『夢幻《ゆめ》が、おわる』
ふと異様な違和感でゼロは重い瞼を開く。
部屋は漆黒に包まれ、月光が窓から静かに差し込んでいる。今は真夜中だろうか。梟や狼が遠出に鳴くのに、耳に届く一声はない。明らかにおかしい、張り詰めたような空気。自分の部屋ではない錯覚を神経が感じている。
あまりの異質さに体を起こし、はずみで軽く視界が歪んだ。
「ディアス! シリアス!!」
精一杯、力の限り二人の名を呼ぶ。
すぐに扉が開いて、どちらかが顔を出してくれるのがない。
「ちょっと誰かいないの!?」
いつもの祖父の監視があるはずーーそれでも無音の中を声だけが虚しく木霊する。まるで自分だけが世界に取り残されたような気分だ。
「あぁ、もう!」
祖父の造成した使役さえも様子を伺いにきてくれない。
抑制できずに湧き上がる不安を抱え、冷たい床に足を下ろす。手探りであてたスリッパを履くと真っ先に扉へ駆けつけた。
勢いよく開けた瞬間、濃厚とした血臭が鼻をつき、ゼロはむせった。両手で抑えても、隙間から入るほどにきつい。
廊下に目を移したとき、その情景に言葉を失った。
真っ先に視界に飛び込んだのは暗い鮮血。廊下のランプは粉々に割られ、小さい破片が散乱していた。月光を浴びて不気味に煌めきを増す。赤黒い飛沫が廊下や窓にかかり、大理石の床は赤い水たまりや、点々とした血で塗られている。
すべて祖父の魔術で創られた『夜の番人』――の残骸だった。
なぜ、そんなことに。
「えっ……」
不意に既視感を覚えて立ち尽くした。
思考に到達したのは忘れもしない悪夢の日。
「そんなバカな……」
シリウス、ディアス、そして祖父。この時間帯、屋敷のどこかで起きているはずだ。
一族のなかでも祖父は強い方だから、きっと大丈夫。
そう信じ、音を立てないように長い廊下を歩き出した。
◆
その頃、シリウスは硝子の欠片が足元に散乱するなか、マスターの前を塞ぐように立ち上がっていた。
夜足が冷えるという主のために、いつものように暖炉に火をたち起こしていたのに。他愛のない談笑をしていた刹那、突如として杖を横に振り下ろされた。瞬時、爆音とともに硝子がシリウスたちを狙撃した。
条件反射で目を瞑ると、小さな風切り声が顔の横をかすめ髪が切られてく音を聞いた。恐る恐る周囲を見回すと窓は粉々に砕け、大理石の床に欠片が無残に散らばっていた。瞬く間に室内が闇になり、どうやって入ったのか、招かざれる客の気配がある。
「アレクトラか」
嫌悪感を露わにしてエウクレイウスが見知らぬ青年の名を呼ぶ。
「お久しぶりですねぇ、祖父様」
月光に照らされた胡散臭い笑顔の青年は口端をあげた。どことなくゼロの父、エウクレイウスに似た顔をし、明るい金髪をかきあげた。
彼の瞳が赤く染まる。
「その瞳は……レト」
「そうです。“禁忌の者”と契約したご褒美に」
冷笑した青年が右手を開くと、褐色の焔が彼を囲んだ。
「焔使い……」
青年は褐色の炎で浮かび上がった自分の影を見下ろした。
塗りつぶされたような黒い鎌が出現し、独りでに浮遊し始める。
「シリウス引っ込むがよい。あれはまずい」
「いえ、私はマスターの使役です!」
右手に力を集中して簡単な雷光を発生させる。
違和感を感じた瞬間、電流が走り暴発した。
痛みが全くない変わりに、気の流れが蓋で閉じられたような感じがする。
「我が家に何をした」
シリウスの異変に気づいた老人が威圧的な口調になる。
薄く焦げた自分の手に目をそらし、左手も集中しようと試す。気の流れが全くつかず、唖然とする。
「聖獣の魔力を無能にするだけ、のね。結界を張りました」
紛れもない、禁忌術の結界に言葉が出なかった。
主の、冷静なる声が頼もしく感じる自分が情けない。
