかに蘇る記憶、比例して高鳴る心臓の脈。
逃げ出したい。
「――――」
突然降ってきた声と同時に、風切りの音が空気を引き裂き、ゼロは反射的に横へ跳んだ。
影に似た槍が床に突き刺さり、消えた。
次の瞬間、現れた相手の姿に目を見開く。
「レト兄……」
「お久しぶりだね〜。元気なようでなにより、会いたかったよ」
アレクトラ・I=エディン。
「僕は会いたくなかった」
父の兄の長子でありながら、道を踏み外した者だと聞かされていた、禁術の使い手。
かつて父が煙たがった一族で、彼を快く受け入れた母と喧嘩をする原因を生んだ。
デザートに満足したように、アレクトラは舌なめずりをした。
「遥かに美しくなったね、あの子より。嫉妬しちゃうかな〜」
「あいつと比べるな、愚図が」
「なかなか口の悪さも磨きがかかる育ちを受けたようで」
さっきから逸らさずに射る、禁断の紅瞳。その毒々しく鮮やかな瞳を見たのは何年ぶりだろう。
「だいたい、その瞳はどうした。闇を落とした素敵な紅だったのに」
「契約した代償と、現在は力を放出してるからねー。見苦しいのは許してー」
緊張感を感じさせないその声色は明るい。
「なにしにきた」
軽い金属音を立て魔術を発動し、出現した金の銃を構える。祖父から譲り受けたものの、必要性がないと判断し閉まっていた。遠くない将来、使用する時がくるだろうと予感はあった。
こんな機会で使う事になるなんて。
「……君を殺しに。冗談です。おっと、怖い顔をしないで〜、最高傑作ともいえる顔が台無しだよ」
王国が存在してた頃と変わらない笑顔で宥められ、ゼロは睨んだ。
「ペラペラと……お前、大っ嫌い」
「嫌われたものだね〜、俺はレオを愛してるのに」
引き金に指をかける。瞬時に相手の視界から姿を消し、青年の幅広い背に銃口を充てた。
「その口を利けなくしようか」
「物騒な行動をするようになりましたねぇ」
「お前たちのせいだ」
増大する憎悪を押し込め銃口を推し、術を発動させる。淡い孔雀色の円が床に浮かび、周囲を取り巻く風が瞬間に発生して低い唸り声をあげた。
「愛しい我がレオ。恋人に裏切られるなんて、運命は酷だねぇ」
やけにゆったりな彼の言葉で引き金にかけた指が一瞬強張る。
「だれが、裏切る……?」
横顔に挑発的な笑みが浮かぶ。
「ふふふ、〝ディアマント・スリュシュ〟が」
告発された名前に瞠目する。
紛れもなく、契約者にしか知らない本来の字だったからだ。知りたいと粘ったら「特別だ」と耳元で教えてくれた、――本名を。
「うそ」
集中力が鈍り、翡翠の円は光を喪い消失した。動揺が精神を支配し、次のことを考えられない状態に陥る。
ほんの数時間前まで愛し合った痕が染み着いてる体。
信じたく、ない。
ほくそ笑んだアレクトラがゼロへ手を伸ばす。
「お嬢様に触れるな!」
聞き慣れた声がし、ガラスの破片がアレクトラを目掛けて空中を切り裂いた。いとも簡単に避けられ、壁で粉々に散らばる。
「シリウス」
シリウスが現れたことに気を取られ、従兄に背後を回られる。
――しまった!!
「残念。意外と早いお迎えで」
アレクトラの細長い指が首筋に触れ、愛おしそうに肌をなぞる。
その感触が不愉快で距離を取る。
「っ、お祖父さまは!?」
息を切ってる彼に休む暇を与えずに問いた。
「すみま、せん……」
やっとの謝罪に目を見開く。
「まさか……」
次を言いかけた瞬間、異変が起きた。
突如、シリウスが苦痛の表情を浮かべて淡い橙の光を放出した。
瞬く暇もなく彼の姿は光に守られるように丸く包まれる。
「シリウス!」
――その光は契約が解けることを意味する。
聖獣は本来の姿で生き、どんなに優れた魔力を持とうと、決して人型にはならない。契約を結んだ者の魔力を受けて、初めて人型になる。
今は祖父の魔力を受けているシリウス。