「小王国を滅ぼす手助けをしたのはお主か」
「その他諸々手伝いましたけど主役は私ではありませんよ」
明らかに彼はこの状況を愉しんでる。
「堕ちたレトよ。狙いはゼロか?」
「えぇ。当たり前でしょう」
褐色の炎が消え、アレクトラは鎌を手中に握った。
「我が妻となるはずだった彼女に会いたいのです。さぞかし、美しく成長したでしょうねぇ……いけませんか?」
人の良さそうな顔で青年がにっこりと笑うと、老人は軽く舌打ちした。
「そのセリフを聞いたら余計会わせんわ」
「妻となるはずだった?」
意味が分からず、シリアスが不意に聞き返すと嘲笑が返ってきた。
「本当だ、なにも知らないんですねぇ。鎖に繋がれた、ただの使役か」
その言葉にシリウスはむっとし、薄暗い中、月光を受けている青年の動向に構えた。
「あ、そうそう。良いこと教えてあげましょうか? レオ、誰かと寝ているんですってね」
思いもよらないアレクトラの言葉に瞠目する。
「わしは“アレ”には一切人間を近づけてはおらん!」
主が険しい表情で声を荒げ、杖を向けると容赦なく攻勢した。出現した風の結晶は鋭利な氷柱となり、迷うことなく真っ直ぐに彼を目掛ける。
「おっとっと。短気は損ですよ」
避けたアレクトラの背後にある割れた窓から、墨で塗りつぶしたような犬が数匹侵入した。
「そりゃあ、人間ではない男に決まってるでしょ。あぁ、そもそも人として認識しないんでしたっけ」
青年は犬が侵入した窓に目を移した。
軽やかに姿を現した人物に、シリウスは言葉を失った。
「ご苦労さま。ものすごく助かったよ〜」
“彼”はアレクトラの近くに歩み寄り、無表情で影犬の頭を撫でた。
ぶっきらぼうな雰囲気は変わらないものの、受ける印象がまるで違う。触れれば、優しさを感じさせた雰囲気はまるでひっそりと浮かび上がる月のように不気味だ。
束の間の視線を受け、空気が重く感じたのは気のせいだと思いたい。
ーーそこにいるのは誰だろう。
「ちゃんと綺麗に終わった?」
「一人でやらせといて良いご身分だな、レト。問題はないが、いくらなんでも『アレ』は気づくだろ」
「承知の上です。さすがだねぇ、ディアス」
氷のように冷酷な瞳を宿し、飄々とした青炎の如く力を持った――聖獣の化身。
地が揺らいたような衝撃を受けた。
二人が恋人同士なのはなんとなく気づいていた。心を閉ざした過去がある彼だから当然だという気持ちが少なからずあった。ゼロの世話は全て兄弟子に任せ、自分はマスターを護る。
そういう構図は揺らぎのない信頼となった。
「シリウス」
「はい」
主に顔を合わせず、背けたまま返事をする。
「お主は知っていたのか」
口調は滑らかなのに、棘を含んだ言葉に冷や汗を感じて萎縮する。
「薄々は……すみません」
信頼してた兄弟子の怜悧な声が遮る。
「知っていたとしてもお前は言えない。孤独で飢えていた娘は楽だったよ」
遠まわしに言えば言うほど、娘は不安を無意識に飼う。それを利用して愛さえも与えていた。
「お嬢様が知ったら……っ!」
「ーーいつか甘い夢幻は覚める。それだけだ」
そんな裏切りがあっていいはずがない。人知れず寄り添い、お互いにしか見せない表情があるのを誰よりも身近で見てきたシリウスが一番知っている。
それさえも捨てるというのか。
初めて向けられた兄弟子の哀れみのこもった、笑み。
「何も知らないお前はついていくだけでいっぱいのようだからな」
愚かなで可哀想な、シリウス。そう聞こえた気がした。
「ディアス、後は任せる」
話を中断され、ディアスは忌々しく瞳を相手に向けた。彼の性格をよく知り尽くしているのだろう、鎌を取り上げると睨んだ。
「あまり苛めるな。結界倒壊まで暇はないぞ」